旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

悲喜こもごも織りなして五月も終わる

2013-05-31 09:52:53 | 時局雑感

 

 今日で五月も終わる。快晴のもとで青葉が目に染みる……
 今月は初めて木曽路を下るなど心に残る出来事がいくつもあった。案内役を務めてくれた木曽谷出身のH氏をはじめ心豊かな人たちとの二泊三日は、実に充実した時間であった。
 続いて「ミャゴラトーリ支援者の集い」も、40名を越す方々が参加してくれて、楽しく終わった。歌手たちは精一杯に歌ってくれて、参加者も満足してくれたと思う。
 娘と二人で観た「大宮八幡宮の薪能『船弁慶』」もよかった。臨場感あふれる演技は初夏の夜にふさわしかった。

 反面、今月は悲しいこともいくつかあった。銀行の先輩で大変お世話になったW氏が逝った。このところ闘病生活を続けていたが、とうとう帰らぬ人となった。
 この人ほど多くの人に慕われた人があろうか? 実に面倒見のいい人で、仏様のような人だった。人の集まるところ必ずW氏は居た。そして必ず幹事や世話人を頼まれて、それを断ることなく引き受け、いつもまとめ役を果たしていた。人前に出しゃばることなく、いわんや、そんじょそこらの政治家のように売名行為をやるわけでもなく、誠実に働いてくれた。
 といって自己を見失うような人ではなかった。組合の役員を長く勤め、そこでは自己の主張も含め組合員の主張を毅然として主張してくれた。
 83歳はやむを得ない死かもしれないが、また一人かけがえのない人を失った。

 郷里の大分からも訃報が届いた。大学の同級生、同じゼミナリステンのA君が亡くなった。肺炎か何かの急死であったようだが、同級生の訃報を受け取るのはまた別の思いがある。
 訃報といえば、職場で私の隣で働いているTさんのお父さんも亡くくなった。こちらは96歳の天寿全うで、むしろその生涯を称賛する気持ちだ。加えて、Tさんが父君の葬儀を済ませて新潟から帰京すると、その翌日、娘さんに子供が生まれた。Tさんの孫、亡くなったお父さんのひ孫だ。
 お父さんは、ひ孫の生まれるまでその生を全うしたのであり、まさに人類存続の役目を果たした天寿を祝うべきかもしれない。
 悲喜こもごも、時は移りゆく……

       
                       5月25日 散歩のつつじ


低劣な橋下慰安婦発言の背景

2013-05-29 14:02:32 | 政治経済

 

 橋下維新の会代表の従軍慰安婦発言が話題を呼んでいる。従来からの持論、本音であろうが、なぜ今急に言い出したのだろうか?
 背景には、自民党安倍政権の高支持率、維新の会もこのところ高い支持率を見せていたので、これら改憲勢力が一挙に憲法改定を進めようとする動きがあるのであろう。
 安倍や石破など自民党右派や、橋下や石原など右翼勢力は、彼らの歴史認識に立って「村山談話」や「河野談話」を目の敵にしてきた。表面では「内閣としてはその精神を継承する」としながらも、すきあれば二つの談話を覆し、第二次大戦における日本の海外侵攻を正当化し、従軍慰安婦問題の反省をうやむやにしようと狙っていると思える。

 私はこの二つの談話は、第二次大戦に対する反省に立って、損害や迷惑をかけた近隣諸国への広範な日本国民のお詫びのしるしと思っている。それが「談話」という形をとったのは、日本がドイツなどのように「国として反省する」ことができなかったことによる。
 それが談話という形にせよ辛うじて成立したのは、広範な国民意向の反映とともに、自民党の中にあってもリベラルと言われる人々(後藤田、河野、加藤(紘一)、野中、古賀などなど)が、まだ一定の影響力を持っていたからでもあろう。
 それだけに貴重な談話と思っているのだが、徐々に進む国民意向の右傾化、リベラル派の退潮などの中にあって、ようやく政権中枢を握ってきた右派が、一気に自分たちの考え方を推し進めようとしているのだろう。

 橋下がまずそのお先棒を担いだ。彼は持論をはきまくった。そのあまりにも低劣な言いぐさもあいまって、国民の、いや世界の反論を受けることになった。
 世の中はそう甘くないことを思い知るべきだ。右傾化しつつある国民意識に一抹の不安を感じているが、第二次大戦という悲惨な犠牲の上に手に入れた主権在民主義、平和主義、人権主義などは、深く国民の中に定着している。村山談話はこれら平和主義と不戦の誓いに、河野談話はこれら人権主義に根ざしたものと知るべきだろう。
 橋下は口先三寸で民意をひっくり返そうと先兵の役を引き受けたのであろうが、その饒舌が墓穴を掘ることになったというべきだろう。
 


木曽路の旅(8) … 木曽路の酒

2013-05-27 11:48:18 | 

 

 この旅でもかなりの酒を飲んだ。すでに冒頭の「本山の蕎麦と高波(塩尻の酒)」に始まり、食事の記事に際しては飲んだ酒に触れた。ここでは、この旅で訪ねた二つの酒蔵について記しておく。

 初日、藪原宿にあって『木曽路』という酒を醸す湯川酒造店を訪ねた。創業は慶安3年(1650)というから360年の歴史を持つ。現当主は16代目というが残念ながらご不在、しかし奥様が丁寧に蔵の中まで案内してくれた。もちろん酒造りはすでに終えているが。
 地元木祖村産米ヨネシロで造る『燦水木』も魅力があったが、美山錦の純米吟醸『木曽路』を購入。なかなかしっかりした酒であった。伝統の力であろう。

  
        
             

 二日目は、木曽福島の『中乗りさん』という酒名で知られる中善酒造店。酒名はご存じ木曽節からとったもの。創業は大正13年(1924)と湯川酒造店に比べれば新しいが、それでも90年の歴史を持つ。恵まれた良水と地元米で、手作りのぬくもりを伝えてきた。
 蔵の案内をいただいた営業担当の南常務が一番強調したのは、水と地元米「ひとごこち」だった。蔵の水は山の中腹に30メートルの横井戸を掘って引いている。その良水で丁寧に続ける「洗米と浸水度合い」の重要性を熱心に語った。
 うれしかったのは、純米吟醸や特別純米など当社自慢の5種の酒を利き酒させてくれたことだ。いずれも相当にいい酒であった。私は、純米酒フェスティバルへの出店をぜひ検討してくれと依頼した。他の出展蔵に決して負けない酒と言えるだろう。
 「美山錦49%の純米吟醸」と、「ひとごこち特別純米」を購入したが、帰京後飲んでも大満足であった。

   
     
       利き酒させていただいた5本


木曽路の旅(7) … 往時の宿場を忍ぶ

2013-05-26 15:59:09 | 

 

 木曽11宿の往時の風情が残されている町として、初日に奈良井、三日目に妻籠と馬籠を歩いた。
 まず奈良井宿。想像以上に大きな町でよく保存されていることに驚いた。1キロ以上におよび、真っ直ぐな街道筋の宿場という感じ。今でも生活が営まれており、ほとんどが土産品などの商店である。いくつかの店で「ひのきとあすなろの箸」や「木曽サクラの曲物(まげもの)ぐいのみ」などを買う。
                  
      

 奈良井宿は平坦で真っ直ぐな街道宿であったが、妻籠と馬籠は坂の街であった。いかにも木曽谷の宿という風情。
 妻籠ではまず「林家」を尋ねる。隣り村の馬籠から、島崎藤村の初恋の人と言われる「おゆふさん」が嫁いだ家。中に入ると、囲炉裏端に案内されて「おゆふさん」のくだりをたっぷりと説明してくれた。藤村直筆の書など多くの資料が展示されていた。
  
   
              林家
    

 見送りの案内人に、「あなた方は最高の時節に来た。雨の妻籠の緑は最高だ」とほめられ(?)馬籠に向かう。
 馬籠は坂の町…、坂の中ほどに「大黒屋」の甲板を見つけたので入って尋ねると、これが「おゆふさん」の実家。彼女は14歳で馬籠峠を越え、隣りの宿の妻籠に嫁いだ。藤村は彼女を恋染め、「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の 花ある君とおもいけり」と謳った。それが藤村の初恋と言われたのは、続く二番で、「やさしく白き手をのべて 林檎をわれにあたえしは 薄紅の秋の実に 人こい初めしはじめなり」と続けているからであろう。
 その藤村の実家は大黒屋の隣である。今は「藤村記念館」となって豊富な資料が展示されていた。

         
              大黒屋
 


木曽路の旅(6) … 二つの滝

2013-05-25 13:36:03 | 

 

 私たちは高原や高山を楽しんだだけではない。深く谷に分け入り木曽の深淵も味わった。二日目H氏は、私たちを二つの滝に案内した。ご承知の通り滝を見るには滝壺まで深く降りなければならない。下れば帰りは必ず上りがあり、老骨にはいささか堪えたがこの滝は見るに値した。
 一つは「尾の島の滝」。案内板によれば「天明年間(1781~1788)、御嶽開山の祖・覚明行者がこの滝の幽玄な景観に感応し、この地から御嶽登山を思い立ち、滝に打たれての“水行”満願の日、山頂に向かった」とあるので、御嶽信仰の原点ともいえるのだろう。

  

 気が付けば、滝に向かって静かに手を合わせるH氏の姿があった。私はH氏がどの程度信心深い方かは知らない。ただ彼は、ふるさとに帰って自分を生み育てた原点の一つに触れて、自然に手を合わせたのであろう。
 我々はただはしゃぎまわっていたが、H氏の姿を見てあわてて手を合わせたが最早手遅れ…、祈る姿を見ても心の入り方に差があるのは歴然。
 
   
     


 もう一つ。「油木沢ヒノキ植物群保護林」の中の、岩から水がしみだしているような不思議な滝にも案内された。名前を聞くのを忘れたが、これも心を鎮めてくれる滝であった。

   


木曽路の旅(5) … 高原の宿、開田高原「風里」と木曽駒高原「駒王」

2013-05-24 11:13:18 | 

 

 木曽路の旅の宿は、普通ならば「11宿」のどこかに泊まるものと思われるが、わが先達H氏は「木曽の空気を大いに吸ってくれ」と高原の宿を用意してくれた。

 初日は御嶽山に抱えられる開田高原。この地の最高級ホテル「風里(かざり)」の特別室と贅沢を極めた。初めての木曽、再び来れるか分からない。この贅沢を許してもらおう。
 白樺に囲まれた露天風呂などで一風呂浴びて、暮れなずむ御嶽山を眺める庭園のテラスで、まずはワインを傾ける。

    

 夕食がまた素晴らしい。6品の「付け出し」にはじまり「刺身」や「鍋もの」などが続く…。なによりも、なべ物などになると料理人が来てその場でつくってくれる。その能書きを聞きながら、酒も料理に合わせて、「七笑」純米吟醸、「中のりさん」特別純米などと代わってぃく。山菜の「天麩羅」などになって燗酒を頼むと、これも注文通り42、43度の燗にしてくれた。
 いやあ、大満足でした。

 
  

      


 二日目は、反対側の木曽駒ヶ岳高原の「駒王」という宿。これがまた民宿風の庶民的な宿で、各部屋が木曽路の宿の名前をとっている。私は「贄川」」という部屋で、先述したように木曽11宿の始まりの宿。各部屋では地元の人々が宴会を開いており、大いに寛げた。
 豊富な山菜料理と地元の「どぶろく」(一升瓶)で酒談議に花を咲かせた。
 広々とした邸内を小川が流れ、そのたもとに満開の桜が咲き誇っていた。

  
       


『スローシティ』 … 著者島村菜津さんの講演会

2013-05-22 16:08:31 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 昨夜は、スローライフ・ジャパン主催の「さんか・さろん」に参加した。さんか・さろんの「さんか」は、第三火曜日の三火と参加を兼ねてるというしゃれたサロンである。
 内容は、光文社新書『スローシティ』の著者島村菜津さんの講演会。テーマは著書の副題にある「世界の均質化と闘うイタリアの小さな町」。

 島村さんは、クレーヴェ・イン・キアンティからポジターノまで、5つの町の事例を取り上げながら、イタリア人がいかに「身の丈に合った生活の中に幸せを見出しているか」を語った。配られたレジメから引用すると、その大意は以下の通り。

 「かつて発展といえば、道路や大型店舗を増やし、宅地化を進め、住宅を増やすことばかり考えてきた。しかし、そんなことが住民を幸せにしただろうか? 大型ショッピングセンタ^-より、市場、ファーマースマーケット、多種多様な個人店、地元スーパーの地産地消度の向上。大型ホテルより農家民宿やプチホテル、B&B。ハリウッド映画中心のシネコンより、名画座や映画祭、地域の祭り。何より人が幸せに暮らすには、もっともっと“交流の場”
を増やすこと…」

 毎週土曜日の夜9時からBS日テレで放映される「イタリアの小さな村の物語」で与えられる感動を、島村さんは実体験の話の中で与えてくれた。
 「時代遅れで、休みもなければ、決して楽な暮らしではないが、そこには季節の移ろいがあり、太陽や月や川や山と深く結びついた暮らしのリズムがある」(同著47頁)。
 物量の豊かさより、美味しい空気と美しい花と、広場に行けばみんなに会える幸せを求める。イタリア人はいつからそのようになったのだろうか?

 私は最後に質問した。「イタリアも戦後の高度成長を経て過疎問題などを経験したうえで今に至っている。日本も高度成長で得るものも得たし失ったものも大きかった。日本とイタリアはどこが違ったのか?」 それに対する島村さんの答えは次の通り。

 「日本にも良い町おこしの例はある。しかしイタリアとの違いは次の3点ではないか…。①半島と島国の違い、②アメリカとの距離、③中央集権の差……」

 私は特に第二の「アメリカとの距離」という指摘にギクッとした。日本の現状は、町のビル化、生活スタイル、食生活、文化…、すべてアメリカのとおりである。


木曽路の旅(4) … 11宿をつなぐ峠

2013-05-21 15:34:47 | 

 

 山深い木曽路を辿りながら考えることは、往時の人々がいかに難渋を極めたかということだった。11宿をつなぐのはいくつもの峠だ。また東の伊那谷に行くにも西の飛騨の国に行くにも高い峠を越えなければならなかった。

 まず、奈良井宿から薮原宿へは木曽路最大の難所と言われた「鳥居峠」を越えねばならない。鳥居峠は、日本海に流れる奈良井川と太平洋にそそぐ木曽川の分水嶺で標高1197m、戦国時代には信濃と美濃が絶えず国境争いを展開していたという。今はその下をトンネルが通っており、私たちは車でスイスイと抜けたが。
 私がいちばん峠と感じたのは、木曽路も最後に近い「馬籠峠」だ。妻籠から馬籠へ超える峠で、H氏はわざわざその道を通ってくれた。『夜明け前』にも再三出てくる「峠の茶屋」まで、妻籠からはかなりの距離で登りもきつく、車で走りながらも当時の困難がしのばれた。

 峠は11宿をつなぐだけではない。前述したように隣国飛騨へ行くにも伊那谷に行くにも峠だ。奈良井宿を出て左(東)に分かれる道は伊那市へ越える「権兵衛峠」に通ず。権兵衛峠は木曽駒ヶ岳の北側の鞍部で、標高は1672mあり鳥居峠よりはるかに高い。
 次の薮原宿から西に上れば、かの「野麦峠」に通ず。野麦峠は御嶽山の南の鞍部で標高1522m。昔は相当な難所であったのだろう、映画『ああ、野麦峠』のいくつかのシーンを思い出す。つらい仕事に疲れ果て工場を逃げ出して飛騨に帰ろうとする同僚女工に、大竹しのぶが「この雪じゃあ、野麦は越えられめえ」と諭すシーンが忘れられない。

 木曽路はやはり山の中なのだ。

  
      
      桜は満開でした

 


木曽路の旅(3) … 緑に包まれた木曽11宿

2013-05-20 10:53:31 | 

 

 昼食をとった本山を過ぎると、だんだんと左右の山がせり出してきて、いよいよ木曽路に向かう谷間(たにあい)の風情だ。

     

 やがて贄川宿。そしてこれが世にいう「木曽11宿」の最初の宿場だ。児玉行多の『中山道を歩く』によれば、「奈良井川の支流にかかる境橋が松本藩預所と尾張藩領の境であった。橋の長さ12間、東の6間は松本藩、西の6間は尾張藩で修造したという。(中略)橋を渡った右手に『是より南 木曽路』の石碑がある・・・」と書かれているので、まさにこの贄川宿が11宿の始まりであろう。
 以下、奈良井、藪原、宮腰、福島、上松、須原、野尻、三留野、妻籠、馬籠と続く。

 2泊3日、この木曽路をゆっくり回った。奈良井、馬籠、妻籠にかつての宿場生活を忍び(後述)、藪原や福島では酒蔵を訪ねた(これも後述)。街道を離れ開田高原と木曽駒高原に宿泊して温泉に浸かり、また谷に降りて滝の清流に心身をゆだねた。
 そして木曽は、常に柔らかい緑に包まれていた。初日快晴、二日目午後から曇り、三日目雨と変化した天候は、その緑を一層鮮やかに見せてくれた。案内するH氏は、「周囲の緑を見てくれ、一番美しい季節だ」と言い続けた。

 
      
  
 街道も、鉄道も、木曽川も すべて緑に包まれていた


古典芸能の力に感嘆 … 大宮八幡宮の薪能

2013-05-19 12:38:40 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 昨夜は近くの大宮八幡宮に出かけ、「杉並で能楽を楽しむ会」主催の薪能を見てきた。娘と今年の課題にしている「日本の古典文化を極めよう」シリーズの第4弾である。

    

 井の頭線西永福駅から徒歩8分、神社に着くと広い境内に設けられた能舞台を囲み、満席になるほどの盛況だ。。
 そもそも薪能というのは「薪を神にささげる神事」ということで、まず「火鑽り(ひきり)・火入れ」の行事に始まる。神官が、檜の臼と枇杷の杵で火を起こすと見事に発火、観衆は一斉に拍手…。その火が篝火に点火され舞台が始まった。

 舞囃子『高砂』、狂言『文山立』のあと35分の休憩を経て(この休憩の長さには驚いた)、いよいよ『船弁慶』。正直言って、想像以上によかった。
 シテ野村四郎が、前半は義経との別れを悲しむ静御前を演じ、後半は義経や弁慶を乗せた船の前に亡霊となって現れる平知盛を演じたが、前半の静と後半の動が絶妙で、感動した。特に平知盛の薙刀や太刀のさばき、船頭の櫂の操り方には目を見張るものがあった。
 昨夜は少し風があったが、静御前が別れを決意して立ち上がった時や、一天にわかにかき曇って知盛が現れる予兆を語るセリフの時などに、急に風が起こって背景の森を揺らす自然現象が重なったりして、野外で演じる薪能の面白さを実感した。
 娘の総評は、「見る者の想像力を巧みに引きだす能楽の力はすごい。歌舞伎より能の方がむしろ面白い」ということだった。
 古典芸能の力を改めて思い知った夜であった。

 
     
         


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