旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

寒さで遅れる梅の開花…しかし「どこかで春が生まれてる」

2012-02-28 14:27:32 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 例年にない寒さで、梅の開花の遅れが伝えられている。わが家の梅も、「昨年秋に庭師が切ったので、今年は咲かないのかしら」などとワイフと話し合っていたくらいだ。
 この紅梅は、娘の誕生を記念して植えたもので、もう40年の樹齢となろう(植えたときすでに何年か経っていたはずだから)。清楚な小さい花を、1月31日の娘の誕生日には必ず咲かせていた。ところが今年は咲かない。「庭師がハサミを入れ過ぎたのだ」など、庭師のせいにしていたところ、10日ぐらい前から小さいつぼみを開き始めた。確かに例年にない寒さの中を、健気なものである。

   
    可憐なつぼみを着けた庭の梅

 今夜からまた雪が降る情報が流れている。何だか梅が可哀そうな気がしてきたが、しかし、確実に春が近づいていることも確かであろう。どんな異常気象も、季節の確実な移ろいには勝てないのだろう。どんなに寒くても、どこかで春は必ず生まれているのだ。

 どこかで春が生まれてる どこかで水が流れ出す
   どこかで雲雀が啼いている どこかで芽の出る音がする
 山の三月東風吹いて どこかで春が生まれてる

 大正12(1923)年百田宗治が作詞、後に草川信が曲をつけた『どこかで春が』という童謡。これまた万人が歌い継いできた名曲だ。「芽の出る音がする」というのがいい。そのような音を聞き分けることができた良き時代がしのばれる。
 今年は閏年で一日多いが、明後日から「東風(こち)が吹いて、山でも春が生まれる」三月が始まる。

      


川内選手敗れる … しかしオリンピックには行かせたい!

2012-02-27 15:12:09 | スポーツ

 

 東京マラソンで期待の川内優輝選手が負けた。14位に終わり、本人も「情けない」とオリンピック代表争いに白旗を掲げたようだ。
 私はどうしても外せない用事があってレースを見ることができなかった。午後2時ごろ帰宅し各チャンネルのニュースを追って、彼の敗北を知り残念な想いをした。何とかして彼をロンドンに送りたかった。何故なら、彼はオリンピックという舞台に出場するに最適の人間と思っているからだ。
 もちろん、あの権威あるオリンピックへの出場選手を、単なる好みを基準にして選んではいけないだろう。「より高く、より遠く、より速く」を競う場であるので、マラソン代表は「より速く」なければならない。
 反面、プロ中のプロみたいな連中が、普通の人間の全く手の届かないような記録を競うのが、はたして「人類の祭典」と言えるのだろうか、という疑問も持ち続けていた。そのようなところに、いつも隣に座っていた人間が飛び出してきたような選手が現れた。何か一緒に並んで走ってもいいような選手である。その素人ランナーがいわゆるプロを次々に負かした。肝心な代表選考会で負けたが、このような選手には特別枠があってもいいのではないかという想いがえ消えない。
 事実彼は、昨年夏の世界選手権を走り日本人3位に入り、12月の福岡国際に挑んで日本人1位となり、3か月後のこの東京マラソンも走ったのだ。その間もいくつかの大会を走っているようだ。物々しいコーチをつけ、特別メニューで練習を重ね、一年1回の挑戦で代表の座を狙うような人間と物が違う。確かに、日本人1位となった福岡国際の記録は2時間9分台(それも10分近い)と記録はもう一つだが、10分を切って1位であればそれで十分ではないか。アマチュアでこんな選手がいるんだ、毎日仕事をしながらいろんな大会を走りこんな記録が出せる男がいるんだ、ということを世界の人々に示す値打ちがあるのではないか?

 贔屓(ひいき)の引き倒しといわれることは分かっているが、これほど「人類の祭典オリンピック」にふさわしい選手は他にいない、ということだけは明言しておく。(断っておくが、私は川内選手とは何の関係もない)


山びこの会「下町界隈歩き」④

2012-02-24 13:22:58 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 待乳山聖天の境内からスカイツリーを見納めて、浅草神社、入谷鬼子母神を経て寛永寺墓地に向かう。浅草神社は明治の神仏分離で浅草寺からきりはなされ隣接するが、浅草寺まではよく来るがこの神社は初めて。解説によれば、浅草寺の建立にかかわった土師真中知(はじのまつちのなかもと)と徳川家康と大国主命の3人を合祀しているというので、神も人間も時を超えて一緒くたに祭るという、いかにも日本らしい神社である。唯一神の窮屈な国に比べて、何とも人間の匂いがしてよい。
 「恐れいりやの鬼子母神」という言葉は随分使わせてもらったが、これまた本体を拝んだのは初めて。人間というものもいい加減なもので、見もしない神社のことを、いかにも知っているかのごとく軽々しく利用する。

 寛永寺から谷中霊園あたりは一度歩いたことがあるが、徳川慶喜の墓を解説付きでつぶさに見たのは初めて。時代の激動期にあっては、将軍といえども苦労は多かったようだ。
 最後は「ゆうやけだんだん」。ここも二度目であったが、下町歩きの最後の場所としては格好の地といえる。三時半ごろで夕やけには早かったが、否応なく「夕焼け小焼け」の曲を思い出した。

  夕焼小焼で日が暮れて 山のお寺の鐘がなる
  お手々つないで皆かへろ 烏と一緒に帰りませう

  子供が帰った後からは 円い大きなお月さま
  小鳥が夢を見る頃は 空にはきらきら金の星 
 
                     (原文のまま)


 この歌を一度も歌わずに育った日本人はいないのではないか? この情景は当時の日本のどこにもあった。だからすべての日本人はこの歌を唄った。
 中村雨紅が1919年に作り、その詩に草川信が1923年に曲をつけたとされている。そして中村雨紅がこの詩を着想したのがこの“ゆうやけだんだん ”とも言われている。雨紅は1916年から日暮里第二小学校や日暮里第三尋常小学校の教師をしていたので、近くのこのだんだんで夕日を眺めたことは当然予想される。説によればこの詩の情景は、雨紅の生地である南多摩郡恩方村(現八王子市)という。「山のお寺の鐘の音」は、「上野谷中の鐘の音」であったのか、それとも恩方村の、それこそ山寺の鐘の音であったのか…。

 いまやその風情はなく、多くの人が行きかい、ともすれば喧噪の地ともいえるが、野良猫にとっては、階段脇の陽だまりと餌をくれる人の多いことは好都合らしく、無防備に体を伸ばして何匹も眠っていた。

                                      
       


山びこの会「下町界隈歩き」③

2012-02-22 14:05:35 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 食事がすむと、せっかく言問橋まで来たのだから言問団子も買って帰ろうと団子屋に立ち寄る。昼食後というのに食欲に際限はない。
 この橋や団子の名前は、これまたご存じ在原業平の歌「名にしおわばいざ言問わむ都鳥 吾が想う人はありやなしやと」に由来する。『伊勢物語』の「東下り」の一節にあり、一般には、恋に破れて都から東国に下った男が、隅田川を飛ぶユリカモメ(都鳥)を見て、都の恋人に思いを馳せたことになっている。実際に業平が隅田川まで来たか疑わしいという説もあるが、今や橋や団子の名前として定着している。言問橋という名の響きもいいが、団子の名に利用した団子屋の商才は素晴らしい。60個入りの大箱(1万2千何百円)もあったので、相当な売れ行きと見受けた。商売のネタは何処にもあるのだ。

 次いで桜橋を渡る。解説によれば台東区と墨田区の姉妹連携事業として1985年に完成、隅田川唯一の歩行者専用橋ということだ。広々とした橋で、橋の中央には平山郁夫の「瑞鶴の図」原画のレリーフなどあり、気持ちよく渡った。両岸には桜並木が続いており春がいいだろうと思った。
 途中、十月桜が咲いていた。この日は今冬一番ともいえる寒さだったが、健気(けなげ)なものである。
  桜橋
 十月桜


 待乳山聖天の石段傍に「池波正太郎生誕の地」という看板があった。池波正太郎といえば『味と映画の歳時記』を愛読書の一つにしているが、その中によく下町界隈の風景が出てきた。ここらあたりのことであろう。
 因みにこの『歳時記』の2月は、味が「小鍋だて」で映画が「道」であった。前者は、「浅い小鍋に出汁(だし)を張り、浅利(あさり)と白菜をサッと煮ては小皿にとり、柚子をかけて食べる」という粋な食べ方。映画の「道」は、フェデリコ・フェリーニ監督、アンソニー・クインとジュリエッタ・マシーナ演ずる名画。映画友達の井上も池上もジュリエッタ・マシーナの大ファンで、彼女の演じるジェルソミーナを、陽だまりに寝かせて逃げるザンパノのことを、「あいつは畜生だ…」と言って井上がワンワン哭く話が出てくる。感性豊かな下町の少年であったのだろう。(つづく)

            
      


山びこの会「下町界隈歩き」②

2012-02-20 11:30:48 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 先ず立ち寄ったのが旧安田庭園。両国に降りて国技館や東京都博物館などには何回か来たが、この庭園は初めて。ご存じ旧安田財閥の創始者安田善次郎の庭園で、安田の死後大正11年に東京都に寄贈されたという。池には隅田川の水が引き入れられ、潮の干満で水面が変化する「潮入り池泉回遊式庭園」と呼ぶ洒落もの。随所の木に雪つりなどが施されており、その雪つりを通してスカイツリーが遠望できた。

  
  
   安田庭園よりスカイツリーを望む

 続いて東京慰霊堂を拝す。関東大震災と東京大空襲の被災者を慰霊するもので、当時の写真などが掲げられてあった。これも、両国駅のすぐ傍にありながらこれまで知らなかった。
 そこを出て北斎通りを北に向かう。葛飾北斎は生涯96回も転居したそうだがこの本所に住んだのが一番長く、墨田区は我が物顔に歩道の名前に取り入れた。歩道の街灯に次々と北斎の版画が掲示されたなかなか粋な街路である。昨年10月長野県の小布施を訪ねたが、ここは北斎が80歳を過ぎてたびたび訪ね大作を残した地であり、街には北斎館をはじめ北斎が充満していた。偉人は各地に痕跡を残す。

 


 以降、大横川親水公園や十間橋 などスカイツリのビューポイントを追ったのは前回記したとおりである。なかでも親水公演は、江戸初期に木材運搬用運河として開削されたものと聞くが、今や暗渠化されて素敵な散策公園となっている。街中にあって心休まる場所であろう。
 春日通を渡り小梅通りなどいうこれまた粋な名前の通りを越して見番通りに着くと言問橋際、その通りに面した割烹「上総屋」が昼食場所。総勢44名、借り切った2階の広間からはスカイツリーが眼前に見える。食べた昼食もお代1100円にしては立派なものでした。因みに上総屋の創業は昭和9年というから私より1歳年上、78年の業歴を誇る。(つづく)


        

 


山びこの会「下町界隈歩き」に参加して

2012-02-19 16:05:52 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 何度かこのブログに登場願った「山びこの会」は、その名の通り登山や山歩きを主目的とするが、年に何回かは「ミカン狩り」や「名所めぐり」なども企画してくれる。私はこれらの平地歩きや年末の総会(いわゆる忘年会と称する飲み会)にしか参加しない横着な会員であるが、そんな人間をも温かく受け入れてくれる包容力がこの会の良さであろう。
 昨日はその2月例会で、「江戸界隈の下町歩き」というので、これこれと思い参加した。その目玉の一つが、今を時めくスカイツリーというのも私の重い腰を上げさせた理由であった。なにせ周辺でスカイツリーの話が事あるごとに出るので、もうソロソロ見ておこうと機会を狙っていたのだ。
 しかしこのツアーは老骨にはこたえた。両国橋西口を9時に出発、旧安田庭園や震災・戦災慰霊堂を見学するまではいいが、北斎通りを北に向かい、大横川親水公園、横十間川、十間橋などの“スカイツリー・ビューポイント”を回りながらその真下に到着(業平橋駅)。昼食休憩はあったが、その後、桜橋、待乳山聖天、言問橋とツリーのビュー・ポイントをめぐり、なお、浅草神社、入谷鬼子母神、鶯谷陸橋から寛永寺根本中堂を経て谷中墓地に至った。墓地をくまなく歩き最後は「夕焼けだんだん」で夕日を拝み散会するという14キロ、6時間にわたる行程である。
 もちろん、このような行程は山びこのメンバーにとっては屁みたいなものであろうが、日ごろほとんど歩くことをしない喜寿直前の老骨にはこたえた。谷中墓地に向かうころから両足の股関節が痛くなり、夕焼けだんだんについたころには、夕焼けを眺めるどころか、傍の喫茶店に座り込みコーヒーをすするありさま。(もっとも、まだ4時前で夕焼けには早かったが) ようやく日暮里駅の第二次会場にたどり着き、そこで飲んだ「菊姫山廃純米」、「南部美人純米吟醸」で何とか生気を取り戻すという体たらく。

 しかし、振り返ればこのツアーは内容があった。スカイツリーはともかく、江戸下町の歴史と濃厚な文化に数多く触れた。一つじっくり振り返って、街や史跡の名前だけでも書き残しておこう。(つづく)

              

   

                        


バレンタインのチョコレート

2012-02-15 17:45:57 | 時局雑感

 

 わが社には女性社員が3人いる。昨日のバレンタインデーに3人の女性からチョコレートをもらった。何年か前までこのプレゼントは随分流行っていた記憶があるが、そのうちいつの間にか下火になったような気がしていた。もちろん、何となく行われていたが、「義理チョコはやめようね」というような雰囲気が強まっていたような気がしていた。。
 ところが昨日、何となく自然にチョコレートをいただいて、なんだかうれしく思った。「義理チョコ」の時期を脱して自然な交流というか、思いやりみたいなものが職場を流れていたような気がする。もしかしたら、このような変遷を通じてバレンタインのチョコレートが日本社会にも定着するのかもしれない。とすればそれは“良き風習”として定着するのだろう。

  
    3人から頂いた3種のチョコレート

 そのうちの一つが、フランスの高級チョコ「ジャン ポール・エヴァン」であった。実は何週間か前の日経新聞「何でもランキング」の1位になっていた同社の「コスタリカ」という商品名のチョコを見ながら、「食べてみたいなあ」とつぶやいた私の言葉を、隣席のTさんが聞きとめていて、その「コスタリカ」ではないが同社の商品を買ってくれたのだ。彼女は、「本物の味を知ってもらおう」と職場のみんなに配っていた。
 かなり高価であったのだろう小さいチョコ2枚であったが、甘みと苦みが濃醇に込められて、充足感に満ちた味であった。
 家に帰るとワイフが、「ほんの気持ちです」と書かれたのし箱に入ったチョコを、机の上に置いてくれていた。今日は朝から、4人に頂いた四つのチョコを次々に食べて、実に心豊かな一日であった。


しゃれたデザインの「ジャン ポール・エヴァン」


普天間移転問題と沖縄県民の真意③

2012-02-13 15:44:00 | 政治経済

 

 2月12日付毎日新聞は、「国連の会議に参加資格を持つNGO『反差別国際運動』など3団体が10日、ジュネーブの人権差別撤廃条約の委員会に対し、県内移設計画の見直しなどを日本政府に勧告するよう求める申し立てを行った」と報じている。申し立ての理由は、そもそも沖縄の米軍基地自体、日本国の琉球国編入(1879年の明治政府による琉球処分)以来続く先住民への差別と主張、以降日本政府は、沖縄先住民に戦争などで多大な犠牲を強いてきたとしている。
 加えて申し立ては、「面積で国土の0.6%の沖縄に在日米軍基地の74%が集中しているのも歴史的差別政策の一環であり、普天間飛行場の県内移設は、この差別構造を続けるもの」と指摘している。
 多くの日本国民に、沖縄先住民に対する差別意識などないと信じる。私自体そんな意識は持っていない。しかし言われてみれば、「0.6%の土地に軍事基地の74%を押し付けている」実態はあまりにも異常であり、事実として差別していると言われても仕方あるまい。少なくとも世界のほとんどの国の人々にはそう映るであろう。
 沖縄県民はそれを我慢してきたのだが、「半世紀以上我慢してきた。もうそろそろ他所へ移してくれ」というのは、真意どころか悲痛過ぎる叫びであり、それでも我慢させようというのは、世界の人に差別と受け取られても反論できまい。沖縄県民の真意は、世界的レベルで認められてきつつあるのだ。

 アメリカと腹を割って話すか、他県のどこか受け入れ先を探すしかないのではないか? もちろん、アメリカと交渉するとすれば、その先に「日本の軍備をどうするのか」、それとも「憲法9条の絶対的平和主義を維持するのか」という大問題をも避けて通らない腹をくくる必要があるが…。


普天間移転問題と沖縄県民の真意②

2012-02-12 13:33:15 | 政治経済

 

 普天間移転問題に対する沖縄県民の真意はどこにあるのか? いくらなんでも、なだめすかされ、いやいや追い込まれ“基地たらいまし容認”が真意ではあるまい。。「寝てる子を起こした」と悔しがるが、それは「何とかしてくれ」という沖縄県民の“正気”が表面化しただけではないのか?
 一昨年11月、私は沖縄を訪ね普天間や嘉手納基地を見てきた。ある家族と一夜食事を共にし基地問題を話し合ったが、彼らの「普天間も大変だが、問題は嘉手納ですよ。これが解決しなければ沖縄の戦後は終わらない」という悲痛なつぶやきが忘れなれない。アメリカの世界戦略の中に組み込まれた基地沖縄、嘉手納返還など想像もつかないという県民の絶望感のようなものに触れて、私は同じ日本国民としていたたまれない思いがした。
 戦後一貫して要求し続けてきた「基地の県外撤去」につき、鳩山前首相が「世界一危険な普天間基地は少なくとも県外移転」と発言した時、「できるならそれだけでもすぐやってくれ」と叫んだのは当然のことで、寝てる子が起きたのではなく、本来の正気をあらわにしただけである。それが沖縄県民の本来の要求であることは、その後の各地の首長選挙を見ればわかる。県内移転を掲げる候補は誰もいない。敵味方とも県外移転は大前提の上での選挙戦になっている。
 もし鳩山が間違ったとすれば、県外移設という選挙公約を瞬く間に引っ込めたことだ。選挙の時は威勢が良かったが、いざ自分の手でやるとなると、アメリカに脅され自民はじめ各勢力に突き上げられた。そこでたちまち、「私が間違っていました」と謝り方向転換しことこそ、沖縄県民の正気を踏みにじったのではないのか? もっとも、「お母様に何十億円ももらっていて、それに気が付きませんでしたというような浮世離れした坊ちゃん政治家」に、基地の無条件返還を求める信念も度胸もないのは無理からぬことではあったが…。

 沖縄の問題としてではなく基地問題は、戦後60年を経て本来の立場に立ち返ったのではないか。はからずも本日付の毎日新聞は、「普天間県内移設は人権侵害」という国連参加NGO[反差別国際運動」の勧告申し立て記事を一面に掲げている。国外・県外移設は、沖縄県民の要求どころか世界的な関心を呼ぼうとしているのである。(つづく)


普天間移転問題と沖縄県民の真意

2012-02-11 13:02:54 | 政治経済

 

 沖縄からの海兵隊移転などを中心とした在日米軍再編計画が動き始めた。従来は、海兵隊のグアム移転と普天間基地の移転(計画では辺野古への移転)は一体のものとされてきたが、今回それを切り離し、グアムをはじめ各地への海兵隊移転を先行するようだ。大方の意見は、これにより普天間基地の返還が遠のき固定化するのではないかと心配している。
 一番悔しがっているのが自民党を中心とした面々で、それによると、「このようなことになったのは民主党の鳩山前首相の“普天間移転は国外、少なくとも県外”という発言が原因だ。せっかく県内の辺野古移転を沖縄県民が受け入れようとしていたのに、軽率な発言で混乱させた」ということらしい。
 しかしこれもひどい発言ではないか? よく聞けば私には次のように聞こえる。
 「長い時間をかけて沖縄県民を騙し、すかし、ようやく寝かせつけたのに、鳩山発言が寝てる子を起こした。けしからん」

 これまた「けしからん」発言ではないのか? 沖縄県民が真意として辺野古移転を望んでいるのなら、それを変な方向に扇動するのは「けしからん」ことであるが、沖縄県民の真意は、「第二次大戦で現地戦を闘い、戦後60年基地生活に耐えてきたのだから、もうそろそろ何処かへ持って行ってくれ」ということではないか? それを、騙しだまし眠らせてきたのに寝た子を起こした、というのは筋が違い過ぎるのではないか。
 日本国民は、沖縄県民の真意にもう一度立ち返るべきではないのか。 (つづく)

  
  住宅街にかこまれる普天間基地
     


     


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