旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

権力者の品格 … 舛添都知事の金銭・公私混同感覚

2016-05-28 11:11:18 | 政治経済

 

 舛添東京都知事の政治資金疑惑が連日マスコミをにぎわしている。「またか!」、「お前もか!」…と思うばかりで採り上げるのも憚るが、本人の釈明(釈明などにはなっていないが)を聞けば聞くほど、あまりにも一般庶民と感覚がずれているので、このような知事もいた、という事実だけでも書き残しておく。
  政治資金疑惑ということになっているが、問われているのは法的に違法性はないかということではなくて、家族旅行の代金を政治資金(その中には国民の税金からなる政党助成金も含まれている!)で支払わせるとか、湯河原の別荘に毎週赴くのに都の公用車を使うとかを、当たり前のこととしているその感覚なのだ。
 さすがに、家族旅行代金はまずかったと取り消したようだが、事がばれなかったらそのままにしていたはずで、訂正したからその感覚が正されたことにはならない。事の事実を第三者委員会の判断に待つ、という態度に至っては話にならない。真実を知っているのは誰よりも本人であり、第三者にいかなる賢人を選ぼうと、その人間がその場にいなかったならば真実の把握のしようがあるまい。時間などかけずに、一番よく知っている本人が資料とともに真実を語れば済むことである。
 舛添氏は、元来権力者志向は強かったようだが、以前はむしろこのような金銭感覚を非難し、政治資金規正法などのザル法的性格を追求していた。この法がザル法であるのを十分知り抜いている氏は、自分の行為を違法でないと第三者なる者に言わしめれば、この問題を免れうると判断しているのであろう。
 そのような感覚が、また国民とかけ離れている。いかにも「国際政治学者」らしい。そのような判断力は比類なきものを持っているのであろう。ところで、彼は東大教授であった。東大という大学は、そもそも明治政府が国の官僚を育てるために作った大学とされており、事実、東大出が国の運営、国を動かす大企業の運営の要所を握っているが、このような感覚の持ち主に学んだ東大生に任せておいて、我が国の将来は大丈夫だろうかと気になる。

 権力についた者が必ず舛添氏のようになる、とは限らない(多くの人間はそうなるようだが)。先日採り上げた(2016.4.15付「小さな国の大統領の大きな提言」)ウルグアイのホセ・ムヒカ前大統領は、収入の大半を社会に寄付し、最低限の生活を続けながら世界の耳目を集める国つくりに取り組んできた。
 権力者に求められるのは、まさに人間としての品格であろう。


弟、淳の遺作展

2016-05-23 15:14:08 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 昨年11月、75歳の若さで他界した弟淳の遺作展が、臼杵で開かれている(16日~29日間)。
 既に何度も触れたように(2015.11.27付「弟、淳の死」(3回)ほか)、私の3番目の弟淳は、教師をやりながら絵を描き続けた。題材はさまざまあったが、大学時代に秋田国体山岳の部に参加して以来、その魅力に取りつかれた「ブナ」に収斂した。死ぬ一週間前までブナを描き続け、「ブナの画家」と呼ばれるほどであった。
 そのブナの絵を中心に、数十点を掲げた遺作展ということだ。これは弟の遺言でもあったようで、それを受けて、娘の直子と二人の郷土画家の三人が選者となって、淳のアトリエに描き残されたものから選んだという。なかなかの好評を得ているようで、先ほどのトシエ夫人からのメールによれば、一日平均70~80人の方々が来てくれており、一週間を経て来館者は500人に達しようとしているという。淳の、多方面にわたる生前の活動に依るのであろう。

    
      遺作展のポスターと、大分合同新聞の17日付記事
     

 私は本来なら会場に駆けつけるべきであろうが、老体の上に体調ももう一つだ。ここはお許しを願って、わが家にある淳の遺作をいくつか並べて、彼の生前を偲ぶこととする。

  芽吹くブナ
       栗駒山

   
    大分合同新聞連載『硝子戸の中』(漱石)の挿絵2点


風邪 … 体調不良が続くが諸事は動く

2016-05-20 20:30:38 | 時局雑感

 

 気がついてみれば、ここ10日間ブログを更新新していない。ブログの投稿など思うこともなく過ごした。。年甲斐もなく風邪をひいたのだ。ここ何年か風邪をひいてない。もうこの年になれば、風邪の菌など活動する場もないのだろうと楽観していたら虚を突かれた。鼻から来て喉まで来た。この数日間喉が痛い。熱は出ないので日常活動にそれほどの支障はない。しかし万事億劫だ。
 しかしその間いろいろあった。
 まず、東京医大の目の定期検診で、いよいよ「むくみ」が大きくなり視力が落ちてきたので注射をすることになった。3日前から一日に4回目薬を差して消毒を重ね注射をやり、その後も消毒の目薬をやる厄介なヤツだ。まあ、生きていく以上しかたがないだろう。6月13日と決まった。
 この13日には、初孫遥人の一歳の誕生日を迎えた。呉から先方祖父母も出てきて、初節句の行事をやるというのだ。いわゆる、紅白の一升餅を背負わせる行事だ。ところがこの遥人が、私に風邪をうつした張本人なのだ。本人は私にうつした風邪は既に直していたが、次の風邪をひいて全然調子が悪い。前夜も8度の高熱であったという。両方の親たちは何とか餅を担がせようとするが、大声で泣きじゃくり様にならない。
 遥人は何度も書いたように、江戸末期の大橋新左エ門から数えて150年ぶりに生まれた男児だ。この程度の難業に耐えられないようでは、とても「新左エ門五世」は襲名できない。遥人の苦難は続く。今日は満一年を迎えた姿を見せに広島の呉に向かった。
 その後も私の風邪は収まらない。ちょうどそのとき月1回開催の経済勉強会が訪れ、2時間の講義をすることになった。熱もないのでやるにはやったが、喉の状態が最悪で様にならなかった。会のメンバーに悪いいことをしたと思っている。
 今日になっても喉が収まらないので、とうとう柴本先生(かかりつけの医師)を訪ねた。特に何のことはない。熱は平熱、打診の結果も平常、喉は炎症が残っているので薬をくれた。おそらく明日には治るだろう。若いころから、医者に行けばその翌日から病気は治った記憶があるから…。


「戦争はイヤだ」と叫ぶオペラ … 『カプレーティとモンテッキ』③

2016-05-11 20:54:15 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 カプレーティ家とモンテッキ家は戦争に明け暮れていた。その両家に生まれた二人の恋は、初めから悲劇の運命を背負っており、2人は死によって添い遂げるしか途はなかった…。これがシェイクスピアの『ロミオとジュリエット』の筋書きであった。
 しかし、別の台本もあった。二人は、この相争う世界から逃げようとした。ロメオは「戦争は人が死ぬのでイヤだ」と言い、「二人で戦争のない世界へ逃げよう」とジュリエッタを誘う。世間を知らないジュリエッタは家を離れること自体に躊躇するも、「死を装う」という危険な手段に挑み「家からの離脱」に向かう。
 二人は生きようとしたのだ。策の手違いからロメオは毒薬を飲むことになるが、駆け付けたカプレーティ家の主カペッリオに対し、とり巻く人々は「殺したのはお前だ!」と戦争に明け暮れた様を糾弾する。その場におけるロメオとジュリエッタは、少なくともメロドラマの存在ではない! ベッリーニのこのオペラを、鬼才岩田達宗はどのように描くのだろうか?

 第二次世界大戦から70年が経った。この間、世界の各地に戦争の絶えることはなかったという史実がある。人類は、あの悲劇的な大戦の後も、地上のどこかで何がしかの戦争を続けてきたのだ。その中で日本が、一度も、どこの国とも戦火を交えなかったのは奇跡とさえ言われている。それはまぎれもなく憲法九条のお蔭であったと思う。
 日本国民はこの憲法九条を、戦後70年にわたって育み、自分のものとして身に着けてきた。日本人が闘わなかったのは、単に九条の条文があったからではない。その精神を愛し、慈しみ、自己のものに育て上げてきたからであろう。
 しかし一方に、戦争を好む勢力も存在する。彼らはこの70年間、戦争をやりたくてウズウズして来たのではないか? 憲法九条の解釈改憲を続けてきたが、昨年の集団的自衛権承認の解釈に至って、彼らのウズウズは沸点に到達したかに見える。人はどこまで争おうとするのか? このオペラは、今の日本にどのような一石を投じるだろうか? 

 もちろん、オペラは理屈を言うために見るのではない。ベッリーニの美しい調べと、実力派の歌手たちの歌唱力に、じっくりと浸りたい。きれいなチラシが出来上がった。ミャゴラトーリ常連の、イラストMariさん、デザイン太田さんによるものだ。一面にちりばめられた満天の星は、一体何を表しているのだろうか? これもオペラを見る楽しみだ。

  
 


「戦争はイヤだ」と叫ぶオペラ … 『カプレーティとモンテッキ』②

2016-05-05 16:07:02 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 このオペラにはもう一つ特徴がある。ロメオ役を女性が演じることになっていることだ。あの演劇史上名高いロメオという男役を、なぜ女性が演じなければならないのか? 理由は簡単、作曲者のベッリーニがその楽譜に、「ロメオ:メゾソプラノ」と書き記しているからだ。
 つまりは、ベッリーニは何故ロメオを女性(メゾソプラノ)に歌わせようとしたのかということになるが、その理由を私は知らない。何かベッリーニの書き残しでもあるのかと調べてみたが、私の調べた範囲ではわからない。以降の演奏家たちも、いくつかの例外はあったようだが、作曲者の指示に従いロメオはメゾソプラノで演奏を続けてきているらしい。日本の歌舞伎は、女役もすべて男が演じるが、何か共通点があるのだろうか?あまり考えたこともない。
 人類の歴史を顧みると戦争の歴史であるが、その戦争はほとんど男が闘ってきた。このオペラの舞台も前記したように両家の絶え間ない争いが背景となっているが、その中に咲いた清らかな愛を歌い上げるには、争いを続ける男を超越した存在としてロメオも女性に歌わせようとしたのかもしれない。
 それに対し、制作のミャゴラトーリを主宰する娘は、ズボン役(男装の女性役)は宝塚のイメージが強すぎるので、今回はロメオ役をテノールにやらせたいと提案する。演出の岩田氏は、「本来このロメオ役が必要とする清純さは男では出せない」と言ったが、しかし、そのテノールに寺田宗永の名があがるに至って岩田氏も、「彼ならやれるかもしれないね」と合意に至り、二日公演の初日のロメオを、禁を破って男性にしたという。
 寺田宗永(通称テラッチ)君はミャゴラトーリの常連歌手で、特に『愛の妙薬』のネモリーノが当たり役だ。清純さに於いて比類ない。しかも相手のジュリエッタを演じるのが高橋絵理(ソプラノ)さん。二人は、14年夏の『ラ・ボエーム』(ミャゴラトーリ制作岩田達宗演出)のロドルフォとミミを演じたコンビだ。しかもお二人とも昨年からイタリアに留学して帰国したばかりで、その成果にも期待している。
 いずれにせよ私は、テノールとメゾソプラノが演じる公演を二日とも観なければならないと思っている。皆さんにも、是非とも二日間とも観ることをお薦めする。

   
 『ラ・ボエーム』を演じる寺田宗永、高橋絵理(2014年7月24日)


   


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