旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

銀行OB会の盛衰

2014-05-31 16:46:57 | 時局雑感


 今日は三井銀行のOB会「三井会」に参加した。私は昭和33年に三井銀行に入ったが、その後銀行はいくたの合併を繰り返し現在は三井住友銀行となっている。「三井会」というのは、その中の三井銀行の者だけが集まろうという会である。
 私が入行した当時いわゆる都市銀行は14行あったが、その中でも三井と住友は最も性格の合わない銀行とされていた。それが一つの銀行になるのだから、経済社会の厳しさもはんぱではない。合併後10数年を経たので、いまや性格が合わないなど言ってられないのであろうが、OB会となれば同質の連中が集まり一緒に食った同じ釜の飯の話をしたくなる。
 いつの頃からかJR中央線沿線に住む者たちが「三井中央線の会」なるものをつくって集まっていたが、だんだん会員も増え、中央線の枠を取っ払って首都圏全域集まろうということになった。
 その第一回が今日の会である。幹事が知りうる対象者約300名によびかけたところ85名が集まり、大変盛大な会となった。対象者はまだいるはずだし、住友と合併したのは2001年であるので、その時の三井銀行新入行員が定年を迎えるにはあと30年ぐらいかかるので、今後も対象者は補充される。

 今月はもう一つ銀行OB会があった。三井銀行本町支店の会(本町会)であるが、これは今回をもって閉会となった。昭和20年から30年代にかけて隆盛を極めた本町支店の当時を構成した人を中心にした会で、ピーク時は会員100名、常時参加者4,50名を数えたが、36,7年までの在籍者を対象としていたので漸減し、ついに閉会となった。
 対象を絞っただけに密度の濃い会であったが、それだけにいつかは歴史的使命を終える。「三井会」も今日は大変に元気良かったが、三井という色彩をいつまで保っていけるのか…? これもいつかはその歴史を閉じるであろう。
 行事の多かった五月は、この「三井会」で一応終わった。
 


良好な結果に終わった定例血液検査

2014-05-29 14:41:07 | 時局雑感


 脳梗塞予防のため血液サラサラ薬(プラザキサ)を飲んでる関係で、担当医としては定期的に血液検査をして健康状態を把握する必要があるらしい。柴本先生の要請で先日行った検査の結果が本日分かった。
 結果は上々ということだ。齢は重ねるが酒量が減らないので心配していた肝機能については、5項目とも全部正常値。驚いたのはγ‐GTPも「76」と正常値内に収まったことだ。これはかつては「60以下」が正常値であったが、近年「79以下」に修正された。それでも常時100を超えていたのであきらめていたのだが、今回は76に収まった。
 他では、腎臓機能を調べる3項目のうち「尿素窒素」だけが「21.3」と1.3オーバーしたが、「年齢のせいもあり、この程度は正常値ということにしましょう」というのが先生の言。コレストロール関係も正常、血糖値も「90」で糖尿病の心配もないでしょう、ということになった。

 有難いことだが、一つ忸怩たる思いがある。検査日の前々日に飲酒量を1合以内に抑え、前日は一滴も飲まなかったことだ。つまり試験対策をやったのだ。「この年になってええ格好をすることもないではないか」とも思ったのだが、何となく不安であったのだ。
 しかし、その試験勉強で得た高得点であったとしても、一夜漬け(二夜漬け?)の試験勉強でほぼ満点が取れる力が残っていると考えれば、未だ生きる力を残しているともいえそうだ。
 いや待てよ。俺の肝臓は本来の働きをしてないのではないか? 従来通り飲んでいるのにγ‐GTPが100を切ったというのは、肝臓が若い頃のような豊かな感受性を失っているのではないか? 次回は前夜もガブガブ飲んで検査を受ける必要があるのかもしれない。


早くも最終週を迎えた5月

2014-05-26 13:14:27 | 時局雑感


 五月も終わろうとするのか…と思うと時のたつ速さを感じるが、過密スケジュールの五月は長く感じた。中旬以降は毎日のように何かかがあった。今思い返して「…あれも五月だったのか?」と思うようなことがある。

 ミラノ『ポルティ・ペッツォーリ美術館』のコレクション展(渋谷文化村、5月19日)は重量感があった。ミラノ有数の貴族ジャン・ジャコモ・ポルティ・ペッツォーリの蒐集品で、「ヨーロッパで最も優雅な邸宅美術館」と言われるだけのものがあった。
 ジャン・ジャコモは死に当たって「すべてのコレクションは永久公開されるものとする」と遺言を残したそうだが、この『美術館』は、ミラノの貴族としての美意識と誇りに満ちていた。 

 5月21日には有楽町の東京国際フォーラムでわらび座公演『小野小町』を見た。「強いからこそ美しい」というテーマが示すように、これは、内館牧子脚本、わらび座公演らしく元気のいいミュージカルであった。
 美人・歌人・更衣…などの経歴から、しとやかな京女のイメージもあろうが、登場した小町は現代的感覚を持つ強い女性であった。女性の本来の強さに美の根源を求めたのであろう。
 全国に多数ある小町伝説の中で、秋田県湯沢市が固有の小町伝説を広めていくには、「強くて美しい」は格好のテーマであるかもしれない。小野小町が米の「秋田こまち」、新幹線の「こまち号」として今を生きるには強くなくてはなるまい。


司法よ 生きていてくれ(つづき) … 格調高き判決文に学ぶ

2014-05-23 11:45:59 | 政治経済

 

 原発推進論者の意見は主として次の3点に要約される。
1.福島事故に懲りて優れたエネルギー源たる原発を失うべきではない
 2.安全性を高めて高い基準を満たす原発は再稼働すべき
 3.電力供給の安定、コスト低減、貿易赤字回避による国富増大

 福井地裁判決は、格調高くこれら3点を退けた。

  まず第1点。住民の命や暮らしを守る人格権こそ憲法上最高の価値を持つとし、「原発の稼働は法的には電気を生み出す一手段である経済活動の自由に属し、憲法上は人格権の中核部分より劣位に置かれるべきだ」と述べ、「自然災害や戦争以外でこの根源的権利が極めて広範に奪われる事態を招く可能性があるのは原発事故以外に想定しにくい。具体的危険性が万が一でもあれば、差し止めが認められるのは当然だ」(判決要旨、5月22日付毎日新聞)と断じた。

 第2点。関西電力は基準地振動の700ガロ以上の1260ガロに対応しているとし、1260をこえればシステム崩壊やメルトダウンが想定されるがそのような地震は想定できないと主張。それに対し判決は、「頼るべき過去のデータは限られ、大飯原発に1260ガロを超える地震が来ないとの科学的な根拠に基づく想定は本来的に不可能だ」(同上)と主張を退けた。加えて、700を超える地震が2005年以降、四つの原発を5回襲っている例を挙げた。

 第3点に対しては、「被告は原発稼働が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いという問題を並べて論じるような議論に加わり、議論の当否を判断すること自体、法的には許されない」とし、「原発停止で多額の貿易赤字が出るとしても、豊かな国土に国民が根を下ろして生活していることが国富であり、これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失だ」(同上)と断じた。

 ただただ、その格調高き判決文に頭の下がる思いだ。人類は、その処理方法も見つけ得ぬまま原子力を見切り発車で使ってきた。今こそその完全廃絶の道を真剣に求めるべきであろう


司法よ 生きていてくれ

2014-05-22 09:14:18 | 政治経済


 昨日は、二つの裁判で司法の画期的判決が示された。一つは大飯原発の運転差し止めを求める訴訟に対する福井地裁の「差し止めを命じる」判決、もう一つは、厚木基地の騒音被害に対する夜間飛行の禁止と損害賠償を求める裁判で、横浜地裁が下した「自衛隊機の夜間飛行禁止と、国に70億円の損害賠償を支払う命令」である。
 後者においては、米軍機の飛行禁止に至らない問題点を残したが、いずれにせよこの二つの判決は近来ない画期的な判決であった。

 特に大飯原発問題では、「安全性に欠陥」という原発が抱える根本問題に言及した判決であった。その判決を伝える垂れ幕に、「差し止め認める」というものに加えもう一枚、「司法は生きていた」と書かれていたのに私は感動した。
 安倍政権の登場以来政治の右傾化が激しいが、同時に、予てから言われてきた司法も保守化右傾化を強めているのではないかということを心配していた。しかし、裁判官の良識、良心は消えてはいないのだ。当然のことではあるが…。
 民主主義の基本は三権分立にある。与党自公が圧倒的議席を占め、なぜか安倍政権の支持率も高率を保っている中で、その政治にブレーキをかけるのは司法の良識であろう。
 「司法よ 生きていてくれ」、この願いを強くする二つの判決であった。

      
       「5月22日付毎日新聞一面トップ」より


文化行事が続く5月 … 「調布噺の会」ほか

2014-05-19 15:29:48 | 文化(音楽、絵画、映画)


 いわゆる大型連休の間は出歩かないことにしているのがここ10年来の通例であるが、その反動で中旬以降は諸行事が詰まる。11日の「秋田・愛媛食と文化のコラボレーション」、13日の「佐原バスツアー」、15日の映画「ラ・ボエーム」などについては既に書いたが、10日にあった「樋口陽一(東大ほか名誉教授)憲法問題講演会」などは実に内容濃く感動的であったが、ブログに書く余裕もなかった。
 その後も、17日「調布噺の会」の落語会、本日の「ミラノ『ポルディ・ペッツォーリ美術館』コレクション」観賞と続いた。今後も、21日「わらび座公演小野小町」、24日「半田滋(東京新聞論説委員)集団的自衛権問題講演会」と続き、その間に二つの銀行同窓会(22にと31日)が入っている。
 これは少し詰まり過ぎではないか。前半の連休に手を抜いたとはいえ無計画すぎるのではないか。映画に演劇、落語からミラノ絵画、その間に難しい政治問題講演会…、銀行同窓会などというのは飲んで喋るだけと思われるが、話は30年から50年前の事に及ぶので戦後史全般にわたる。何が何だか分からなくなるのではないか?

 その中で、一つ「調布噺の会」のことにだけ触れておく。落語というのはほとんどが創作で現実離れした話が多いが、不思議と毎日隣で起こっている話のように聞こえる。如上の雑多な行事の中で一番市井に根ざして、肩に力が入らない。
 しかもこの「調布噺の会」というのは10年続いており、このところ毎年参加しているが、今回は10周年の打ち上げ公演であった。10年の積み上げと会員の精進のたまものだろうが、その力量はお世辞抜きにプロの水準を凌駕している。このような人たちが日本文化の底辺を支えているのであろう。

 
 


佐原バスツアー(つづき) … 改めて伊能忠敬の才能に驚く

2014-05-17 10:24:31 | 


 伊能忠敬が千葉の人で、日本地図を作った大変な男であるということは知っていた。しかしその詳細は今度の旅まで知らなかった。
 「忠敬は上総国山辺郡小関村(現九十九里町)に生まれ、17歳で下総国佐原村の伊能家に婿入りした」とパンフレットにある。伊能家は酒造業を始め諸商品を取り扱う商家で、彼は才覚を発揮して家業の興隆も図るが(資産を10倍にしたという話もある)、同時に勉学に励む。
 驚いたのは、彼が本格的な勉強を始めたのは50歳を過ぎてからということだ。49歳で隠居した忠敬は江戸に上り、それまで習得してきた天文暦学に磨きをかける。そして、いわゆる日本地図作成に取り掛かったのは55歳になってからだという。
 つまり「実測による日本地図の作成」という偉業は隠居仕事であったのだ。もちろん彼の意識に「隠居仕事」という安易な気持ちはなかったであろうが。73歳で亡くなるまで10回に及ぶ全国測量を行い、それが完成したのは死後3年を経ての事だったという。

 『伊能忠敬記念館』で膨大な資料とともにそれらの説明を受けて、特に、彼の作成した地図がほぼ100%正確であったと聞かされて、このような偉大な才能がどうして生まれたのか想像もできなかった。
 伊能忠敬という男は人類史上屈指の頭脳の持ち主ではなかったのか。もし、当時彼のIQを計る術があったなら、どのような数字が出ていたのであろうか?


映画「ラ・ボエーム」を観てきました

2014-05-16 11:47:14 | 文化(音楽、絵画、映画)


 昨日は東銀座の東劇で映画「ラ・ボエーム」を観てきた。何度見ても悲しい物語だ。メトロポリタン公演の映画化で素晴らしい映画であったが、このオペラを見ていつも思うことは、「この物語は悲しすぎる」ということだ。少なくとも次の二つを挙げるだけでもそれは言える。
 一つは…
 ミミとロドルフォは恋に落ちるが、不治の病に侵されたミミの病状は進む。ロドルフォは、それは貧乏しか与えることができない自分の所為だと悩む。「貧乏の所為だ。愛だけではどうにもならない」と別れを決意する。
 ミミも死を悟り別れを決意するが、せめて大好きな春まで待って…、と願う。そして二人は歌う。「冬を独りで過ごすのはつらい 春が来たら別れよう…、春は大好きな季節 しかしそこに別れが待っているのなら この冬が長く続けばいい…」
 ミミの病気を癒すのは春の到来しかない。冬は確実に彼女の命をむしばむ。しかしその冬が続けばいいと願う。悲しすぎる。
 もう一つは…
 ついに春を待つことなく彼女は短い命を終える。その息を引きとる間際に、ロドルフォは絶叫して呼びかける、「ミミ――!」と。
 実は彼女の本名はミミではなくルチアだ。冒頭の出会いで「私の名はミミ…、みんなそう呼ぶの。しかし私の本当の名はルチアなの」と自己紹介する。有名な『私の名はミミ』というアリアだ。しかし彼女は、この親しい仲間からも、一度も、ルチアと呼ばれない。そして最愛の恋人ロドルフォからも、最後の死の間際に呼ばれたのは「ミミ」であった。
 これは悲しい。悲しすぎる。

 もちろん、ボヘミアンたちがあの暗い時代を生き抜いた力の源泉が、悲しみではなく愛と希望であったことは相違ないが。


昔の街並みと緑が調和した「佐原バスツアー」

2014-05-15 10:03:36 | 

 


 日蘭協会「デ・リーフデ会」主催の佐原バスツアーに参加した。日蘭協会の年中行事で、秋の「ハーリング・パーティ」とともに楽しみな行事だ。ここ2年ばかり日程が合わず参加できなかったが、今年は、予て行きたいと思っていた佐原であったので早くから予約しておいた。
 先月の「近江路の旅」と同様、今回も昔の街並みを偲ぶ旅だ。方や戦国武将の夢の跡と近江商人の文化をたどる旅であったが、今度は江戸文化の一端を偲ぶツアーであった。
 佐原は利根川水運の中継港として江戸時代から栄えた商人の町。言葉も文化も江戸から持ってきたが、武家の街ではなく商人の街として栄えた。偉い殿様もいなくて、自由で闊達な商人たちの自治の力が街を発展させたようだ。
 関西でいえば堺の街に匹敵するのだろうか? いわゆる“粋な旦那衆”が、地の利を得て思う存分商いをし、金もためて、その力で思いのまま文化を発展させたのであろう。古今東西、文化を育てる源は経済力とそれを担う商人など経済人であったのだ。

    
    
    「山車会館」に並ぶ山車

 町人たちの楽しみの一つはお祭りであったようだ。「山車(だし)会館」に入ると、春と秋の二つの祭りにそれぞれの役割を持ったという見事な山車が並んでいた。町には十数台あって、絢爛豪華を競い合ったという。先月の長浜の「曳山会館」と同じだ。
 『千与福』という洒落たお店の昼食のあと、舟で「小野川(利根川の支流)めぐり」を楽しんだ。雨模様であったがそれが両岸の緑や白壁、黒塀とマッチして気持ちのいい30分だ。これまた先月の近江八幡「八幡堀めぐり」に匹敵した。

    

 
 最後の香取神宮は、ただただ緑の厚みに圧倒された。近江の安土城や小谷城の緑もよかったが、それとは違う独特の雰囲気、「神の住みたもうところ」という静けさがあった。

          
     
                               香取神宮


愛媛・秋田 食と文化の交流会

2014-05-12 16:08:24 | 


 一見なんの関わりもなさそうな愛媛県と秋田県が、食と文化でコラボレーションしようという面白い試みに参加した。主催は「秋田産業サポータークラブ」と愛媛県の「東京じゃこ天愛好会」、それに、「わらび座」、「株式会社こめたび」、「有限会社愛媛サポーターズ」が協力した集い。
 両地の関わりを聞いたところ、「愛媛には鶴姫伝説、秋田には小野小町伝説と、両県には姫の話があること」、それと協力者のわらび座が、「秋田と愛媛に劇場を持っている」ことなどがあるそうだ。
 催しは、先ずわらび座の秋田音頭の踊りから…、という賑やかな会で、じゃこ天や蕗の薹のてんぷらなど両地の食べ物、それに両地の酒がたっぷり出てきて大変満足な会であった。愛媛からは『隠し剣』など3品、秋田からも『天の戸』、『まんさくの花』、『阿桜』など3品が出され、いずれも申し分なかった。
 酒について言うならば、秋田の酒はどちらかと言えば甘口(旨口)で、愛媛の酒は西の方にしては辛口だ。必ずしも共通点はないが、そこにコラボレーションの妙があるのかもしれない。
 
 いずれにせよ、このような北と南(西?)の交流会は面白い。いずれの県も探せば何か共通点があるのではないか? そのようなものを見つけ出して様々な催しをやる中で、日本文化の新たな掘り起しも起こるであろう。楽しい試みであった。


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