BS日テレが、毎週土曜日午後9時から『イタリアの小さな村』という番組を放映している。心地よい感動を与えてくれる実にいい番組だ。題名の通り、山間や海浜、または湖のほとりに広がる小さな村の、普通の人たちの生活を追っている。
斜面に広がる、決して肥沃には見えない土地を耕し、そこに合った作物を植えて生活を営む。あるいはブドウを植えてワインを醸し、また果物や野菜を育て生きている。おじいさんがやってきたことを父が受け継ぎ、今その子がそれを継承しようとしている。
富や名声を求める姿はそこにはない。というより、そのようなことを必要としない生活がそこにはある。若者がミラノやローマに出ていくが、いつの日かこの「小さな村」に帰ってくる。そこでバールを開き、パン屋を構え、また教師となって村人と接しながら生きる。
よくイタリア人は働かない、と言われるが、この物語を見る限り実によく働く。朝早くから野良に出る。暗いうちから仕事場に行く。もちろん、高度成長時代の日本人のような、ワーカホリック的な働きではない。自分と家族の幸せのために精いっぱい働くのだ。
生活はつつましい。しかし夜はバールに集まり、週末は近郊の家族も含めてみんなで食事をする。同じメンバーが同じように集まり、同じ話を楽しむ。昨日と同じ生活が今日もできた…これほど幸せなことはないのかもしれない。
名声など求める者はいない。ある村の村長は郵便配達夫を兼務している。郵便を配りながらすべての村民と言葉を交わす。そこで得た総意に基づき村の運営をやっているのだろう。
昨日のこの欄で、「イタリア人は国など頼りにしてないのではないか」と書いたが、この物語を見ている限り、政治空白の2か月や3か月は、全く関係ないと思える
道が崩れれば村民総出で直すし、村民の慶弔にも全員で当たる。国や自治体に文句を言う前に、人間生活に最低必要な部分を確立している。
日本人がこの境地に達するには、どのくらいの時を必要とするのだろうか?