旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

広島カープ、日本シリーズに散る

2016-10-31 14:34:39 | スポーツ

 

 日本シリーズで、広島カープがあっけなく負けた。私は、かねてから書いているように日本シリーズなどはお祭り騒ぎのようで本気になれないのであるが、それにしてもつまらない負け方をしたものだ。
 結論的にはこんなものだろうと思った。セントラルのチームはパシフィックにはなかなか勝てないだろう。実力において差があるような気がしている。だから、カープが勝つとしたら、レギュラーシーズンでたびたび見せた、カープらしい、果敢な攻撃で攻めまくるしかなかっただろう。
 ところがここにきて、急変してよそ行きの野球に転じた。先頭打者が塁に出ると――しかもそれはたびたびあったのであるが――ハンコで押したようにバントで送る。シーズン中に3回しかバントしたことがなかったといわれる鈴木にまでバントのサインをだし、予期せぬ鈴木はそれを見落とすというからマンガのような話だ。神ってたスズキから神を取り除いたのだ。緒方は勝ちに行ったのであろうが、小細工で勝ちに行っても勝てるはずのないことぐらい十分に知っていたと思うが、日本シリーズなどというお祭りに惑わされるのだろう。
 これくらいなら、全てノーサインで、「お前たち、シーズン中にやったように、それぞれの判断でやれ!」と指示した方がよかったのではないか? 救援陣の使い方だけはシーズン中の型をかたくなに守り、疲れ果てたように打ち崩された。これもこじんまり勝ちに行ったのであろうが、あまりにもこじんまりして無策に映った。すべてちぐはぐで、これを実力というのかもしれない。まあ、日本ハムを褒めるべきで、それが分かったカープファンは、栗山監督の胴上げに惜しみなく拍手を送っていた。これが日本シリーズというものだろう。
 私としては、今シーズンに大満足をしている。当初からひそかに抱いていた、黒田の200勝、新井の2000本安打、マエケンのメジャー二けた勝利、イチローの3000本安打、が、全て大幅に達成されたからだ。カープの優勝は勘定に入れていなかった。せめてCSに出て、どんでん返しでもしないかと野次馬根性で見ていた。それが優勝したのだから文句なし。すべて万々歳のシーズンであった。


庭師の見事なハサミさばきと、丸裸にされたわが家

2016-10-22 16:42:57 | 時局雑感

 

 2年ごとに庭師を入れることにしている。生い茂った木々も、外部の目を遮断してくれて、むしろ落ち着きを与えてくれるのであるが、そうもいかない。一年もたつと、ワイフは「みっともない」と言い始める。
 猫の額ほどもないわが家の庭など、庭師の手にかかれば半日で丸坊主にされる。隣家の目はもちろん、暑い日差しも遮断してくれていたマテバ椎なども、すっかり刈り込まれお互いに丸見えになった。

    
      

 紅葉を始めたハナミズキも刈り込まれ、外から見るとわが家もすっかり丸裸にされている。まあ、これからは太陽の光が欲しいシーズンであるので、これで冬の日の日差しを楽しむことができるであろう。

  
               

 玄関のかいどうは、今年の春は、窓を蔽い咲き乱れていたが、御覧のようにすっかり刈り込まれた。冬の日を窓に受けるには好都合だが、来春にはもとのように生い茂って花をつけてくれるのだろうか?

   (今年の春)
         (今日の姿)

  
            


『浜田廣介童話集』を読んで③ … 『泣いた赤鬼』

2016-10-14 22:10:38 | 文化(音楽、絵画、映画)



 この『泣いた赤おに』が、「ひろすけ童話」の代表作とされている。何がこの作品をして代表作たらしめているのだろうか?

――村を外れた山かげに、赤鬼が一人で住んでいた。赤鬼は、人間たちと仲良くなりたくてしようがない。そこである日、家の戸口に立札を立てる。「ココロノ ヤサシイ オニノウチデス ドナタデモ オイデ クダサイ オイシイ オカシガ ゴザイマス オチャモワカシテ ゴザイマス」……しかし人間どもはすぐには来ない。赤鬼の家を遠巻きにし、様子をうかがい、「きみが、わるいな」、「さては、だまして、とって食うつもりじゃないかな」と疑う――

 人間の鬼に対する意識は、簡単には変わらない。「なんといったって、鬼は鬼だからな」という意識がある。娘は、ここに「差別問題の根源」があるのではないかと思い、このオペラにとり組んだと言っている。国と国、民族と民族、人間同士の間にこのような意識がある限り、差別はなくならないのではないか、というのだ。

――悩む赤鬼に、友達の青鬼が一策を提案する。「僕が人間の村で暴れてやる。君はそれをとり押さえろ。人間は君をいい鬼だと信じるだろう」。赤鬼はそれを止めるが、「なにかひとつの めぼしいことをやりとげるには だれかが ぎせいにならなくちゃ できないさ」と、ことはそのように運んで、人間たちは毎日赤鬼の家に来るようになる。赤鬼は喜びの日々を送るが、それ以来、青鬼がいなくなったことに気づく。家を訪ねると、戸口に、「ボクガ キミトツキアウト ニンゲンガ キミヲウタガウカモシレナイ ボクハ ナガイ ナガイ タビニデル」とはり紙がある。赤鬼は、何度も読み返し、涙を流し、泣き伏す――

 物語はここで終る。赤鬼は念願の人間との付き合いを得るが、青鬼との貴重な友情を失ったのである。立松和平氏が、巻末のエッセイで二つのことを提起している。一つは、鬼が鬼として人間と付き合うには、「鬼の悪」を示す青おにの犠牲を要する。二つには、この物語の示すことは、底抜けに善良なのは二人の鬼で、ただお茶を飲みお菓子を食べにくる人間のどこが善良と言えるのだろうか、と書いている。鋭い指摘である。
 いずれにせよ、人間が持つ「鬼は鬼だから…」という差別意識が消えたのかどうかは分からない。また、「青鬼はいったいどうなったのだろうか?」、「赤鬼はその後、どうしたのだろうか?」という『つづき』が気になる。まだまだ、たくさんの課題を残す作品であり、それが名作なるゆえんかもしれない。

  
  ミャゴラトーリオペラ公演のチラシ


『浜田廣介童話集』を読んで② … 心に残った『砂山の松』

2016-10-12 16:49:35 | 文化(音楽、絵画、映画)



 いずれの作品にも感動したが、中でも『砂山の松』は心に残った。

 神は二つの種をまき、ひとつは鳥のいすかになり、もう一つは人で木こりになった。そして神は告げる。「どんなことがあっても、けっして、ひとをうらむなよ。けっして、じぶんをすてるなよ。もう一つ、どんなものでも、じぶんのものとなったら、たった一つは、あとにのこしておくがいい」と。
 いすかは砂山の松林に住みつき、松のみを食べながら生きる。その松林は木こりの持ちもので、貧しくなった木こりは、売りに出すため次々と松を切る。最後の一本も売る必要があったが、そこにとまっているいすかを不憫に思い、一本だけを残す。年を経て、やがて死期を迎えたいすかは、食べ続けた松のみの一つを、小山の上の砂に埋めて死んでいく。
 また何年かたって…、三匹のツバメが嵐の海を渡ってきた。岩に降り立つが波しぶきに濡れて休まらない。「どこか休むところがないか」とさがし、ようやく見つけたのが砂山の高いところに立つ一本の松であった。

 「どんなものでも、じぶんのものとなったら、たった一つは、あとにのこしておくがいい」
 このお告げは、人間社会、特に現代社会を痛烈に指弾しているのではないか? 人類は、進歩の名のもとに自然環境を破壊し続け、資源を食いつくしてきた。利潤第一主義をモットーとする資本主義社会は、利益のためには最後の一粒まで食いつくす。「たった一つ」でも「あとにのこす」ことはない。残せば、それは競争相手に食べられ、競争に負けるからだ。
 この作品は、百年近くも前に書かれたものであるが、浜田廣介は、すでに現代社会の行き着く先を見抜いていたのであろうか? 少なくとも、浜田は、「一つはあとにのこす」という哲学を、子供の心に植えつけておく必要があると思ったのであろう。
 この点だけ見ても、浜田が、童話を、万人に向けた高い水準の文学に引き上げたことが分かる


『浜田廣介童話集』を読んで … 人間愛を追求した高い文学性に感動

2016-10-10 13:56:45 | 文化(音楽、絵画、映画)



 なぜこの童話集を読むことになったかといえば、娘が、代表作の一つ「泣いた赤鬼」のオペラ公演にとり組んでいるからだ。この有名な童話については聞いてはいたが深くは知らず、また浜田廣介自体を読んだこともなかったので、娘の部屋から持ち出したのだ。
 ところが、読むうちにグイグイと引き込まれ、結果的には、時を忘れて実に贅沢な読み方をした。つまり、収められた20題を読み終えたのち、末尾の浜田留美氏(廣介の息女)の「編者解説」を読みながら、そこに出てくる題名ごとにページを戻って一つ一つ丹念に読み返した。全20作品を2,3度読み返すこととなったのだ。
 いろいろなジャンルがあるが、その一つに母子(おやこ)の愛をテーマにしたものがある。掲載順に掲げれば、「むく鳥のゆめ」、「よぶこどり」、「アラスカのお母さん」、「町にきたばくの話」、「いもむすめ」などである。そこには、どうしようもなく引き裂かれた母と子の、その母が失った子を慕い続ける、また子が母を求め続ける愛の姿が書き綴られている。
 中でも「むく鳥のゆめ」の、父さん鳥と住むむく鳥の子が、母が帰ってくることを信じ切って夜毎待つすがた、「お母さんはいつ帰ってくるの?」ときかれた父さん鳥の淋しい目つきともども、その仕草のすべてがあまりにも悲しい。また「よぶこどり」は、拾った卵を抱え続け、生まれた雛を自分の子供と信じて育てた栗鼠(りす)が、やがて飛び立った小鳥の帰りを待ち続ける。ついに自ら鳥になって後を追う。その声が森にこだまし続ける姿は,これまた悲しく、切ない。
 前掲「編者解説」によれば、廣介は中学生のころ両親の離婚に遭遇している。引用すると「廣介が米沢中学に入学して寄宿中のある日、帰省したところ、母が弟妹三人を連れていなくなっていた。長男の廣介は残され、父は母に会うことを禁じたのである。廣介は、家では父と二人きりの寂しい暮らしとなった」(211頁)とある。編者も書いている通り、前出の作品群の背景には、このような事情があったのである。
 いずれにせよ『ひろすけ童話』は、単なる童話の域をはるかに超える。人間愛を追求した高い文学性に充ちている。

   


第12回山桜桃の会 … 『浅草一文(本店)』と名物「ネギマ鍋」

2016-10-06 17:36:09 | 

 

 一年ぶりに山桜桃の会を開いた。2015年9が25日に、わが八幡山の『かわしまや』で旬の素材の季節料理を味わって以来だから一年以上経過した。その間隔を埋めるに値すべく、江戸情緒たっぷりの『浅草一文』に出向いた。

   
        
    上は『浅草一文』の風情。下はまずは浅草寺にお参りの面々。

 先ずは雷門の大提灯の下に集まり、仲見世通りをぶらつき、神妙にも浅草寺と浅草神社にお参りして店に出向く。『浅草一文』は古い歴史を持つ居酒屋界の老舗。先ずあてに出てきた自家製の豆腐に特製の塩を振りかけての味はたまらない。また、これも自慢料理のクジラの尾の身など肴に、出羽桜、浦霞、誠鏡幻、米鶴などを傾ける。最後はこの店の看板料理「ネギマ鍋」だ。ネギを中心にした野菜でたっぷりと鮪を煮込む。
 いやあ、満足満足……

      
 
             


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