旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

ウオッカの不思議

2007-02-25 17:45:47 | 

 

 ウオッカはロシア語で「VODKA:ヴォートカ」、これは「ヴァダー:水」と同語源というだけあって、一切不純物を感じさせない正に水のようにスッキリした飲み口である。
 大麦、小麦、ライ麦など穀物や、じゃがいも、甜菜などを原料とした蒸留酒で、蒸留後に白樺の活性炭で濾過して、すっきりした酒に仕上げる。
 酒はいずれにしても、糖分を酵母の力で醗酵させそれを搾った醸造酒(ワイン、ビール、日本清酒など)か、それを蒸留した蒸留酒(ウィスキー、ブランデー、焼酎など)に分けられる。ウオッカは後者で、連続蒸留機で蒸留していくと96度ぐらいの無色無味無臭のアルコールになるが、それを40~60度に加水して何らかの味をつけるとすれば、正に日本の甲類焼酎と同じと思われる。 ところが、日本の甲類焼酎とは全く違う「スッキリした透明感」と「とろりとした感触」がある。
 あの「とろりとした甘さ」はなにか?

 サンクト・ペテルスブルグの最後の昼食で、私は思い切って値段のはるウオッカを注文すると、店主が奥から、凍結して氷に覆われているようなビンを抱えてきた。「シノックスカヤ」というウオッカであったと記憶するが、やっと溶けて滴るようにグラスに注がれたものを飲むと、正に「とろりとした甘さ」が口中にひろがった。何かぎょうざに似たようなロシア料理が出たが、それとぴったり合って、あのおいしさは忘れられない。
 あの「とろり感触」と、もう一つ不思議なことは、どうしても度数40度と思えないことだ。われわれの飲んだものはほとんど40度であったが、ウィスキーにしてもブランデーにしても、もちろん焼酎でも、40度はかなりきつく感じる。しかしウオッカはそれを感じさせない。
 ライ麦で造るのはポーランドに多く、フィンランドは大麦が多いらしい。あの「フィンランディア」は大麦だったのか? これまた柔らかい感触が、40度の蒸留酒と思わせない。
 一度各国のウオッカ蒸留所を廻りながら教わりたいものである。

 
   ピョートル「夏の宮殿」
                                                                          
                          


北欧の酒「ウオッカ」--その地で飲む美味しさはたまらない!

2007-02-24 15:37:57 | 

 

  五木寛之が、「・・・オペラなどを観てそのまま家に帰るほど淋しいものはない。劇場近くの飲み屋で杯を重ねながら、その興奮を心ゆくまで語り合うことこそ観劇の喜びだ・・・」というようなことを何かに書いていたが、『オテロ』を観てプリバルチスカヤホテルに帰った妻と私は、(マリインスキー劇場のすぐ近くの飲み屋とはいかなかったが)13階のレストランで遅い夕食をとりながら、オペラの興奮をいつまでも語り合った。バリトンかと思われるような力強いテノールのオテロ役のこと、ロシア美人そのままの美しいデズデモーナ役のアリア「柳の歌」のこと、オテロのような内容のオペラはロシアオペラにかぎる!、などなど。
  そのとき飲んだ酒が、(トルスチャクTOLSTIAKというビールも飲んだが)ウオッカ「ストリチナヤSTOLICHINAYA」であった。この酒の、ほどよい甘さを漂わせた透明感は、マリインスキー劇場に響き渡った凛々しい役者たちの声を髣髴とさせ、私にウオッカの素晴らしさを再認識させた。きりっとした味とのど越しが「ロシア風ニシン料理」とぴったり合って、私を心地よい酔いの境地に誘ってくれた。

  この6日間の北欧の旅の間、私は毎日ウオッカを飲んだ。その最大の収穫は、同行の人たちにウオッカの美味しさを理解してもらったことであった。サンクト・ペテルブルグ最初の夜、私が「モスクワスカヤ・クリスタル」を注文して飲んでいると一行は、「首藤のやつ、あんなものばかり飲んで・・・」という蔑みの眼差しをしていた。だいたい戦後悪い酒ばかり飲まされてきた連中は、本物の味を知らず、特に焼酎、泡盛、ウオッカなど強い酒はすべて悪い酒(少なくとも悪酔いする酒)だという観念にとらわれている。
  私はまずK氏に「ロシア料理にはウオッカですよ。騙されたと思って一口飲んでみませんか」と薦めた。「喉や胃にカーッとくるんじゃないの?」などと言いながら一口なめたK氏・・・、「えー? ウオッカってこんなに美味しいの?」と一言。飲み進むうちに私に対する蔑みの眼は尊敬の眼差しに変わるかに見えた。
 K氏はその後、食事のたびにウオッカを注文するようになり、最後には「この旅最大の収穫の一つはウオッカを知ったことだ」と言うにいたり、フィンランド空港ではついに、フィンランドが生んだ著名なウオッカ「フィンランディア」を購入したのである。おみやげではなく自宅で自分が飲むために。
 それにしても最後の夜、ホテルのバーで白夜を眺めながら、ニシンの酢漬けで飲んだ「フィンランディア」は美味しかった。
                           


マリインスキー劇場のオペラ『オテロ』に酔う

2007-02-23 13:38:24 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 サンクト・ペテルブルグといえば、プーシキンやドストエーフスキーなど文学の宝庫であるが、歌やバレーなど音楽の宝庫でもある。 青春時代うたごえ運動などに係わる中で数多くのロシア民謡を歌ったが、その中に「街のざわめきも聞こえず」や「鐘の音は単調に鳴り響く」などがあった。いずれもサンクト・ペテルブルグを舞台とする。 
 エルミタージュからネヴァ河をはさむ対岸にペトロパブロフスク要塞がある。ピョートル大帝が西側の侵略を防ぐ砦として築いたもので、そもそもペテルブルグの発祥である。その後この要塞は監獄となり、ドストエーフスキーやレーニンの兄など著名な政治犯が入っていたという。「街のざわめきも聞こえず」は、未だ見ぬこの監獄を想起しながら歌ったが、今回その威容をはじめて見た。

  一、音もなく更け行く  牢屋に死を待ちて
      闇をもる月かげ  夜半にただ青く    

 
 四、待てる老いたる母  のこる新妻よ
      あすはわれ帰らず  さらばいざさらば               

                          (ロシア民謡、白樺訳)

 
    
   
 音楽で忘れられないのは、オペラ『オテロ』(指揮ゲルギエフ)を観たマリインスキー劇場だ。 この劇場は1859年、火事で消失した皇帝の「劇場サーカス」跡に建てられたロシア最初の音楽劇場で、アレクサンドル2世の妻の名前に因んで名付けられたと言う。モスクワのボリショイ劇場に匹敵する質を誇ると言うだけあって、素晴らしい音響性に富む。私と妻は、ほぼ中央の一階ボックス席で聴いたが、イヤゴーのピヤニッシモの呟きが手に取るように聞こえた。この歌手の声量もさることながら、劇場の音響の良さによるところが大きかったであろう。 
 そしてもっと印象的なことは、オペラが終わったあと(午後九時半)、まだ太陽の光が残る白夜の中に浮かび上がった劇場の美しさであった。その青の色調は(ボリショイの赤に対し青を対置していると言われる)、これまでに触れたことのない美しさであった。

               


「ネヴァ河の河畔の町」(プーシキン)サンクト・ペテルブルグ

2007-02-19 15:29:09 | 

 

  サンクト・ペテルブルグに行くにあたって、プーシキンを三冊読んだ。『スペードの女王』『ペールキン物語』『エブゲニー・オネーギン』で、高校時代に開いた記憶があるが、殆ど忘れてしまっていた本であった。なぜ読もうと思ったかといえば、プーシキンの舞台がほとんどサンクト・ペテルブルグであるからだ。
  彼はこの愛する町を、いたるところで、「ネヴァ河の河畔の町」と表現している。また『エフゲニー・オネーギン』の中では、愛するタチアーナを「ネヴァ河の女神」と表現する場面がある。(池田健太郎訳 岩波文庫版145頁) つまりプーシキンにとって、サンクト・ペテルブルグはネヴァ河とともにあったのであろう。いや、詩人にとってこの町はネヴァ河そのものであったのではなかろうか。
  世界に、水の都とか川とともに呼ばれる都市は多い。ドナウの真珠と言われるブダペストや、アドリア海の女王と呼ばれるヴェネツィアなど。しかし、ネヴァ河と一体化したサンクト・ペテルグルグの美しさは、そのどれにも引けをとらない。特にネヴァ河に沿って建てられたエルミタージュ美術館の景観はすばらしい。大理石のつくりで淡緑色の冬宮をはじめ、三つの離宮とエルミタージュ劇場が連なり、全長1キロに及ぶ。この三階建に制限された建物が、ネヴァ河と調和して美しい。
  詩人プーシキンの詩情を、どんなにかきたてたことであっただろうか・・・。

                             
                           
               
                              背景はネヴァ河とエルミタージュ

                            


再び『旅のプラズマ』外伝について

2007-02-18 17:55:48 | 

 

  2月3日のこの欄で、『旅のプラズマ』で書き残した思い出の記録を少しずつ紹介しようと予告した。ところが、2月6日の「サウンド オブ ミュージックーートラップ一家物語」で横道にそれてしまった。しかしこの横道は、多くの人の反響を頂いたので、舞台であるオーストリアを中心に思いのままを書いてきて今日に及んだ。
 しかし、気がついてみると、横道にそれたつもりであったがいつの間にか「旅のプラズマ外伝」そのものになっていた。ザルツブルグに触発され、ウィーン、プラハ、タリンなど、東欧から北欧の美しい町並みや川の流れ、心に残る音楽やその地の酒など、書きたいと思って書き残してきた項目にいつの間にか返っていた。
 だからこのまま続けよう。酒については先ずビールに触れたが、北欧ではなんといってもウォッカである。次回はサンクト・ペテルブルグから・・・。
                            


オレフの塔の物語(エストニアの首都タリン)

2007-02-17 14:06:32 | 

 

 タリンの街はおとぎの国のように美しかった。東欧三国の旅でプラハとともに訪ねたチェスキークルムロフの街に雰囲気が似ていた。実は、おとぎの国にはまだ行ったことがないのだが・・・。
 美しいものの陰には必ず悲しい物語が隠されているは世の常であるが、この街も例外ではなかった。前回予告した「オレフの塔にまつわる悲しい物語」を、市内を案内するバスガイドはかなりの時間をかけて話した。

 「・・・この塔はタリンの街で一番高く134メートルもあります。この塔にまつわる話は、次のように言い伝えられています。
 教会に美しい塔を建てたいと願う人が建築者を探すがなかなか見つからない。あるとき、一人の巨人が現れ請負を申し出るが法外に高い工賃に依頼主は躊躇する。ところがこの巨人、『塔の完成までに私が誰か名前を当てたら、工賃は一ペニーでよい』という。ほくそえんだ依頼主は早速契約して塔を建てさせ、彼が何者であるかを探す。
 なかなかその本体を見破ることができなかったが、完成を間近に控えようやく彼の住居を突き止め、中の様子を探ると、子供を寝かしつけている夫人が『ぼうや、おやすみ、もうすぐオレフがたくさんのお金を持って帰ってくるよ』と、坊やをあやしているのが聞こえた。これを聞いた依頼主は現場に駆けつけ、塔の先端に最後の飾り付けを施している巨人に『おい、オレフ、塔が曲がっているぞ』と話しかける。
 これを聞いた巨人--オレフは驚き、そのあまり塔から落ちて死亡、石と化してしまった。街の人々は彼の死を悼み、その業績を称えて、教会にその名を冠して後世に語り継いだ、と言われます。」

  私は、ヴィルホテルの12階の部屋から、オレフの塔を横切って沈む白夜の落日を眺めながら、この悲しい物語を思い浮かべた。
 なにか聞いたことのある話だな、と思っていると、プッチーニの「トゥランドット」だ。「トゥランドット」は夜明けまでという短期決戦だが、命を賭けた名前のあてっこというつまらない賭けに、死をもって抗議するリュウの愛の行動は、これまた悲しく切ない物語だ。
 悲しい物語ほど美しい・・・それは洋の東西を問わない。
                           


塔を横切る午後10時の落日ーータリンにて

2007-02-16 12:22:18 | 

 

 タリンまで来たので、初めて見た白夜の落日について。 
  宿泊したヴィルホテルの12階は、旧市街の下町からタリン湾を一望する。午後9時、窓際のソファに身を沈めると、この町で一番高い塔と言われる「オレフの塔」がそびえ、その左真横に真っ赤に燃えた夕陽がドロドロと揺れている。「さすが白夜の国でもそろそろ日没だな・・・」などと思いながら、その美しい光景を眺めていた。 
 ところが、日はいっこうに沈まない。それどころか、だんだん横に流れてオレフの塔に近づいていく。太陽が塔に近づくにつれ、それまで明るい陽光の中で、塔壁の肌や彩色を見せていたオレフの塔は、黒一色のシルエットと化した。それにつれて町全体がシルエットとなって浮かび上がってきたかに見えた。 
 かなりの時間をかけて太陽は塔を横切り、右下の地平に少しずつ消えていった。時に午後10時。空は鮮やかな夕焼けにおおわれ、オレフの塔はシルエットを脱し再び壁肌の彩色をあらわにし、「夕方の明るさ」はいつまでも続いた。 
 午後11時ごろからようやく暮れ始め、やがて真っ暗になって、翌午前3時には夜が明ける・・・これが白夜だ。 
 私の常識では、太陽は東の空から真っ直ぐ上に昇り、西の空に真っ直ぐ下に沈む。ところが白夜の国の太陽は横に沈んだ。おそらく昇るときも横に上ってくるのだろう。すべては行って見なければわからないことだ。 
 私は、この美しくも不思議な光景に見入りながら、昼間バスの中でガイドが話した『オレフの塔にまつわる悲しい物語』を想起していた。その物語については次回に譲る

         
                               


北欧のビールーー中でもエストニアの「サク」について

2007-02-12 13:16:35 | 

 

 昨日のこの欄で「世界中にビールはある」と書いた。正にそのとおりで、北欧の旅ではウォツカを中心に飲むつもりで行ったが、どこの国でもビールも飲んだ。 
  まず最初の目的地ヘルシンキに向かうフィンランド航空の機中で「ビールのラピン・クルタはあるか」と聞くと、にっこり微笑んだステュアーデスが「フィンランドの most faimous beer だ」言って誇らしげに取り出してくれた。私は海外に赴く時、往路の機中では行き先の国の酒を飲むことにしている。できるだけその国の食生活に近づくために。帰りの機中ではたまりかねて日本酒を注文するが。 
  ラピン・クルタは度数4.5%、どちらかといえばのど越しで飲むビールで日本のビールに近かったが、次のタリン(大相撲の把瑠都の出身地エストニアの首都)で飲んだ「サク」は度数6.7%で重量感があった。次のサンクト・ペテルブルグだけはウォッカ一本で行こうと思っていたが、「ネブスコア」というビールを飲んだ。これも5.7%の、寒い国らしい重みのあるビールだった。 
  中でも「サクSAKU」の思い出をひとつ。 
  タリンに着いて最初の昼食をとったレストランで「サクはあるか」と頼むと、「当然サクを飲むべし」と言うような顔をして運んできた。見るとそのウェイトレスはSAKUのジョッキが描かれたTシャツを着ている。なんともかっこいいので写真を撮ったりしているうちに私の悪い癖でそのTシャツが欲しくなった。ついに勇気を出してレジに赴き、店主らしき男に「売ってくれないか」と折衝したところ、「とんでもない。これは商売用だ。あのTシャツを脱がせれば彼女は裸で仕事をしなければならない」ときた。これには私も引き下がらざるを得なかった。私は何も 彼女の着ている物を所望したのではなく、当然予備のものがあると思って頼んだのだが、「東洋から変なエロ爺さんが来た」と語り草になっているかもしれない。

                    

                                                                                                                                          


チェコの生んだ名酒「ピルスナービール」

2007-02-11 17:42:46 | 

 

 チェコについて書いたついでにビールに触れておこう。
 ビールは世界で一番多く飲まれている酒である。日本人も全飲酒量の約70%がビールである(最近は、発泡酒や第三のビールなど、ビールもどきがその半分を占めるが)。
 世界的にもそうであろう。どこの国に行ってもビールがある。醸造酒で体に優しいし、アルコール度数は数度と飲みやすい。ワインは12度、日本酒は15~16度と高いし、ウィスキーなどスピリッツ類(蒸留酒)は30度から数十度と、日本人などにはそのままでは飲めない。

 ビールにはイギリスのエールやベルギービールのような上面醗酵ビール(醗酵後に酵母が上面に浮く、味を味わうビール)と、ドイツやチェコのビールのような下面醗酵ビール(酵母が下面に沈み上の澄んだ部分を飲む、のど越しを味わうビール)がある。日本のビールは主として後者で、その源流はチェコのピルゼンビール、いわゆるピルスナーにある(ピルゼンはプラハの西方、西ボヘミアの主要工業都市)。
 この黄金に輝くビールの発祥は、1842年の『ピルゼンの奇跡』による。 「ドイツのバイエルンから招かれた醸造技師J・グロルが、バイエルンの下面醗酵酵母と、世界最高といわれるボヘミアの麦芽とアロマホップ(ザーツ地方のもの)、それとピルゼンの超軟水の水(日本以上の軟水)で造ったところ、かつてない『黄金に輝くビール』ができた」(トラベルジャーナル社「中欧」135頁より要約)
 それまでのビールは茶褐色に濁っていたが、この『黄金に輝くビール』がチェコを世界のビール大国に押し上げたのである。私はチェコでは専ら「ピルスナー・ウルケル」(元祖ピルスナービール)を飲んだ。チェコ人はビールが大好きで「プラハっ子は母乳の代わりにビールで育つ」(旺文社「個人旅行」)とか「チェコの地方の病院では薬の代わりにビールを処方する医者も珍しくない」(前掲「中欧」)など楽しい話がたくさんある。
 病気になればビールが飲めるのなら、病院嫌いの私もせっせと医者に通うであろう。ぜひともチェコに住みたいものだ。
                           


プラハ!--カレル橋、人形劇、ウ・フレクーの黒ビール・・・

2007-02-09 12:04:41 | 

 

 オーストリアだけでなく、もう一度行きたい国(や町)はたくさんある。サンクトペテルブルグ、ニューオルリーンズ、ヘルシンキなどなど。中でもチェコのプラハはその最たる街だ。

 王宮の影を写すモルダウ川に架かる威厳に満ちたカレル橋・・・、夜中の12時にもこの橋を歩いたが、多くの人に混じって老夫婦が腕を組み胸を張って渡っていた。何ともいえない美しい風景であった。
 チェコの国技といわれる人形劇も見た。その卓抜した技術もさることながら、モーツアルトそっくりの人形も指揮者として出てくるオペラ『ドン・ジョバンニ』は文句なしに楽しかった。諸外国の支配を受け続けたチェコは、自国語も語れなかった時代を経験するが、その中で民衆は、人形劇の中で自国語を語り支配層を批判し続けたという。

 500年の歴史を持つ有名なビアホール『ウ・フレクー』も忘れがたい。観光客も多く、私の席もフランス人やベルギー人など国際交流の場となったが、なんといっても自醸の黒ビールがおいしい。われわれは片言英語で交際交流を深めながら、たっぷり飲んで心行くまで堪能した。
 第一、ビールの出し方が気に入った。店に入って空いてるテーブルに着席するやいなやウエイターが、黒ビールがなみなみと注がれたジョッキを運んできて、われわれの前にドンと並べた。それは「この店に来たからには先ずこのビールを飲め。注文はそれからだ」と言っているかに見えた。しかもわれわれメンバーの中には未成年の子供が一人いたが、その子の前にも当然のごとくジョッキが置かれた。この大らかさが何ともよい。もちろん、そのジョッキは私が干したが。
 その店のかんぱん商品には、それくらいの自信を持って欲しいものだ。
                            


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