昨日からテレビは御嶽山の噴火の惨状を報じ続けている。紅葉が絶好の季節、しかも登山者の多い正午に突如起こった噴火は、想像以上の人々を巻き込みテレビ画面を通じても恐怖を誘う。
実は私は、昨年5月、二泊三日で木曽路を下った。木曽福島出身のH氏の案内で、手作りの内容豊かな旅であった。思い返せばその旅は、御嶽山を見る旅ででもあった。H氏はあらゆる角度からこの山を紹介し、それが木曽の人々にとっていかに「心のふるさと」、「父なる山」であるか、また「心の安らぎと勇気を与えてくれる山」であるかを語った。
私たちは毎日、朝も夕も御嶽山を眺めた。そして木曽の人々とこの山の深い結びつぎに思いをはせた。まだ残雪をいただく御嶽山の美しい姿は今も瞼に残っている。
あの美しい山が、何に怒ってこのような惨事を引き起こしたのだろうかと心が痛む。今年も異常気象が続き、土砂災害などこれまた想像を超える惨事が起こっている。人類は、何か大きな過ちを咎められているのではないか? かくいう私も、あの風光明媚と美食に浸った「豊かな木曽路」を味わって一年数か月後の事だけに胸が痛む。
思い起こせば、2010年秋に「三陸の旅」に出かけた。久慈に始まり北山崎、浄土ヶ浜、碁石海岸、気仙沼などその美しさに酔い、また三食とも豊かな海の幸を味わい美味しい酒を飲んだ。その半年後、その地を大震災と津波が襲いすべてを壊滅させた。
あの時の思いが再び過る。何か悪いことをしたような後ろめたい思いが…。
噴火の片鱗も見せなかった美しい御嶽山(2013年5月10日撮影)
7~9月とやや過密日程が続き不安を感じていたが案の定、今週月曜日から体調不良に陥っている。何だか気分が悪く、酒も飲めない(というより飲まない)。それなのに二日酔いのような気持ち悪さが続く。何日も続くと、このまま治らないのではないかと不安になる。
過去何十年も飲んできたので、その悪酔いが現れて死ぬまで続くのではないかと思ったりしている。ついに昨日かかりつけの柴本先生(内科)を訪ね、とりあえず諸々の検査をすることになった。レントゲン、心電図に始まり血液検査から、ポルターという心臓の動きを24時間記録する装置を身に着け寝苦しい一夜を過ごした。
病気というものは医者に行くと治ってくるもので、ちょうど治りかけている頃に医者に行くからなのか、今日はだいぶ気分がいい。制吐剤の胃薬も2種類もらったし、これから快方に向かうと信じている。
悪いことばかりではなく、目の注射から20日経った一昨日、上記の通りの体調不良を押して経過観察に東京医大を訪ねると、こちらは経過良好ということだ。視力は0.8に回復、黄斑浮腫(むくみ)の指標は380から260に改善。250以下なら正常値というから注射の効果を多としなければならないのだろう。
捨てる神あれば拾う神ありで、この老人を生かすためには少しはよい目にも会わせる必要があると、神も苦労しているのであろう。
ひっそりとわが庭に咲く彼岸花
昨日、目白のレストラン『マックスキャロット』で、恒例の「ミャゴラトーリ支援者の集い」を開催した。今回は、7月に受けたNPO法人認証の祝賀会も兼ねて大変盛り上がった楽しい会となった。
何よりも集まってくれた支援者や関係者が、ミュゴラトーリの成長を喜んでくれ、将来を期待して祝福してくれたことがうれしい。出演の歌手たちは熱唱してくれたし、参加者の皆さんは心温まる励ましの言葉を与えてくれた。
先ずは歌手たちの熱演と会場風景のいくつかを。
薮内俊弥(バリトン)と里中トヨコ(ソプラノ)
バスバリトンの大澤恒夫
テノール青柳基晴
『ラ・ボエーム』のチラシを手掛けてくれたお二人も駆けつけてくれた。
(上)朝倉真理さん(イラストレーター)、(下)太田公士さん(デザイナー)。
みんなお目当ての歌手と懇談して記念撮影
マス席の楽しみは、飲みながら食べながら観戦できることだ。日本伝来の興行は、歌舞伎にしても落語にしても飲食をしながら楽しむことができるのがいい。クラシック音楽やオペラなど周囲を気にしながらかしこまって聞くことを考えれば大きな差がある。観衆が舞台や土俵に声をかけながら一体となって楽しむのが醍醐味だ。
正面入り口からまっすぐエントランスホールに向かうのでなく、左側の案内所入口から入ると相撲案内所、いわゆる相撲茶屋が並んでいる。合計20の相撲茶屋の「2番 紀乃国屋」が我々の担当。そこを訪ねると注文した弁当や飲み物を入れた袋を下げて若いお兄さんがマス席まで案内してくれる。
先ずお茶が運ばれ、袋を広げると幕の内弁当はじめお土産の陶器やお菓子など出るわ出るわ…。私は、焼き鳥やオードブルでの酒やビールでいっぱいで、弁当には手もつかなかった。3時間強の時間があったが、注文した国技館ワインも開ける暇がなかった。けっこう土俵に惹きつけられていたのであろう。
ずらりと並ぶ相撲茶屋。我らが担当は 2番「紀乃国屋
幕の内弁当(上)とオードブル(下) お米も美味しいと好評価であった。
問題は日本酒である。相撲茶屋は純米酒を置いてない。特選酒となっているので何が出てくるかと思ったら大手蔵の吟醸酒であった。まあそこそこの酒で普通酒でなかったのは救われたが、純米酒を置いてないうえ持ち込み禁止であるから、立派な食事と最高の国技を見ながら最高の酒を味わうことができない。
大相撲は国技である。せめて国酒の典型である純米酒(できれば純米大吟醸)を置いておく義務があるのではないか? そのことを問うと、「年に何日かの営業で、高級な酒を置いておけない」とのことであったが、そのようなことは酒屋と折衝すればどうにでもなるだろうし、値段的にも高くない純米酒はいくらでもある。
国技館として考え直すべきことではないか?
2階から見た土俵とマス席(14時半ごろ)
2階席や後方の椅子席で見たことは何度かあったが、マス席で大相撲を見たのは初めてだ。人生先が短くなると、「一度やってみたい」ということに挑戦したくなる。そしてマス席で見る大相撲は想像以上に臨場感あふれる興行であった。
「東A側3」という席は、土俵から10数メートルの位置で、土俵上の迫力が伝わる上に、館内に沸き立つ歓声、どよめきなど観衆の息吹が伝わる臨場感が何とも言えなかった。相撲通が多いのであろう、ひいき筋に対する応援が響き渡るのが楽しい。呼び出しや行司の声も美しかった。
その中で次々に繰り広げられる力士たちの戦いは、鍛えられた体と技が生み出す最高の「美の表現」であると思った。先ずはカメラに残った“美しい力士像”をいくつか…。
鶴竜(上)と白鵬(下)の土俵入り
40歳旭天鵬の美しい体。悔しいことに敗れたが。
立会前のにらみあい(勢…? 違うかな?)
数多くの懸賞に囲まれた遠藤の美しい四股
常幸竜と稀勢の里、寄り切って稀勢の里
カボスの季節が到来した。秋刀魚をはじめとした焼き魚、そろそろ涼しくなって囲むなべ物など、季節の香りをふんだんにふりまく。刺身など生魚には欠かせない。
私はこれを、季節のあいさつ代わりに旧来の友に送る。そしてみんなうれしい返事を書いてくれる。メールや手紙が毎日着く。「今夜は焼き秋刀魚だ!」、「周囲の友人を呼んで恒例の鍋だ!」などうれしい文面が続く。私はこの「故郷の産物」で古い友情を温めている。
このカボスを発送してくれるのは高校時代の同級生のOさん。臼杵で青果業を営みカボスの販売を主業とする。
実は彼女のご主人が亡くなったのだ。彼女は悲しみに沈んで、一時は仕事を止めようかと思ったと人づてに聞いた。私は、安易な言葉で慰めても彼女の深い悲しみをいやすことなどできないと心を痛めた。
今年はカボスの発送を頼めるだろうか、と心配していたが、無事カボスは私の友の手元に届いた。そしてOさんからの発送通知の中に「…ただ今、カボスの地方発送を一人で頑張っています」という手紙が添えられていた。
私はすぐに返事を書いた。
「…貴女の悲しみは計り知れないが、貴女の送るカボスで、たくさんの人が秋の香りを嗅ぎ、豊かな食生活を楽しんでいます。私は貴女の手を煩わして、多くの友と旧交を温めています。どうかご主人の分も生きてこの仕事を続けてください」
と。一つ一つの仕事が、いろんなかかわりで人々に幸せを送っているのだ。彼女が悲しみを乗り越えて、この「幸せの配達」を続けてくれることを祈って止まない。
私の第二の職場となった三井ホームリンケージの、草創期の人たちによる同窓会。恒例となって毎年暮れに忘年会的に開いていたが、暮れまで待ちきれずに「会いましょう」ということになった。昨夜、西新宿の『稲田屋』に6人が集まった。
まず驚いたのは、広島出身のYM君の実家(広島市安佐南区)が、先日の土砂災害で大変な被害に遭ったという報告だ。彼の実家は倒壊することは免れたが床上浸水、両親と弟さんは胸まで浸かりながら二階に避難して助かったという。二軒先の家は土砂に流され2名の方が亡くなったというから、想像を絶する災難だ。改めて心からお見舞申し上げます。
しかし、集まったみんなは元気でキラキラと輝いていた。前回も書いたが、みんな40代から50代に差し掛かり、働き盛り、女盛りだ。人生で一番輝いている時期と言っていいのではないか?
これまた驚いたのはYSさん。ロンドン滞在(ご主人の転勤)の英語力を生かして、小学校の英語の先生をやっているという。素晴らしいことだ。「キングスイングリッシュを学べてその小学生は幸せですね」と話し合った。
お酒も大いに飲んだが、今度は蔵に出かけて「ふなくち」を飲もう、ということになりその計画を頼まれた。だんだん行動力が出てくるのも輝いている証拠であろう。
以下の写真は、4時間以上にわたり大いに飲んで喋った断片。
今や小学校の英語教師のYSさん
熟年、熟女にかこまれて
大塚にある『串駒』という居酒屋は、私の酒の勉強を助けてくれる道場の一つである。そしてそれは、店主の大林禎さんに負うところが大であった。
独特の風貌、店の風格もさることながら、大林さんの酒の知識、よい酒を広めようとする情熱は並のものではなかった。多くの人が彼の話を聞きながら酒の知識を深めていったのではないか?
私は大林さんを、「酒を飲ませる立場(料飲店など)から日本酒革命をやった一人」と書いてきた(『旅のプラズマパートⅡ~世界の酒と日本酒の未来』など)。酒は、造る人(蔵元)、運ぶ人(酒販店)、飲ませる人(料飲店)と飲む人の4者のコラボレーションで育てられる。その飲ませる人の役割を十分に果たした人である。今を時めく『十四代』を、まだ無名のころから店に置いて育てたのも彼である。
私は多くの人を『串駒』に案内したが、そのほとんどは「もう一度あの店に連れて行ってくれ」と言った。それの大半は、大林さん(と奥さん)の魅力にひかれるからである。多くの人が彼を仙人と呼んだ。私は彼をその風貌からウサマ・ビンラディンとからかったが、その度に彼は「せめて諸葛孔明と呼んでください」と言っていたことも懐かしい。
大林禎さんは59歳の若さで亡くなった。今、日本酒は多くの銘酒を生み出し新しい時代を迎えようとしている。その日本酒業界に身も心も捧げつくした壮絶な死と言えよう。
今年(2014年)1月『串駒』にて
先日、久しぶりにU君から電話があった。銀行時代組合活動を共にした心友(まさに心の友の一人)である。彼が脳の手術をして入院した話は聞いており、その後無事退院して静養中であることも知っていた。彼の電話は、
「しばらく静養したが医師の許しも得て通常の生活に戻った。今は人生の整理期に入ったと思い身辺の整理をする毎日だ。そこで首藤さんのことを思いだし、ぜひ一度お会いして話を聞きたい」
というものであった。この電話はうれしかった。私は、「一度お見舞いに出かけようと思っていたのでそちらに出向こう」と答えると、「いや、昔よく行った首藤さんの家が懐かしいので、ぜひ訪問させてくれ」と言う。これもまたうれしい言葉で即応した次第。
昨日は数時間昔話を交わし、最後に一献傾け合って、彼は気持ちよく帰って行った。それにしても懐かしい話を交わした。なによりも彼が、人生の整理の段階で私に会いたいと思ってくれたことがうれしい。過去を振り返って「あいつだけには会いたくない」と思われることに比べれば、「もう一度会いたい」と思われることは有り難い、とつくづく思った。
U君は千葉から2時間かけて来てくれた。それだけでも、その真意を信じたいと思う。
新聞の朝刊を広げながら錦織圭選手の快挙(全米オープン決勝進出)を喜んでいると玄関のチャイムが鳴る。ドアを開けるとヤマト運輸の配達員さんが、「冷凍ものですよ」と段ボール箱を渡してくれた。同僚のMさんからだ。
開けてみて驚いた。シマホッケのひらき、イクラのビン詰、タラ子コハラ、イカの一夜干し、松前漬…などが次々と出てくる。みんな私の好物だ。中でもイカには目がなく、今夜の酒肴は一夜干しとまず決める。
タラ子はみんな好きで、中でもイクラは娘の大好物、ワイフは漬物を好む。大きなホッケのひらきは2枚もあるので、当分晩酌の肴には事欠かない。毎晩の夕食が楽しみになってきた。
取扱店を見ると、『かにの北遊』(函館市大手町22-2)とあるので、Mさんは北海道に行ったのだろう。どんな旅をしたのだろうか? 私が函館を訪ねたのは、もう何十年か前になる。石川啄木の跡を追ったが、そのほかにも見るところがたくさんある町だった。
このところ多い雨には会わなかっただろうか? 有名な夜景は見えただろうか? それにしても私を思い出してくれて、このように心の通う品々を贈ってくれるとは感謝に堪えない。Mさんありがとう。
思ってもいないプレゼントを頂くことほど、心にしみるものはない。