旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

遥人(孫)の箱根その3…優しかった遥人

2023-04-08 10:59:35 | 

 

 この旅を企画した息子一家は、私に一つの思いを寄せてくれていた。私の米寿を祝ってくれる思いだ。個室を予約した夕食の席に着くと、私の席には、「米寿の方は、これを着用してください」と、黄金色の帽子とチャンチャンコが置かれ、大きな扇まで添えられていた。
 私は、皆に祝福されながらそれを着用し、地酒『箱根街道』とともに、豪華で美味しい料理の数々を味わったのであった。

 
                  

 優しさを感じたのはそれだけではなかった。最近めっきり視力を失い、脚力が衰えてきた私の身を案じ、遥人はいたる所で私の手をひいてくれた。階段やスロープに差し掛かると、「おじいちゃん大丈夫?」と私の手を握り先導してくれた。大浴場に入り、滑らないようにヨチヨチ歩く私の手をとり、「この手すりにつかまって」と湯船に案内してくれた。
 遥人は、走りは速いし野球はうまい。元気で強い子だ。その強さが、反面に優しい心を育むのだろう。
 孫の手のぬくもりが,心に沁みる旅であった。

 
 遥人君、ありがとう


遥人(孫)の箱根その2…美しく雄大な箱根

2023-04-06 20:48:41 | 

 

 遥人本人も含めて、私たちの目的はロマンスカーだけではない。美しく、雄大な、箱根の雰囲気に浸ることだ。
 息子たちが予約してくれた、箱根湯本の河鹿荘は素敵なホテルであった。河鹿の鳴き声こそ聞こえなかったが、緑豊かな中を流れる早川のせせらぎは、夜を徹して心を和ませてくれた。

 

 大混雑の登山鉄道で強羅へ、ケーブルカーで早雲山にに上り、ロープウェイに乗りつで大涌谷に至る。ロープウェイから見る富士山も、久しぶりにきれいであった。
 大涌谷では、息子が長蛇の列を並んでやっと手にした「黒い玉子」も食べた。いやあ~、久しぶりに雄大な箱根に触れた。

 
  
 
  黒い玉子を皆で食べる

 
  待望の函嶺洞門にも行きました(河鹿荘から徒歩3分)


遥人(孫)の箱根その1…待望のロマンスカー

2023-04-05 15:27:06 | 

 

 孫の遥人(8歳)は大の鉄道ファン。中でも小田急ロマンスカーのご指定の車両の最前列に乗るのが夢という。ようやくその指定車両の指定の席が予約できたというので、わが老夫婦も参加させてもらった。
 孫のはしゃぎようは大変なもので、体いっぱいその喜びを表現して乗り込む。そこに現れた運転士さんが、これまた大サービスで、自分の運転帽子を遥人にかむらせてくれていろいろと説明してくれる。食い入るように聞いていた遥人に、最後に運転士名刺までくれて、二階の運転席に消えていった。
 この大サービスに、わが家族は一気に盛り上がり、ロマンスカー最前列の進行風景を楽しんだのであった。終点では降りてきた運転士と愛車の先頭部をバックに記念撮影、…遥人の夢は、どんなに膨らんだことであっただろうか?

 
 運転帽をかむり、熱心に話を聞く遥人
  
  名刺をもらって大喜び
  
 運転士は、家族集合写真も撮ってくれた
  
  私も初めて、最前列風景を味わいました

 
 最後は、再び運転士さんと愛車の先頭部をバックに記念撮影



 


淳の七回忌(大分の旅)⑤ … 若き「いとこ軍団」の台頭

2021-11-29 10:58:30 | 

 

 老いは、未来を思うより過去を辿る。今度の旅でも昔のことばかり思い出していた。
 法要の後の二次会で、隆介君が提供してくれた名古屋の名酒『醸し人九平次』を飲むと、その美味しさのあまり、2009年萬乗醸造の蔵を訪ね、九平次氏が山田錦を力説したことを思い出す。九重の飯田高原で芹洋子の「坊がつる賛歌」の歌碑を見ると、2015年東京めじろ会(大分県人による酒の会)に参加してくれた彼女の熱唱と、記念写真に収まってくれたことを思い出す。

  九平次さんと

  
  芹洋子さんと

 しかし今回得た最大のものは、そのような懐古趣味ではなかった。それは若者たちの台頭、わが兄弟の子供たち、つまり若きいとこ軍団の息吹であった。
 前述した二次会で、隆介は、中学教師としての活動と最近の研究成果を示す三つの論文を見せてくれた。それは『コロナ禍における中学校部活動の実態』(首藤隆介著)ほか教育課程経営論に関する二つの共著論文であった。忙しい中学教師がこのような研究を続け、諸論文を発表するまでに至っていることをうれしく思う。
 研究成果と言えば、立教大学教授首藤若菜は、労働論に取り組んで多くの課題を世に問うている。私の書棚にも『統合される男女の職場』や『物流危機は終わらない』など多くの著書や論文が並んでいる。
 萱場工業の研究室に勤める首藤悠からは、『スマート道路モニタリングシステムの開発』という研究論文が寄せられている。聞くところによれば総務大臣賞を獲得したというニュースもある。
 わが娘首藤史織は、10年前にNPOオペラ普及団体ミャゴラトーリを立ち上げ、ここ数年、日本オペラ界の鬼才岩田達宗氏のご協力を受け、新解釈による六つのオペラ公演に取り組んだ。コロナ禍の下で、小劇場演劇的オペラという新ジャンルを追及している。
 その他のいとこたちの活躍も数多い。今や世代は代わりつつある。老いぼれが懐古趣味に陥っている時ではない。いつか、これら若きいとこ軍団がうちそろい、研究発表会をやってくないかと期待している。一族の前で共同発表をするなど、そんなセンチメンタリズムは今の若者は持ち合わせていないかもしれないが。
 とまれ、淳の七回忌は、図らずも若い息吹を伝えてくれた。  

 
  隆介の研究論文

 


淳の七回忌(大分の旅)④ … 城下かれいハプニング

2021-11-26 10:32:14 | 

 

 この旅の目的の一つに、日出の名産「城下かれい」を食べることがあった。このかれいは学名を「眞子がれい」と言い体長40~50センチ、海浜の浅瀬に住んで海底から湧く真水を好んで生殖する。日出も、別府湾にせり出す暘谷城の城壁の下に湧く真水に稚魚を放流し養殖している。昔は、庶民は食べることのできなかった高級魚と言われている。

 私は大分県の食の名産は、臼杵のフグ(肝付き)、日出の城下かれい、佐賀の関の関アジ、関サバと思っているが、弟も義妹も食べたことがないというので計画したのだ。

 お店は日出の老舗割烹『幸喜屋』、刺身はもちろん最後の寿司まで城下かれいずくしの10品フルコース(お代は8000円)、酒は杵築の名酒「智慧美人(ちえびじん)」純米吟醸と純米酒、地元料理に地元酒と文句ない。
 宴は進み、かれいの形をしたお皿に刺身が盛られてくると、義妹が運んできた賄い婦に怪訝そうな顔で訊ねている。「この魚は何ですか?」、聞かれた賄い婦は「これが城下かれいです」と胸を張る。
 事件はこの時に起きた! 義妹が私に向かって言う。
「私は今まで、シロシタカレイというのはカレイライス(白舌カレー?)と思っていました。かれいって魚の鰈(かれい)ですか。私は、わざわざ食べに行くカレイライスとは相当なものだと思い、これまで出た料理は前菜だと思っていました」
 これには唖然とした。私はちょうど注ぎ足した盃を取り落そうとしたほどだ。彼女は城下かれいのフルコースをカレイライスの前菜と思って食べていたのだ。恐らく大した味もしなかったであろう。彼女は、たかがカレイライスの前菜に8000円支払ったのである。しかも、本体のカレイライスにもありつけなかったのである。私は今も、あの勘定を割り勘にしたことが気になっている。
 「何事も先達はあらまほしき事なり」と吉田兼好が諭しているが、私は先達の役を果たせなかったことを恥じている。

   
 写真は浩子さん提供
  
  前回訪問時(2010年4月)和弘撮影

     
  
   左純米酒、右純米吟醸


淳の七回忌(大分の旅)③ … 杵築と日出

2021-11-23 11:56:19 | 

 

 杵築と日出は別府湾の北側に面する城下町で、特に杵築はその風情を多く残した町である。町のメインストリートの両側が小高い丘になっており、幾筋もの階段が設けられている。それを上ると昔の大名屋敷街で、白壁に囲まれた大屋敷が並んでいる。
 私たちは時間の制約もあって、もっとも有名な「酢屋の坂」を下り、反対側の「勘定場の坂」を上り、屋敷の一角にある展望台から杵築城を遠望した。このコースは10年前に妻と歩いたが、この大好きな風情にほとんど変わりはなかった。当時の写真も掲げておく。

 
  勘定場の坂(?)… 浩子さん撮影
   …
   酢屋野坂(?)…浩子さん提供
  

以下2枚は10年前訪問時の写真

 
 酢屋の坂。後ろ姿は妻照子(2010年4月和弘撮影)
 
 勘定場の坂(2010年4月和弘撮影)
    

 日出は杵築に比べて開発が進み、城下町の面影は少ないが、しかし、滝廉太郎を生み、名物「城下かれい」を産し、近くは第二次世界大戦の「人間魚雷(回天)の訓練基地」の跡などを残す。
 滝廉太郎については、その生誕の地を竹田市と日出市で競い合っている。竹田は、その小学校に在籍の跡を残し、何と言っても「荒城の月」の舞台とされる岡城を有す。確かに岡城に登ると「これぞ荒城の月の舞台!」と思わせる景観があるが、反面、作詞した土井晩翠がその題材を仙台の青葉城に採ったことは確かであり、廉太郎が岡城だけをイメージして曲想を練ったかは疑いを残す。
 我々は、暘谷城の堀端に建つ廉太郎の銅像(郷里出身の朝倉文夫の名品)の前で写真に納まり、龍泉寺の滝一族の墓を拝し、「廉太郎の生地は日出に違いない」と単純な結論を下したのであったが…。

 
  滝廉太郎の銅像(浩子さん提供)

 


淳の七回忌(大分の旅)② … 飯田(はんだ)高原から湯布院へ

2021-11-20 15:19:05 | 

 

 山小屋を出て、九州横断道“やまなみハイウェイ”の長者原(ちょうじゃばる)ビジネスセンターでトイレ休憩。久しぶりに久住連山をじっくり眺める。私は子供の頃から久住山には数多く登ったが、多くは南側からであった。大分から豊肥線で竹田に出て、バスで種畜場へ、そこで牛乳をたっぷり飲んで山行に入る。沢水(そうみ)から山に分け入り峠を越えると“坊がつる”、その一角の法華院温泉で一泊して、翌日から久住や大船に登るのが常であった。
 復路は北側の飯田高原に下りて久大線の中村から帰ることもあったが、九重連峰の北側になじんだのは淳の山小屋が出来てからだ。
「再びこの地を訪れることがあろうか?」という思いも込めて、眼前に聳える三俣や久住の連山を眺めた。駐車場の一角に設置されていた「芹洋子の坊がつる賛歌」の歌碑の前で、懐かしい歌を斉唱して湯布院に向かう。これまた懐かしい『亀の井別荘』で地ビールを飲み昼食、紅葉で美しい金鱗湖をゆっくり回って、次の目的地杵築に向かう。

 因みに『亀の井別荘』は、湯布院町おこし三人組(溝口薫平、志手康二、中谷健太郎各氏)の一人、中谷健太郎氏の営む旅館である。町おこしのいきさつは、溝口薫平氏の「語り書『虫庭の宿』」に詳しい。是非とも一読を薦める。

 
 すすき野の先に久住連山をのぞむ(健次撮影)

  (健次撮影) 
   
   『亀の井別荘』での昼食(浩子さん撮影)

       
       (浩子さん提供)     
 
 
 金鱗湖から流れ出る疎水の紅葉(健次撮影) 


淳の七回忌(大分の旅)① … 淳のブナ

2021-11-17 20:00:07 | 

 

 三弟淳の七回忌の法要で臼杵に帰った。何度も書いてきたが、淳は男ばかり五人兄弟の三番目、明るくにぎやかに座を取り持つ男で、いつも話題を欠くことはなかった。とはいえ、七回忌ともなれば「去る者は日々に疎く」、思い出を語るには、日時を手繰ることが多くなった。
 ところが、翌日、淳の残した「九重の山小屋」を訪ねると、そこには淳の痕跡が鮮明に残されていた。彼は教員をやめるとその退職金で、九住山の北面、飯田高原の一角に、約三千坪を購入して山小屋を建てた。それだけではなく小屋の周囲に、秋田県の白神山地や駒ヶ岳中腹のブナの苗木を移植し、ブナ林を造成する計画を立てた。
 秋田のブナが九州で育つはずはない、という周囲に声にひるむことなく、死ぬまでそのブナ林の育成に努めた。私もこれまで、淳に連れられて何度もその地を訪れたが、確かにブナも育っていたがクヌギなどの雑木と雑草に覆われ雑然とした風景であった。
 ところが、今度訪ねてみると雑木は除かれ雑草は刈られて、何百本のブナが見事な大木に成長して紅葉を誇っていた。地元九重町の後継青年たちが、今なお手入れを続けてくれていうのだ。素晴らしい景観であった。
 淳は死してブナを残した、というべきか!


 (注)私は不覚にもカメラの設定を誤って、全ての写真を失った。従って、以下の写真はすべて同行者のものに依存する。

 


法要を終え、龍源寺の墓地に卒塔婆を納め記念撮影



 
    健次撮影、ブナ林最大のブナ


 淳の山小屋「いろり荘」前で記念撮影(浩子さんのカメラ)


淳の面影を残す「いろり荘」のいろり(浩子さん撮影)

 

 山小屋から「わいた山」を望む(健次のカメラ)           


箱根に行ってきました(つづき)

2018-10-06 15:06:39 | 

 

 義兄一家と二泊三日の箱根に出かけ、二日目は大涌谷から芦ノ湖周辺を回り、最後は海賊船に乗ってくつろいだところまではすでに書いた。三日目は、朝もゆっくりして、見物も「箱根美術館」と強羅公園だけにして、早めに帰路についた。

 箱根美術館は初めて行ったが、陳列品も素晴らしく、何よりも庭園がきれいであった。開設者の岡田茂吉は、1882年(明治15年)に浅草に生まれ、1955年(昭和30年)72歳で死去するまで、かなり波乱にとんだ生涯を送ったようだ。Wikipediaによれば、岡田は日本の新宗教・世界救世教の始祖とあり、ほかに宗教家、文明評論家、書家、画家、歌人、華道流祖、造園家、建築家、美術品収集家、となっており生活の巾の広さをうかがわせる。
 我々は、その美術品収集家と造園家の一端に触れただけであるが、その素晴らしさに驚いた。収集品では備前と景徳鎮が目を引いた。何とも欲しくなるような酒器などが並んでいた。
 庭園の美しさには驚嘆した。一面やわらかい苔に覆われ、木々の緑と調和した風情は、心を和ませてくれた。言葉は要らない。写真を何枚か掲げておこう。

  
      
 

 ついでに強羅公園の写真も一枚。

      
 


箱根に行ってきました

2018-09-26 14:01:57 | 


 何十年ぶりかで箱根に行ってきた。義兄一家(6人)の計画にわが夫婦が加わった総勢8人の旅だ。実は、奥様を亡くし一人暮らしとなった義兄を、お子様方が「お父様の老いを癒そう」と企画したもので、我々の参加は若干お邪魔虫ではあったが、気心知れた者同士の旅は楽しかった。
 一同小田原で落ち合い、先ずは早川漁港で「鮮魚の昼食」、その後、秀吉北条攻めの「一夜城跡」を散策して、二泊予定の強羅『静雲荘』(文科省共済組合宿舎)に向かう。メンバーの一人、神戸大学教授の予約だ。

 このところ悪天候が続いたが、この三日間は好天に恵まれた。富士山が見えるまではいかなかったが、久しぶりに青空を満喫した。二日目は、お決まりの早雲山…大涌谷…芦ノ湖めぐりというコースだ。もはや説明は要しないので、以下は写真でつづろう。

 
     

ロープウェイで大涌谷へ。まずお目当ての「黒たまご」を食べる。

 
      

 桃源台に降りて先ず向かったのは、義兄推薦の「早川水門」だ。義兄によれば、芦ノ湖は周辺の地にとって大変な水源で、この早川水門と「深良水門」は是非とも見るべしと言う。それでは、ということにしたがキャンプ場わきの案内板を見ると、「深良水門1500m」とある。まあ、1.5キロならいいかと思い歩き始めが、気がついて見れば、行けばそれだけ帰らなければならぬ。つまり3キロの行程だ。あとでわかったが結局この日は8キロ以上を歩いたことになり、老体には少々堪えた。

  

 早川水門
   
   勢いよく深良水門を流れ出る水流

 
  箱根は秋の風情でした

 

   

  
 最後は海賊船で元箱根に向かいました。特別室にくつろいで。

 


     
   

 


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