旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

楽しみな七月 … まずは「白馬Alps 花三昧」

2012-06-30 13:32:17 | 時局雑感

 

 明日から七月…、今年も折り返し点を迎えた。前半もいろいろあったが、今年の主要な行事は後半に集まっている。
 夏場七、八月の大きな行事は、山びこの会の「白馬Alps 花三昧 in 2012」(7.21~22)と、娘が企画するオペラ『秘密の結婚』の公演(7.28~29)、それと調布西馬音内盆踊り愛好会の「秋田 西馬音内盆踊り」への参加(8.17~19)だ。

 まず「白馬Alps…」。私は若い時から山が好きで九州の山々はかなり登ったがアルプスに登ったことがない。あの上高地さえ5年前に、70才を超えてようやく行った。今回初めて白馬岳とか五竜岳とかいうアルプスの一部に足を踏み入れるのだ。といっても、この年になって本格的な山登りをするつもりはなく、また出来もしない。この山行のテーマの中核にある「花三昧」という言葉に惹かれての旅だ。山びこの会からの案内状によると…、
 先ず初日は「栂池自然園」の散策。「新幹線長野駅からバスで栂池高原駅、そこから栂池パノラマウェイに乗って、標高830mの麓から一気に1830mまで空中散歩、ミズバショウ・ワタスゲ・浮島・展望の4ッつの湿原と傾斜地で構成された園内には遊歩道も整備され、様々な高山植物をまじかに観察できます」とある。
 また二日目は「五竜高山植物園」の散策。ホテルから麓まではバスで行き「そこから植物園のある標高1515mのアルプス平まではテレキャビンで8分間の空中散歩。およそ5ヘクタールの広大な面積に、200種類100万株の花々が咲き乱れる“白馬五竜高山植物園”を散策します」となっている。(その間希望者は五竜岳の入り口、小遠見山まで登山)

 これなら喜寿を迎えた老いぼれでも参加できるのではないかと思ったわけだ。標高千数百メートルの目的地までは、新幹線とバスとケーブル(空中散歩というのがいい!)が運んでくれる。初日の4ッつの湿原のうちの一つの湿原の一部ぐらいは歩けるだろう。二日目の5ヘクタールのうちの一隅、千メートルや2千メートルぐらいは歩けるだろう。それで200種類100万株の高山植物の一部でも見ることができれば、大満足といわねばなるまい。
 とはいえ、標高2千メートル近くの高地トレッキングだ。千メートル歩くだけでもなめてはいけない。明日からトレッキングシューズを履いて家の周辺を散歩するなど、トレーニングに入ることにしよう。あと二十日では間に合わないかな?

           
 
    高山植物ならぬ我が家の玄関に咲く花


モカさんの忠告 … 「無理をせずに楽しい毎日を」

2012-06-28 10:10:22 | 時局雑感

 

 前回の投稿「体調と行動力」に対してモカさんから有難いコメントをいただいた。それは、「そのご年齢でそのスケジュールすごいなあって感じました。素晴らしい体力と気力をお持ちだと思います」と一応おだてて頂いた上での、「無理をせずに楽しい毎日をお過ごしください」という厳しいご忠告であった。加えて胡蝶蘭の写真に因んで、「きれいな胡蝶蘭や草木で、目を労わってあげてください」というやさしい提言が添えられてあった。

 ところで、「無理をせずに楽しい毎日」というのはどのような一日の過ごし方を言うのだろうか?これが大変に難しい。元来貧乏性の私は、一日何もしないと損をしたような気になる。家事は一切やらず、大して役に立つこともできないくせに、何かやっていないと不安なのだ。
 若いとき、一週間で一番さびしい思いをするのは無為に過ごした日曜日の夕暮れであった。残業の多い銀行員生活に疲れ果て、土、日はぐったりと休む日が多かったが、そうして迎える日曜日の夕暮れは何か大きなものを失ったようで寂しい思いにかられたものだ。「あ-あ…、何もしなかった」とつぶやく私に同僚が、「何もしないのを休日というんだ。よかったではないか」と慰めてくれたのを思い出す。
 では相当に実のあることを毎日やっているかといえばこれまた正反対である。貧乏性で絶えず何かやりたいとは思っているが、同時にだらしない性分で、あれをやろうこれをやろうとウロウロしながら一日を終えるのが毎日だ。計画ばかり多くて実現しないから充実感はない。つまり楽しくない。どうも「無理をして楽しくない毎日」を送っているようだ。
 それからするとモカさんの言う「無理をしないで楽しい毎日」というのは、私にとって正反対の貴重な生き方で、真剣に探求しなければならない課題のようだ。
 
 人生整理期に入っているのだから、これからのことより過去のやり残したことを整理していく方が重要かもしれない。肩の力を抜いて過去の整理にウェイトをかけていく中に、意外な楽しみが生まれてくるかもしれない。
 モカさん、貴重なコメントありがとうございました。


体調と行動力

2012-06-25 15:11:44 | 時局雑感

 

 今月初めから腰痛に悩んでいる。急に痛くなり腰かけたり座ったりするのが辛くなったので、近くの整骨院でマッサージを続けていたら何となく収まってきた。一時は大学病院の整形外科にでも行かなければならないのではないかと恐れたが直ってきた。
 原因はわからない。2月に「スカイツリー見学と下町歩き」という2万歩近い歩きで両股関節が痛くなったが、それが遠因ではないかと思っている。5月に九州に行って、阿蘇や久住を車で回り、また弟のミカン畑を歩き回ったのが引き金であったかもしれない。もちろん、本当の原因はわかっている。それは「加齢」というヤツだ。77年使ってきてガタが来ない方がおかしいのではないか?
 加齢といえば、今年初めからしばらく休んでいた東京医大眼科に通っている。それこそ病名は「加齢黄斑変症」だ。数年前から左目がやられ、何とか右目で生活してきたがその右目も怪しくなってきたのだ。まだ眼鏡をかければ右目は「1.0」見えるので、月1回の検査で模様を観ようということになっているが、これこそ何時どうなるか分からない。
 加齢に対する療法はなく、これに勝てる手段を生物は持ち得ないのだ、と思うといささかさびしくなる。そして自然と行動力が鈍る。

 まず、来月下旬「山びこの会」の“白馬Alps 花三昧の旅”と、8月中旬の「調布の“秋田西馬音内盆踊り参加会”」(一泊二日と二泊三日)にノミネートしているが、果たして大丈夫か? と不安がよぎる。前者では山登りはせずケーブルでお花畑に上るだけ、後者ももちろん踊るわけではなく静かに酒でも飲みながら見物するだけ、と決めているが、往復の列車やバスだけでも腰に来るかもしれない。
 そのほか10月には四国は高地の友人を訪ねる計画がある。今年は海外旅行の計画がないので、せめて北海道か能登半島めぐりぐらい行きたいと考えていたが、上記の体たらくで何となく計画がたたず、今年はせいぜい白馬、秋田、四国どまりであろう。
 昨年四月の脳梗塞いらい常用薬を飲み続けており、加えて目は見えにくくなるし腰が痛いでは旅どころではない。本来は「加齢休暇」なる長期休暇に入るべきかもしれない。とはいえ週に1、2回は同期会はじめ飲み会が続いているので、なかなか休暇に入るわけにはいかないが。

  
    だんだん花の数を増し来る我が家のラン


「心友会」のこと … どんな心につながれている会か

2012-06-23 14:42:47 | 時局雑感

 

 昨日、「心友会」という長く続いている会に出席した。銀行時代に組合活動を共にした人たちの会だ。私が組合役員をやったのは、昭和43(1968)から44年にかけであるが、この会はその前後の人たちで構成されているから、参加者の平均年齢も70歳に近い。
 日本のほとんどの組合はいわゆる企業内組合だ。終身雇用制の中で企業の発展と運命を共にする従業員は、やがて管理職となれば組合をはなれて経営陣になっていく運命にある。そのような中の組合は、何となく経営人事部の一管理組織的性格さえ持つ。事実、組合役員の要職を経て、それをステップに経営陣として栄達を極めていく例も多い。
 私の勤めた某都市銀行の組合も、基本的にはその例に漏れるものではなかったが、他に比較して民主的、自主的気風を求める性格が強かった。企業内組合の性格を十分認識しつつも、「組合としての自主性を持とう」、「組合民主主義を守ろう」、「働くものの文化を育てよう」というような気風が強かった。
 組合としての主体性、自主性、民主主義を貫いていけばいくほど経営側と対立することが多く、時として先鋭化する。そして、組合役員の中でもそれぞれの立ち位置は微妙に分かれていく。断固組合員要求の立場を貫こうとするものと、経営の立場を優先して考えるものとの立ち位置は、厳しい課題に直面するほど離れていく。同じ企業内組合の中にあっても。

 昨日の「心友会」に集まった面々は、その中にあって組合民主主義、組合員の要求実現を最重点に組合活動を行ってきた自負をもつ人たちだといえる。当然のことながら経営からは疎まれたが、そこに生き甲斐とプライドを持った人たちだ。
 当時高度成長下にあって、日々つのる労働強化や収益第一主義の施策の中で、団体交渉で、「経営は“企業の論理”を貫くだけでなく“人間の論理”の立場に立て」と要求したことがある。これは今考えれば、収益第一主義を規制しようとするかなり先鋭的な要求であった。「心友会」――“心の友の会”に集まる人たちをつなぐ「心」とは、この“人間の論理”であったのかもしれない。
 「心友会」という名前の名付け親は今は亡きK氏であるが、ご存命中に真意を尋ねる機会を失ったことを残念に思っている。


大飯原発再稼働 … 経済効率と人の命を天秤にかけていいのか?

2012-06-20 14:36:40 | 政治経済

 

 野田民主党政権は迷走の末原発再稼働に踏み切った。迷走というのは、管元首相や枝野経産相などに脱原発を志向する発言がちらほら見えたから言うのであるが、野田首相をはじめ主要なところは原発再稼働を一貫して追求していたと思われる。
 
 この再稼働に際し、二つの商業紙が異なる見解を掲げていたので記録にとどめておく
 まず日経新聞は、6月16日の経済部大瀧康弘記者の署名記事で、「野田佳彦政権はひとまず妥当な判断を示した」とし、「円高や株安に苦しむ日本企業に電力危機が重なれば、事業の撤収や製造拠点の海外移転に拍車がかかる」と警告、「日本の産業競争力を保つ観点からも次の原発の再稼働に踏み出す必要がある」と、今後の再稼働を催促している。つまり、「資源の乏しい日本が脱原発の路線に急にかじを切るのは現実的でない」とする主張で、経済効率最優先の立場に立つものであろう。
 毎日新聞も同日、山田孝男専門編集委員の『学びなき前進』という署名入り記事を掲げた。氏は冒頭に、「学んだことの証はただ一つで、何かが変わることである」という教育哲学者林竹二の言葉を引用し、「原発と安全規制の現状を見る限り、政府も原発に携わる実務家も原発事故に何も学んでいない」と指摘している。その実例として、組織的には「原子力規制委員会」や「原子力規制庁」ができるが中身は何も変わらない。何よりも「絶対安全神話」が変わっていない。首相は「福島のような事故は起こさない」と断言するが、「何が起きるか分からぬ以上、軽率な断定はしないという福島事故の反省は忘れられた」と指摘している。
 そして、「安全と豊かさを足して2で割ることはできない。学ばず、変わらず、恐る恐る原発依存のアクセルを踏み続けることで豊かさを守れるか」と追及している。
 最後に同記事は、「大飯原発3、4号機を一年間運転すると、広島型原爆にして計約2000発分の核分裂生成物を生み出す」という事実を指摘し、次のように主張している。
 「止めても動かしても危険は同じ、ではない。動かせば、手に負えぬ核のゴミがどんどん増える。底知れぬリスクと背中合わせの豊かさと知るべきだ」

 手に負えぬ核のゴミ…、人類が未だ処理の方法を手にしていない危険なものを生み出し続けても当面の豊かさを追う。すでに福島原発周辺の何万人の生活を奪っている危険を目の前にしてもなお、人はその危険と引き換えに富を追おうとする。 
 経済効率と人の命…、このまったく質の異なるものを天秤にかけてはいけないだろう。 


スーチーさん21年後のノーベル平和賞受賞講演

2012-06-19 12:44:33 | 政治経済

 

 ビルマ(現ミャンマー)の平和活動家アウンサンスーチーさんがノーベル平和賞を受けたのは1991年、21年前のことであった。この間スーチーさんは自宅軟禁を強いられ、この名誉ある賞の受賞講演の機会も与えられなかった。去る16日オスロで行われた記念講演は、世界の人々に感動を与え、21年後という歳月の重みが、この賞の値打ちを一層高めたように思われた。
 スーチーさんはこの間、非暴力に徹しながらも決して節を曲げることなく自由と平和を求めて闘い続けた。仏教徒であるスーチーさんは、この間の苦しみを仏教語の「苦しみ」を表す「ドゥカ」という言葉で語った。「ドゥカ」には苦しみを示す六つの意味があり、それは「生を受けること、年を取ること、病を得ること、死ぬこと、愛する人と別離すること、愛していない者との暮らしを強いられることだ。私は軟禁中、これらを日常的に実感した」(17日付毎日新聞7面「講演要旨」より)と赤裸々に吐露した。そしてその苦悩との戦いを支えてくれた一つがノーベル平和賞であったと次のように語っている。

 「私が平和賞を受賞したのは、抑圧され孤立したビルマもまた世界の一部であり、人類は一つであるとノーベル賞委員会が認めたということだ。受賞をきっかけに、民主主義と人権への私の関心は、国境を越えて広がった。平和賞が私の心の扉を開けてくれたのだ」(同前)

 そして最後に、「我々の究極的な目的」としてその願い続けてきた中身を述べた。

 「我々の究極の目的は、帰るべき家や希望がない人々が存在しない世界、自由で平和に暮らせる真の聖域のある世界を作り上げることだ。安心して眠り、幸せな気持ちで目覚められる世界を作るために手を携えよう」(同前)

 彼女の求め続けたものは、かくも当たり前なことであった。安心して眠り、気持ちよく目覚めることのできる生活…、この平凡ともいえる生活こそ彼女の掲げる「自由と平和」の中身なのだ。「ノーベル委員会やノルウェー国民、全世界の人々の支援は、平和を追求する私の信念をさらに強めてくれた」という感謝の言葉で結ばれた講演会場には、長く鳴り止まぬ拍手が続いたと報じられている。

         
         2012.6.17付毎日新聞一面より


歌いつがれた日本の心・美しい言葉⑧ … 『夏の思い出』

2012-06-15 14:34:17 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 この歌の最初の言葉にあるように、この時期になれば必ず「思い出す」歌である。江間章子の、これまた歌の中に出てくる「夢みる」ような美しい詩に、中田喜直が、歌いやすくかつフレッシュな曲想をつけた名曲である。

   夏がくれば 思い出す
   はるかな尾瀬 遠い空
   霧のなかに うかびくる
   やさしい影 野の小径
      水芭蕉の花が 咲いている
   夢みて咲いている水のほとり
   石楠花色に たそがれる
   はるかな尾瀬 遠い空

 昭和24年、NHKのラジオ歌謡として生まれた曲。昭和24(1949)年といえば、日本国民が戦後の復興、新しい日本の建設に取りかかろうとしていた時期。同じくラジオ歌謡の「山小屋の灯」などとともに、未来を夢見る日本国民の心に灯をともし続けた歌である。
 実は私は、未だ尾瀬に行ってていない。数回は行く機会があったのだが、不思議に計画がぽしゃって尾瀬を見ていない。戦後この歌にさそわれて夢見た尾瀬は、六十有余年を経てまだ私の夢の彼方にある。尾瀬の美しさは多くの写真でも見せられたし、多くの人が語ってくれた。そのたびに私の脳裏に浮かぶのは、「やさしい影 野の小径」(1番)であり、「ゆれゆれる 浮き島」(2番)であった。私はその光景を「はるかな 遠い空」に夢み続けていくのかもしれない。

 それにしても、このような美しい詩曲を残してくれた詩人と作曲家に感謝する。江間章子は他にも、團伊久麿の曲で「花の町」なども残し、これも多くの人に親しまれた。また中田喜直は、「小さい秋見つけた」(サトウハチロー詩)など多くの童謡と、「雪の降るまちを」(内村直也作詞)などの名曲を残してくれた。シャンソン風に歌い上げた高英男の「雪の降るまちを」は、日本国民に新しい歌の存在を知らしめたといっていいだろう。


レオナルド・ダ・ヴィンチ「美の理想」展を観て

2012-06-13 14:28:20 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 渋谷の東急文化村で開かれていたこの美術展をようやく見た。6月10日までのところ、8日に滑り込んで…。3月31日から始まっていたのだからもっと早くゆっくり見ればいいものを、いつもの例で慌ただしく駆け込んだ。
 レオナルドが女性美をどのように追求したかが中心テーマで、中でも『ほつれ髪の女』がハイライト。そもそも「レオナルド・ダ・ヴィンチ展」となっているが、レオナルドの絵と称されているものは、『ほつれ髪の女』、『岩窟の聖母』、『衣紋の習作』など数点しかなく、その『岩窟の聖母』もいくつかのバージョンの一つで「カルロ・ペドレッティ説」となっていた。従ってレオナルド以外の「女性美に関連する絵…資料(?)」が数多く展示されていた。たとえば『モナ・リザ』だけでも『裸のモナ・リザ』を含め十数枚掲げられていた。その真筆はパリのルーヴル美術館に鎮座しているのであろうが。
 そもそもレオナルドの真筆は、残っているものでは『岩窟の聖母』のほか『最後の晩餐』、『モナ・リザ』、『聖アンナと聖母子』など10点あるかないかとさえ言われている。(もちろん、一部のデッサン的なものはたくさんあるのだろうが)  ただそれがいずれも絵画史上最高の傑作とされているので、彼は間違いなく史上最大の画家であろうが、彼はその他の分野の方がはるかに多くの業績を残している。
 そもそもフィレンツェのメディチ家がミラノのスフォルツァ家に彼を推薦したのは宮廷音楽家としてであったというし、彼自身の自薦状には、自分の得意分野として「橋梁、艦船、隧道、有蓋戦車、臼砲、大砲、野砲、火砲、投石砲、建築、水理工事、彫像」などをあげていたという。(高津道昭著『レオナルド・ダ・ヴィンチ鏡面文字の謎』34頁)。彼はその他、解剖学、数学、物理、天文学などを含め多くの「手稿」を残している。その数は2万枚に達したという説もあり、残っているものでも5千枚あるという。つまり絵画の比ではなく、彼は画家でもあったが、戦争屋であり、建築家であり、解剖学者であり、あらゆる分野の学者であったのだ。

 どうもこのような人間の存在は御しがたい。彼は「絵画は哲学であり科学である」と言ったそうだが、彼にとって事業家や学者として残した「手稿」も作品も、真筆とされる10枚前後の絵画も、同一線上のものとして処理されたのかもしれない。
 それにしても『岩窟の聖母』はきれいで心が洗われる思いであったし、『ほつれ髪の女』何とも言えず蠱惑的でった。

   
   記念に購入したマウスパッド「岩窟の聖母」とマグネット
 「ほつれ髪の女」

 

 

 


天候不順による夏ミカンの不作

2012-06-10 13:45:58 | 時局雑感

 

 ふるさと臼杵の記事が続く。
 臼杵に帰って必ず訪れる場所がある。それは弟が栽培している佐志生という集落のミカン山である。佐志生は臼杵湾の北側の半島に位置する半農半漁の集落で、南面の山々でミカンや果物を育て、前に広がる臼杵湾から豊後灘にかけて漁業を行う。1600年に日本に最初に漂着したオランダ船「デ・リーフデ号」の漂着地としても知られている。
 弟はその山の一角でミカンを栽培している。もぎたての新鮮な味を味わうことと、そこから見下ろす臼杵湾の美しさにふるさとを感じる歓びを得るため、毎回そこを訪ねるのである。ところが今年の夏ミカンは不作であった。2月の異常な寒さを主因に、中身が充実しないままに時節を迎え、一時は大量に実が落ちて、あたり一面黄色いじゅうたんのようになったという。それでも生き残った実がまだたくさん下がっていたが、どれも中身が充実していない。食べると結構酸味もあって味のおいしさは感じるが、中身が充実していないので食べた満足感がない。
 実は東京を発つときワイフに、「今年は未だ送ってこないが、今度必ず買って来てくれ」と頼まれていたのだ。それを告げると弟は、「これではとても商品にならない。どこにも送っていない。まあしかし皮がママレードにはなるので姉貴には送るか…」と言いながら採ってくれた。外見も大きさも従来のものとなんら変わらない。もちろん、それを育てる弟夫妻の労力も従来と変わらなかった。いやむしろ異常な散り方やそれを片付ける神経と労力は従来以上であったろう。しかし異常気象は、その成果をすべて未熟児にしてしまったのである。

 送られたミカンンの皮でたくさんのママレードを作った。これは大変においしくできて、そのお礼をメールすると、弟から「来年こそは頑張っていいミカンを作ります」と返事が来た。弟は長く教員をやり退職後この仕事に取り組んでいるが、今や、一度や二度の自然災害などには負けない「百姓の境地」に立っているのだと思った。

 
 未熟児ミカンであろうが一個ずつ丁寧に採って、
 奥さんがそれを受け、
      
    小型トロッコで運び上げて
     
     箱に詰めて持ち帰る作業が続く


同級生より届いたカボスと手紙(つづき)

2012-06-08 10:27:34 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 前回、高校喜寿同窓会で60年ぶりに言葉を交わした同窓生から、郷里臼杵の名産カボスが贈られてきたことを書いた。シーズンを外れたこの時期にも、青々としたハウスカボスを、焼き魚や揚げ物まで片っ端からたっぷりかけて食べている。
 そのカボスとともに添えられた彼女からの手紙の中の短歌についても前回触れた。つまり

   姿、形、はジジ、ババ、なれと
   空に吸われし十五の心がよみがえる   
                     字あまり  
                 (原文のまま)

 という歌である。ところが、これをよく見ると、この短歌は字余りではない。確かに32字であるのでその限りでは1字余っているが、その余り字となる「十五の心が」の「が」を取り除き、次のように並べ変えると大変な名歌となる。

   よみがえる 空に座吸われし十五の心
   姿 形は ジジ ババなれど

 ただし、この短歌には注釈が必要かもしれない。つまり、「『空に吸われし十五の心』は、石川啄木の『不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし十五の心』より借用」という(注)を付ける必要があろう。そしてそれは、この短歌の価値をいっそう高めることになろう。
 高校にちなんでは、「高校三年生」という三年をうたった歌も有名だが、十五の春として新鮮な一年生も思い出深い。77歳の同期生が集まり、話せば話すほど「十五の春」がよみがえり、それははからずも当時学んだ啄木の名歌を想起させた…、。
 喜寿と十五の春を結ぶ名歌を送ってくれた彼女に、心から感謝している。






    
    
    姿、形はジジ、ババなれど…、いや、
    未だ男は迫力あるし、女はきれいだ。


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