旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

日本人も捨てたものじゃない!

2010-03-30 10:10:00 | 時局雑感

 

 世の中悪いニュースばかりが流れ、どうなっていくのか不安である。日本人は勤勉で情に厚く、みんなで助け合って生きてきたと思っていたが、近時の格差の拡大、貧困層の増大などが原因か、人を人とも思わないような事件が相次ぎ、今後に希望を失いかけていた。
 そこに、意外なニュースが二つ続いた。

 昨日のこと。職場の女性が財布をなくしたと青ざめて帰社してきた。身辺から行った先々を探すが見当たらない。最後に財布を使ったのが弁当屋で弁当を買ったとき、と言うので問い合わせるが無い。いずれにせよ何処かに落としたに違いなく、現金の入っている財布が出てくる可能性は皆無と思った。
 ところが、その財布は近くの交番に「落し物拾得物」として届けられていた。もちろん中身は全て無事で。わが社の前の路上に落ちていたものを、通りがかりの人が交番(中野坂上)に届けてくれたのだ。
 しおれた彼女の姿を見て心を暗くしていた私は、「全く信じられない!」思いでその報告を聞いた。彼女は「交番の巡査さんに『世の中悪い人ばかりではありませんよ』と言われましたと、いつもの明るい笑顔に戻った。私も久しぶりに清々(すがすが)しい気持ちで話を聞いた。

 実は先日、山形県の酒蔵ツアーに出かけたが、このときも参加の女性が財布をなくした。身辺はもちろん、バスの中まで探すが無い。新幹線の中か買い物の店か何処かであろうが、最早出てくる可能性はないだろうと全員あきらめていた。
 ところが、この財布が新庄駅の拾得物係に届けられていたのだ! 下車駅の売店での買い物のとき落としたらしい。これも中身は全て無事であった。
 二つの財布の中身(つまり金額)については、敢えてここに記ないが、店に押し入り人を殺してまで金銭を盗もうとする世の中にあって、いくばくのカネであろうと手にしようとするのは人情かもしれない。しかしそれを拾った人は、きっと「落とした人の心情」に心を向けたのであろう。

 山形では、「山形県は酒もいいが人も立派なんだ」などと話し合ったものだが、東京のど真ん中でも「立派な人」が多いのだ。
 明日へ希望をつなぐ出来事であった

   
     3月26日小石川植物園のしだれ桜


山形酒蔵めぐり③ ・・・ 出羽桜の酒造り

2010-03-28 15:19:18 | 

 

 前回のこの項でも書いたように、よい酒を造る蔵がいっそう「酒つくりの原点」に立ち返ろうとしていることを、最近強く感じる。

「出羽桜」の仲野社長が最初に話し始めたのは「米の精米」についてであった。酒の原点の一つが米にあることは当然のことであるが、その米をいかに大事に扱いながら「よい酒造り」に持っていくかに、大変な努力をされている。
 
その始まりが「磨き」である。精米歩合○○%と言うが、「千粒重」(米1000粒の重さ)で正確に測ると、35%といっても40%近いこともあり、40%といっても4344%のこともある。従って「先ず自分の手で精米するしかない」ということを強調していた。そのため、かなりの投資をして精米機を備えた、と大きな精米所を見せてくれた。
 米は8090%の精米には大して時間もかからないが、30%40%に精米するには70時間前後の時間を要する。それを急ぐと米は熱を持ち砕ける。米が割れては使い物にならないので、言うなれば騙しだまし時間をかけて精米する。精米した米の熱を冷ますため乾燥させる(枯らしという)時間により、次ぎの米洗いで水を吸収する時間が異なる。だから「枯らし」には相当に注意しているという。こうして米の状態を最高の状態にもって行きながら「外硬内軟」な蒸し米を作れば、麹菌が中まで食い込む強い米麹(はぜ込み麹)ができる。

    

     
         酒造りを語る中野社長

 この、精米―枯らし―浸漬(吸水)―蒸し・・・という過程を熱心に説いて、その上で麹造り、もろみ造りの現場を見せてくれた。いい酒つくりをしているなあ・・・とつくづく思った。因みに「出羽桜雄町」は、昨年暮れに行なわれた「純米酒大賞制定委員会」で全国87蔵、137銘柄の酒の中から見事選ばれて大賞を勝ち取った(詳細は091229日付本ブログ参照)。「原点に立ち返った酒造り」が生み出した成果であることを学ぶことが出来た。

その夜、天童ホテルの宴会で「出羽桜一路」をたっぷりと味わった。

        


熊野紀行⑦ ・・・ 浜宮王子、補陀洛山寺(ふだらくさんじ)

2010-03-27 10:32:07 | 

 

 那智大瀧の迫力に圧倒されて、青岸渡寺、熊野那智大社と参拝して山を下る。青岸渡寺と大瀧との組み合わせ写真は、よくテレビでも見る光景だ。その最高のカメラ位置にNHKの常設カメラが据えられていた。この景色はやはり快晴の下がいいだろうと思う。塔の赤と周囲の緑に滝が映えるに違いないと思った。

     

 

 本来のコースは大門坂を下る予定であったが、雨による変更で坂は上ってきたので、浜宮王子までバスで下る。そこにひっそりと残る寺こそ、かの補陀洛山寺だ。幾多の僧侶などがこの寺から極楽浄土を目指して海に向かった。有名どころでは平惟盛などもここから入水したという。中には死ぬのが怖くなって船から逃げ出したものもいたというが、やがて見つかって無理やり海に沈められたというから厳しい世界だ。
 
そのときに使った船が原寸大で境内の一角に残されている。住職に聞くと、かつては境内に入る鳥居の位置まで波が打ち寄せており、そこから船で海に向かったと言う。いまは住宅街となっており海も見えない。かつては、背後に熊野三山を控え、特に那智大瀧やゴトビキ岩などの御神体を背にし、穏やかにひろがる南紀の海を見て本当にその彼方に極楽浄土があると思えたのかもしれない。特に「橋抗岩」などを見ると、その向こうに極楽浄土がある錯覚に陥ったであろうと思う。

      

 いずれにせよ、これで二泊三日の熊野古道の旅は終わった。最後は強風交じりの雨で「苦難を与えられた」が、思い返せばいい旅であった。一つ書き加えておくが、雨の中でひいた那智大社のおみくじは『一番札の大吉』であった。今まで何度も大吉を引き当てたが一番札というのは初めてだ。
 
恐らく神のご配慮であったのであろう。この大雨で引いたおみくじが凶とか小吉などでは二度と来てくれないだろうから最高のくじを出したのだう。  
 
神もなかなか味なことをやるものだ。


山形酒蔵めぐり② ・・・ 「十四代」の酒造り

2010-03-26 10:46:15 | 

 

 初めて高木酒造にお邪魔して驚いたことは、第一に蔵のどこに行っても清潔さが保たれているということ(当然といえばそれまでだが、強く印象に残った)、第二に必要な設備には高価な最新鋭の設備が施されていること、第三にその中で伝統的な手法が手作りのまま生かされているということだった。

 多くを書く余裕は無いので省略するが、また他の三蔵とも共通するが、「酒つくりは、前提となる米の管理(精米、枯らし、浸漬)と、出来た酒の管理(火入れ、保管など)という原点に立ち返ってきた感を強くした。

 麹室もその後の行程も全部見せてくれたが、ここには蛇管(じゃかん、火入れする器具)の代わりに使っている最新鋭の火入れ機を掲げておく。

   

 もう一つ驚いたのは、日本に12しかないだろうといわれる焼酎を蒸留する「ポットスチル」だ。高木社長は意外にも蒸留酒が好きだとのことだが、この設備を見てそのこだわりを感じた。イングランドのスコッチウィスキーの蔵に行っている感じであった。

     

 こうして銘酒の生れる理由を学んだが、問題はその酒「十四代」を世間で飲むことが容易でないということだ、その夜の宴会に参加してくれた高木専務に私は問うた。

 「十四代はまぎれもなく日本最高水準の酒だ。しかし庶民はそれを高価で飲むことができない。高価の原因は貴方には無いが、その現象をどう思っているか?」

 それに対する彼の言葉は面白かった。

 「困ったことだと思っています。実は私も東京などで十四代が飲めないんですよ。自分の造った酒を高くて飲めないんですよ・・・」

 ただ、折りしもわれわれが蔵を訪ねた翌日の『山形新聞』が、連載「やまがた物語」に“日本酒「十四代」”を採りあげていた。そこには「インターネットのオークションなどでは、定価3千円ほどの純米吟醸が1万7千円、1万円の純米大吟醸が約8万円と、目を見張るような高値で取引され、その人気の高さが伺える。」と現状が記され、それに対する高木専務の次の言葉が引用されていた。

 「需給バランスが悪く買う人に迷惑をかけているのは心苦しい。でも一方では、ブローカーの間で取引されるような価値ある商品でありたいとも思う。価格は酒質のバロメーターであり、その価格を超える酒質を提供していきたい。」

 そこには造り手冥利と誇りが伺える。高品質の酒が生れるほど、それは庶民から遠くなる。致し方ない難しさがそこにはある。

   高木専務と


熊野紀行⑥ ・・・ 大雨の「速玉大社から那智大社」

2010-03-24 16:28:01 | 

 

 熊野古道中辺路コースの最終日(三日目)、目が覚めると、今度は前日朝の快晴がウソのような本格的な雨・・・、しかも強風注意報まで出ている。昨日快晴の古道をルンルン気分で歩き、ジェット船にふんぞり返って「瀞渓」の美観に浸った罰が当たったのではないかと反省する。熊野はやはりヤワではないようだ。その感は、歩き始めてますます深まった。

 とにかく、持てる雨具すべてで身を固め出発する。
 
速玉大社を拝み宝物殿を見学しているまではよかったが、次ぎの神倉神社となるともうだめだ。なにせ「538段の急勾配の鎌倉積み石段」を上らなければならない。上りはいいとして、「この雨風では下りは危険」というガイド(語り部阿諏訪勝氏)の判断で取りやめとなった。神武東征神話に現れる「天磐盾(あめのいわだて)」と伝えられる「ゴトビキ岩」など見たくもあったが、いかんせん、あきらめざるを得なかった。実は、とり付き口でその急階段を見ただけで、とり止めになってホッとしたのであったが。

  
             神倉神社の参道

 反面、当初は那智大社参拝後に下る予定であった「大門坂」(那智大社の参道)を、「下りは滑るので危険」と判断したガイドの指示で上ることになった。神倉神社の538段には及ばないがこちらも、「通称270段、実態300段を超える」(ガイド)という石段、左手に傘、右手に杖を持った昇りは、75歳を目前にしたジジイにはこたえた。

   
                             大門坂

 ただ、これらの疲れが一瞬にして吹っ飛んだのは、上り詰めて「那智の大瀧」を眼前にしたときだ。ゴーゴーと轟く音は聞こえるが、傘の中に身を縮めて何が何だか分からないでいると、義兄が「和弘さん、あれだよ」とはるか上方を指差す・・・、傘から顔を出して見上げると、アッと驚く光景であった。真上から大河が流れ落ちているのではないか、と思った。
 ガイドの説明によれば、「皆さんは雨で苦労されたが、大瀧のこれほどの水量を見ることが出来て幸運だ。このような水量はめったに見れない」ということだ。身もカメラも濡れるのもかまわずシャッターを押し続けた。とても鑑賞に堪えうる写真ではないが・・・。

        

豪雨強風の中の那智大瀧・・・、「めったに見れない水量」は苦難の果てにしか与えられないのだ。重ねて熊野はヤワではないことを思い知ったのであった。
     


山形の酒蔵見学ツアー2010

2010-03-22 13:48:01 | 

 

 20日、21日の一泊二日で、山形県の四つの酒蔵を回ってきた。フルネット社主催の「山形県の酒蔵見学ツアー2010」と称する酒蔵めぐりで、今を時めく「十四代」を初め、「出羽桜」、「米鶴」、「東光」という四つの蔵を回る極めて贅沢なツアーであった。
 単に表面的な蔵めぐりと異なり、「十四代」の高木辰五郎社長(正に高木酒造の十四代社長)と高木顕統(あきつな)専務、「出羽桜」の仲野益美社長、「米鶴」の梅津陽一郎社長とかの須貝智杜氏、「東光」小嶋総本店の小嶋彌左衛門社長、の直接のご案内とご説明を受け、また親しくご会食を頂くという、実に贅沢な旅であった。正直、「こんなことをしては、罰が当たるんじゃないですかねえ」と参加者とささやき合ったものである。

  
          十四代高木酒造

        
     酒を語る高木社長(後方は顕統専務)

 加えて夜は天童ホテルの貴賓室に泊まった。ご承知の通り天童は将棋の駒の町、従って将棋の名人戦などが行なわれるが、その際、羽生名人などが宿泊するのがこのホテルの貴賓室、「ここに羽生様が何度も泊まられました」という貴賓室(901号室)に案内され、生れて初めてそのような立派な部屋に寝た。
 わが一行20名は、大宴会場で高木専務や仲野部長を交えた宴会の後、その貴賓室に集まり二次会をやり、十四代と出羽桜を夜中の2時まで呑み続けたのである。これは「罰当たり」に値するであろう。

 もちろんわれわれは、単に飲んだだけではない。実に貴重な勉強をさせていただいた。特に山形県の蔵が非常に仲がよく、切磋琢磨を続けていることが、この四つの蔵を回っただけでもよく分かった。しかも、伝統の技を大事にしながらも、それぞれ最新鋭の設備を導入しながら酒質の向上に努力している様子がよく分かった。
 以降、熊野紀行ともども、このツアーの模様を書き続けることになるであろう。


熊野紀行⑤ ・・・ 語り部に教わる古道の今昔

2010-03-18 18:32:13 | 

 

 伏拝王子からは、はるかに見下ろす本宮大社まで一気に下る(途中一部の上りはあるが)。途中、東京でも聞いたことのあるような「三軒茶屋跡」とか、熊野川や「大斉原の大鳥居」が見える素晴らしい展望台、また「祓所王子」などがあるが、これらはガイドブックにお任せすることにして、ガイドの語り部先生方のお話をいくつか書き残しておこう。

    
               坂本先生

 坂本先生は「古道を歩くには五感を働かせよ」と言うとおり、路行く傍らの草花を実に丁寧に説明してくれた。1センチにも満たないような草花など、先生に言われるまではとても気がつかないようなものばかりであった。

  

 斜面の木陰にひっそり佇む石像を指して、「ここには『道休禅門』と書かれている。『道で休む』とうのは、いわば『いきだおれ』のことだ。熊野を訪れた多くの人が途中で行き倒れ死んでいった。村の人はそれを丁寧に葬ってきたのだ」と説明する。熊野を詣でた人はそれなりの過去と事情を持ち、中には死に場所を求めた人も多かったようだ。
 熊野に旅立つ人たちは、国元を発つとき庄屋などから「通行手形」を受け取る。その手形を坂本ガイドに見せてもらったが、「この者は怪しいものではないから通してくれ」というほか次の3点が記されている。一つは「怪我や病気の際は手当をしてやってくれ」、二つは「日が暮れたら一泊の宿をあてがってくれ」、三つは「もし亡くなったら“その地の慣わし”により葬ってやってくれ」としたためられている。
 地元の人はそれぞれの方法で参詣者をもてなして来たのだ。日が暮れれば一泊の宿を与え翌日は何がしかの路銀を持たせて見送り、目の不自由な方がいれば次ぎの集落まで手を取って送った(これを座頭引き”とよんだ)という。

  
                通行手形

 斜面の中腹を辿る道が多い熊野古道は、右も左も急斜面である。そこには、松や檜や雑木も植わっているが多くは杉だ。初日の小松ガイドが杉林の中腹の石垣を指して「何の跡か分かるか」と言うので「城跡かなあ」と答えると、「実は棚田の石垣跡だ」とのこと。熊野も過疎化が進み、かつて米を作った段々畑には杉が植えられたのだ。稲を育てるのは手間がかかるが、杉を植えておけば放置しておいても育つ・・・、というわけらしい。
 熊野を詣でる人に様々な事情があるように、そこに住む人たちにもいろいろな事情があって、こちらは村を出て行ったのであろう。

     
        展望台より熊野川を望む


43歳の息子の結婚

2010-03-16 16:36:44 | 時局雑感

 

 既に3年前になるが、このブログに「40歳の大学生」という一文を書いた。私の次男のことで、進学高校を中途退学して音楽(ギター)の道を進んでいたが、37歳になり突如高校に入りなおし40歳になる年に目白大学に入学したいきさつを書いたものだ。今年は四学年に進み来春は卒業の見込だ。
 ところがその息子が、この度結婚することに相成った。同じく音楽(作曲)の道を進む女性と付き合いをはじめ、世帯を持ちたいという。ついては先方のご両親にお会いすることになり、先日、親しくお話をする機会を持った。広島県の呉市で楽器店を営むご両親は、物静かで、奥ゆかしく、実に気持ちのいい方であった。相手の女性を大変気に入っているワイフは大喜びで、わが家は一足先に春めいてきていたのだ

 ところが、先方にはもう御一方ご挨拶を申し上げなければならない方がいる。お母様のご両親、つまりおじい様ご夫妻で、聞けば鎌倉にお住まいで、齢96歳を迎えるというのに今なお矍鑠(かくしゃく)たるもので、ゴルフではエイジシュートを何回もやっている方という。74歳の私など子供みたいなものだろう。
 そのおじい様にご挨拶申し上げるため、週末の19日鎌倉にお伺いすることになった。ご両親とのお話で結納などという堅苦しいことはやめることにしたが、いずれにせよ婚意をかためる「納采の儀(のうさいのぎ)」だ。その日があと3日に迫り、にわかに緊張の度を高めている。こちらの不束な言動が因で婚儀が整わないようなことになっては大変だ。
 まさに、「いざ、鎌倉!」という心境である。

 まあしかし、先日熊野を訪ね、快晴の熊野本宮大社にお参りし気持ちを新たにし、翌日は豪雨で身を清め那智大社にお祈り申し上げたので大丈夫であろう。古道のいたる所で鎌倉つくりの石段も踏みしめてきたし、何といっても那智大社でひいたおみくじは大吉であった。
 勇躍して鎌倉に出向くこととしよう。


熊野紀行④ ・・・ 快晴の古道を「発心門王子」から「本宮大社」へ

2010-03-14 10:47:23 | 

 

 二日目、目が覚めると昨日の天気がウソのような快晴・・・、「さすがに熊野権現様、ありがとう」などと言いながら勇躍して出かける。バスで今日の出発点「発心門王子」まで上り、先ずはガイド坂本勲生先生の指導で準備体操を行い出発。発心門王子にはかつて大鳥居があり、本宮大社への入り口とされていたという。とはいえここから本宮大社までは約7キロ、ただし、おおむね下り坂であり快晴の道をルンルン気分で歩く。

  

 ガイドの坂本先生は、『るるぶ』などにも採りあげられているカリスマ的語り部だそうで、齢82歳というが矍鑠(かくしゃく)たるもので、ゆっくりと語る言葉は明瞭かつ内容は豊か。特に、山路にさしかかる前に語った言葉は重く響いた。

 「熊野を歩くには五感を働かせて歩いて欲しい。五感を働かせるとは、耳から聞こえるものをよく聴き、目に映るものを良く観て、また、足から伝わるものを感じ取ることだ」

 特に、足から伝わるものを感じ取れ、と言う言葉を心に刻み、石畳と木の根がからむ古道を歩いた。様々な鳥のさえずり、風のそよぐ音、杉木立の木漏れ日や棚田の緑・・・警笛と騒音うずまく都会とは、全く別の五感が働いているようであった。

 しばらく舗道を歩き、「水呑王子」から山道に入る。よく晴れて遠望のきく山並みが美しい。左側に連なる山々は「果無(はてなし)山脈」という奈良県との県境をなす山脈とのこと。中央の高く飛び出た山が「なんとか富士」とのことであるが、とても富士には見えず、むしろ神の居所のように思えた。

 
       

 再び舗道に出てしばらく歩くと「伏拝王子」に着く。ここの伏拝茶屋でコーヒーなど飲んで王子に参拝。京からはるばる紀伊路、中辺路を経て、ここで初めて熊野本宮大社を見ることができる。その感激で思わず本宮を伏し拝んだことから、この地が「伏拝王子」となったという。

      
    伏拝王子より熊野本宮大社(中央)を望む


熊野紀行③ ・・・ 箸折峠から継桜王子へ

2010-03-13 14:50:39 | 

 

 昼食を済ましてバスへ乗り込み、途中「福定の“大いちょう”」などを眺めて、初日の山道歩きのとり付き口「道の駅“牛馬童子ふれあいパーキング”」に降り立つ。ここは「大坂本王子」から少し下ったところで、ここから「継桜王子」までの5.3キロが初日の行程。標高差は、ボトムの「近露王子」が標高290m、トップの「継桜王子」が506mで、その差約200mだから、山歩きと言うほどのものでもない。

 まず「箸折峠」に向かい、可愛い姿で近時人気が高いといわれる「牛馬童子像」にふれる。この付近から「近露王子」までは、熊野詣のはしりといわれる花山院の悲話にまつわる地域である。
 花山天皇(968~1008)はわずか17歳で即位するが19歳で妻を亡くし、加えて藤原兼家などの策謀で1年10ヶ月で皇位を追われ、失意を癒すがために熊野に旅立つ。山道でカヤを折って箸の代わりにした事から、この峠が「箸折峠」と名づけられた。そこに立つ可憐な牛馬童子像は法王花山院の旅姿ともされている。

    

 この峠を越えて眼下に見下ろす「近露の里」は、この行程の中で一番美しい光景であった。熊野の山中にひっそりと暮らす集落・・・しかし、取り囲む山々や、家々の周囲に広がる田畑に何か豊かさを感じさせるものがあった。

        

 心の豊かさを求めて熊野に詣でる・・・、それを迎える熊野は自然の豊かさをも備えていたのであろう。ガイドの小松裕見子先生(熊野語り部の資格者)の次の言葉は心に残る。

 「熊野権現はどんな人でも受け入れた。①浄・不浄を問わず、②信・不信を問わず(信仰心の有無を問わない)、③貴・賎を問わず、誰でも受け入れた・・・」

 難しいのは①の浄・不浄であるが、これは当時(平安朝)の時代的背景からも女性に多く関わることで、赤不浄(女性の月のさわり)、白不浄(産後の不浄)、黒不浄(死者の穢れ)の三つが問われたが、熊野権現はそのような人の参拝をすべて許したという。

 途中から再び降り始めた雨の中を、そのような話を聞きながら「野長瀬一族の墓」、「校庭が全面芝生の小学校」、「比曾原王子」、「とがの木茶屋」と歩き、「野中の一方杉」などが鬱蒼と茂る「継桜王子」に着いた。
 最後は「野中の清水」で乾いた喉を潤し、その日の宿「川湯温泉」に向かう。



   野中の清水


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