旅のプラズマ

これまで歩いてきた各地の、思い出深き街、懐かしき人々、心に残る言葉を書き綴る。その地の酒と食と人情に触れながら…。

酒とジャズの渦巻くバーボン・ストリート

2007-05-30 13:44:08 | 

 

 前記したように、ロイヤル・ストリートは瀟洒な建物といい町の芸術家たちの演奏といい、どちらかと言えば昼の雰囲気であるが、バーボン・ストリートは正に夜の雰囲気。
 バーボン…その名が示すとおり酒場が軒を連ねている。そして、どの酒場からも演奏する音楽やBGMの曲が流れ出ている。しかも、ほとんどの店は通路に面したドアが開けっ放しになっているので、聞きたい曲が流れていると入り口に足を止めてしばらく曲を聞く…という具合だ。
 その中の一つの酒場から、うたごえ喫茶などでよく歌った大好きな歌「私の愛した町」が聞こえてきた。しばらく入り口で聞いていたが、ゆっくり聞きたくなって中に入り椅子にかける。すると酒の注文とりに来るのでハリケーン(ラムをベースにしたカクテル)を頼み、ちびちびやりながら2~3曲聞き、酒代を置いて店を出て、また次の店を覗く……。
 しばらく進んで横丁に入ったところに、かの有名な「プリザベーション・ホール」がある。これは腰を落ち着けて聴きたいものだと、満員の順番を待って席を取り、古き時代のジャズを楽しむ。何せこのホールは、歴史を語りつづけるディキシーランドジャズの古老たちが演奏する店、しかも入場料は 2ドル(1988年当時)という安さであるので超満員であったが、たっぷりと古きよき時代のジャズを楽しんだ。

 私は、この音楽と酒の渦巻くバーボン・ストリートをいつまでも歩きつづけた。ガンボ・スープをすすり、ポーボーイをほうばり、ハリケーンを呷りながら…。
 そうだ、この三つの食べ物と飲み物については是非書いておかねばならない。ニューオルリーンズを語るに欠かせない食品であろうから。それにあわせて、次回はラムについて書くことにする。
                           


様々な芸と音楽のあふれる町ーーニューオルリーンズ

2007-05-27 16:23:45 | 文化(音楽、絵画、映画)

 

 私がニューオルリーンズを訪ねたのは1988年、今から20年も前になる。ほんの3日の滞在であったがその印象は強烈に残っている。
 しかし、それは今からすれば既によき時代のニューオルリーンズであったのかもしれない。単なる時代の経過だけでなく、最近のハリケーンの来襲であの美しい街は壊滅的な打撃を受けて破壊されたと報じられているから・・・。

 新しいオルレアン、と呼ばれるように、この街はアメリカの中の「フランス(少なくともヨーロッパ)」である。そして、そのとおり、町の中心部をフレンチ・クォーターと呼ぶ。そのまた中心的な通りが、ロイヤル・ストリートとバーボン・ストリート。

 ロイヤル・ストリートは、鉄柵のあるバルコニーの家並みが続き、19世紀のアメリカ南部の雰囲気を残していると伝えられる。この街が作られたのはフランス領時代の1718年というが、その後の大火で消失、現在の面影はそれに続くスペイン領時代のものらしい。
 その通りのいたるところで町の芸人たちが、様々な芸を繰り広げていた。今でも心に残るのは、ハンサムなウェスタン歌手ゴスペルを熱唱する少女、トランペットとドラムの老人、などなど。
 中でもトランペットの老人は片手がなく、一本の手でトランペットを操りながら見事な演奏をしていたし、伴奏する老人のドラムは、空き缶や空き箱を連ねたものであった。道端で演じる二人の老人のジャズは、この町に来なければ絶対に触れることのできない雰囲気に包まれていた。私は、これらの演奏を、チップをはずみながらいつまでも聞いて歩いた。
 もう一つのバーボン・ストリートは、名前のとおり酒場とジャズ音楽の通り。その模様は次回に譲る。
                           


ニューオルリーンズ

2007-05-26 22:01:03 | 

 

 今月11日に、「いよいよ明るい季節を迎えた。この季節の旅の思い出はアメリカをおいてない!」と書き、シカゴ、アクロン、ニューヨークなどの思い出に触れた。
 そのうち、強烈な鼻風邪やピロリ菌など病気の世界に迷い込んだが、気がつけば五月も終わろうとしている。もう一度アメリカに戻ろう。

 シカゴを擁するイリノイ平原とミシガン湖も、ファイアストーンC.Cを抱くオハイオ州アクロンの澄み渡った空も明るかったが、「明るい!」と言えばニューオルリーンズに勝るものはないと思った。アメリカ人が一番旅行をしたい自国内の街としてあげるには、サンフランシスコとニューオルリーンズと聞いた。私はまだサンフランシスコに行っていない。しかし様々な書物やニュースで想像がつく限りでは、この二つの街は、いわゆるアメリカにはない異国情緒と物語性を秘めているのであろう。

 ニューオルリーンズ・・・ニュー・オルレアン・・・ヌーヴェル・オルレアン・・・・・・そう、オルレアンはあのジャンヌ・ダルクの町、フランスである。この町はアメリカの中の《
新しいフランス》である。
 同時に、この町は黒人の町であり、彼らが奏でたジャズの町である。イギリスから移り住んだ人々が築いた典型的なアメリカ――東海岸と、もう一つのアメリカ――黒人と移民の国の原型をこのニューオルリーズに見ることができる。
 もう一度行きたい街・・・の最初にあげたいこの町について、しばらく書き綴ることにしよう。
                            


風邪にやられる

2007-05-24 14:06:52 | 時局雑感

 

 ピロリ菌が消えた、妻の胆石も消えた等いい気になっていたら、その夜から喉が痛くなり、引きつづき強烈な鼻風邪に襲われ、ついに会社を早退して寝込む羽目になった。
 年甲斐もなく「…新たな健康に向かう…」などと調子のよいことを言っていたので、神のお咎めを受けたのであろう。妻の念願の胆石切除と相まって、やや有頂天になっていたので、「調子に乗るな!」という神のお叱りであろうが、神様というのもよく気がつくものだとつくづく思う。世界60億の人間の様相を絶えずチェックして、褒めたり叱ったりしているのだろうか? 一人でやっているとすれば相当な能力だと感心する。
 折りしも、そのような病気が未だあったのかと思われるハシカが流行っているようで、名だたる大学が休校していると言うから驚きだ。水っ洟をかんでティッシュペーパーの山を築く私に、妻が、「あなたハシカではないでしょうね」と言うので、
 「俺は昭和一ケタ生まれだ(注)。今の大学生ほど軟弱ではない!」
と息巻いたが、瞬間、神に聞こえはしないかと息を飲んだ。これ以上お叱りを受けたのではたまったものではない。
 お陰で神は見過ごしてくれたらしく、今朝はスッキリして仕事に向かっている。

(注)私は昭和10年生まれ。都合により一ケタ代と二ケタ代を使い分けている。ゼロは無視したり数えたりしてるわけだ。若く見せたいときは二ケタ生まれ、古きに威厳を持たせたいときは一ケタ生まれということにしている。
 


健康な、新たな生活に向かって

2007-05-21 13:50:40 | 時局雑感

 

 一回の駆除で、見事にピロリ菌が消えた話を書いたが、わが家にとっては、もう一つ消えたものがあった。
 実は私がピロリ菌の検査に行った前日、妻が胆石摘出の手術を行った。長年あたためていたものを、ついに取り除く決心をして入院したのだ。医者の診断では、胆石だけならたいしたことは無いが、若しかして総胆管にも結石が有るかも知れず、そうなるとどうしても割腹手術となるという。妻はあっさりと「割腹して全て取ってください」と応諾しての手術であった。
 私は恐らく総胆管も切ることになるであろうと、妻を不憫に思っていたのだが、幸いなことに胆嚢だけの摘出に終った。こうなると処理は早く、傷あとも小さくて済んだようで、木曜日に手術をして日曜日(昨日)には退院となった。医者にしてみれば、このようなものはデキモノを取り除くようなもので病気とも思っていないらしい。まだ動くと痛いと言っている妻は、痛み止めを渡されてあっさり退院となった。術後三日の退院とは結構なことであるが、まあ、医術も進んだものだと思う。
 手術終了後、私が子供たちに「お母さんの総胆管に石なく、私のピロリ菌も消えた」とメールすると、娘から、「お父さんもお母さんも、健康に向かっているのね」というやさしい返事が返ってきた。

 72歳と66歳の老夫婦(妻は未だ若いが)も健康を取り戻し、新たな生活に向かうこととなった。秋には念願の「ドイツ、フランス、イギリスの旅」に出かけようと、ひそかに案を練っている。
                             


ピロリ菌が消えた!

2007-05-19 20:51:50 | 時局雑感

 

 昨年三月の定期健康診断で、胃のバリューム検査の結果、「一部に変形が見られるので胃カメラ検査を受けよ」という再検査指示を受けた。「癌か潰瘍の可能性があるか」と問うと、「いやいや、そんな大げさなものではない」と言うので、その言葉を信じて一年近く放置しておいた。
 元来私は医者のやることが嫌いだ。針を突き刺して血を採ったり、肉を切り刻んで切った跡を糸で縫い合わせたり、カメラなどという鉄製品を体の中にねじ込んでいじくりまわすなど、およそ人間の仕業ではないと思っている。かく言う自分も、二度の割腹手術で一命を取り留めているので大きなことは言えないが・・・。
 従って”再検査指示”など無視して一年近く経ったが、次の検査を真近に控えた二月、さすがの私も気になって、ついに「胃カメラ」なるものを受けた。(検査は全身麻酔で何の記憶もなかった)
 結果は、「胃炎症状が見られる。悪性のものは何もないが、ピロリ菌がいるので退治せよ」というものであった。これには驚いた。
 ピロリ菌とは一体何ものぞ!
 私は大量の薬を一週間飲まされた。その上、一ヶ月に渡り「胃を調整する薬」を飲んで、その結果、ピロリ菌なるものが生きているかどうか検査するというのだ!
 先生の言によれば、一回では消滅しないかもしれない、二回やっても30%ぐらいの人が消えない、と言う。私は毎日薬を飲みながら「俺の体内からピロリ菌が消えることはないのではないか」と諦めていた。
 ところが・・・昨日検査をしたら、見事消えていた!

 俺には、未だ生命力が残っているのか・・・・・・?

 そろそろ年貢の納め時が近づいた者としては、もっと素直に、医者も、医術も、自分をも、信じて生きなければいけないのではないか、と思った。
                             


「疲れているのならこれを飲め」――コーラを渡してくれた運転手

2007-05-18 22:29:12 | 

 

 旅先で受ける親切は心にしみるものである。前回書いたU航空とTさんの、サービス精神に充ちたビジネスもうれしかった。そしてアメリカでは、市井の中で日常化している親切な振る舞いにたくさん出会った。

 6月12日はプエルトリコの独立記念日で、その移民の多いニューヨーク市五番街はパレードでごった返す。ちょうど居合わせた(1989年6月12日のこと)私と妻は、華やかなパレードを何時間も楽しんだが、それはさておき・・・。
 私はどうしてもメトロポリタン美術館に行く用事があったので、その人ごみをかき分けて美術館に向かった。(もちろん、タクシーは混雑を理由に乗せてくれなかった)
 途中セントラルパークで「日曜日のアメリカ人の態様」に触れる幸運に恵まれたりしたが、さすがに疲れ果てて、帰りはとにかくタクシーをつかまえ頼み込んだ。ドライバーは「近いから歩け」と言うが、私は「疲れているんだ」と重ねて頼むと、「回り道で時間がかかるが、No problemか」としきりに聞きながらやっと乗せてくれた。
 しばらく走って空いた道に出ると、彼は「疲れているのなら、これを飲め」と缶コーラくれた。生暖かいコーラは最高の味とは言えないまでも渇いた喉に快適で、私は金を払いたいと告げた。ところが彼は「金は要らない。俺のもあるんだ」と、もう一本の缶を抜いて、片手で運転しながらグイグイ飲んだ。

 このような親切は、ニューヨークでは普通のことなのだろうか? 日本ではこうスムースにはいかない。私は8ドル強の料金に対し10ドル紙幣一枚しか渡さなかったことが、未だ気になっている。
                             


バーボンウィスキー(その2)

2007-05-17 22:40:38 | 

 

 アメリカに行ってスコッチ・ウィスキーを飲もうという気にはならない。やはりバーボン・ウィスキーを飲みたいと思うから不思議だ。トウモロコシを主原料としたカラッとした飲み口は、広大な天地と明るく陽気な国柄に合うし、大まかな焼き方のステーキや、ハンバーガーなどをかじりながら飲む酒には、あの埃っぽい感じの香りがマッチする。
 と言っても、私は日本でも有名で一般的なバーボンしか飲んでいない。その銘柄と起源、醸造地は以下の通り。

   銘 柄       創業年     醸造地
 ワイルド・ターキー    1855年   ケンタッキー州 
 アーりー・タイムズ    1860年     同上
 ジャック・ダニエル    1866年   テネシー州
 I・w・ハーパー    1897年   ケンタッキー州
 ブラントン       1984年     同上
           (成美堂出版「洋酒の事典」より)

 これらの乾いた味が何ともいえない。中でも好きなものがブラントン。味もさることながら、ビロードの布袋と栓の上にあしらわれた《駆ける馬》の格好が良い。これについてこぼれ話を一つ。
 1988年、二度目の渡米でブラントンに目を付けていた私は、帰りのU航空機で免税品として売っていることを知り、何としても買いたいと思い、日本人スチュワーデスTさん(そう! 私はそのフルネイムを今も覚えている!)に、着席後まもなく予約を申し込んだ。後部席であったので売り切れを心配したからだ。Tさんは「分かりました。夕食後回るので申し込んで下さい」と、売り子に渡す英文メモまで書いてくれた。ところが、案の定、私の前の席ででその品は売り切れた。
 当然私は無念の胸のうちを告げて、彼女に苦言を呈した。しきりに謝った彼女はしばらくして「社からのお詫びのしるし」とワイン一本持参し、加えて「よろしければ成田の免税店で同商品を購入して後日お送りしたい」と申し出てきた。成田の税関で若干の手続きと時間を要したが、彼女は最後までそれに立会い、約束の品は一週間後に我が家に届いた。

 馬の駆ける姿をあしらったブライトンの空瓶は、今も私の書棚に飾られている。それを見る度に、U航空という会社とTさんの素晴らしいビジネスに、感謝と尊敬の念がこみ上げてくるのである。
                              


アメリカの酒ーーバーボン・ウィスキー

2007-05-14 14:54:21 | 

 

 どこの国にもビールがあり、アメリカでもたくさんのビールを飲んだ。代表的なビールはバドワイザークワーズか…。ただ、これらのビールは専ら喉を潤すための飲み物と思っている。ベルギービールやイギリスのエール系のビールをはじめ、同じピルスナー系でもドイツやチェコのビールのような味もコクもあるビールに比べれば、食品としては二流品だと思う。しかし、カウボーイが砂塵の舞う平原を駆け回った後に喉を潤すビールとしては最高のものではないか? 拳銃をぶら下げて飲むには、ベルギービールなど甘っちょろくて飲めたものではないだろう。

 ウィスキーでも同じである。アメリカで専ら飲んだのは当然のことながらバーボン・ウィスキー。
 主要なウィスキーは「モルト・ウィスキー」と「グレーン・ウィスキー」に分類される。前者は大麦麦芽を糖化――発酵させ、それを蒸留してホワイトオークの樽で熟成させて造る。後者は大麦麦芽にトウモロコシを原料としてまぜて造る。モルト・ウィスキーの最たるものがスコッチ・ウィスキーであり、グレーン・ウィスキーの代表格がアメリカのバーボン・ウィスキーだと思う。

 バーボンは18世紀の終わりから19世紀に、主にケンタッキー州で造られてきた。アメリカ連邦法によればバーボン・ウィスキーはトウモロコシを51%以上使用すること、となっているのでトウモロコシが主原料のウィスキー。加えて、内側を焦がした樽で貯蔵するので独特の香りがする。麦芽ウィスキーに比べ軽快な風味である。加えてあの焦げた香りは、ケンタッキー州を舞台にした西部劇のせいか、私には埃っぽく感じる。
 
そしてそれが好いのである

 牛のわらじのような大きなサーロインステーキにかぶりつきながら飲む酒は、軽快でしかも埃っぽい香りのバーボンウィスキーに勝るものは無い、と思っている。
                            


ファイアーストーンC.C.でゴルフを楽しむ

2007-05-13 11:54:47 | 

 

 私は下手ッピーだがゴルフが好きで、若い時には随分やった。大分前から目が悪くなりボールへの焦点が合わなくなり止めたが。
 下手でも、やってるうちには様々なゴルフ場をまわった。しかしなんといっても、アメリカはオハイオ州アクロンの、ファイアストーンC.C.でのゴルフは忘れられない。このゴルフ場は、全英オープンのセントアンドリュース、マスターズのオーガスタナショナルとまではいかないまでも、米国、いや世界的にも屈指の名門コースといえよう。
 この名門コースで、1988年に一日、89年に連続二日にわたりゴルフを楽しんだことを、私はひそかに誇りにしているのである。そのようなことができたのは、弟とその親友でアクロンで事業を行っているO氏のお陰(彼はファイアストーンのメンバーなのだ!)であり、二人に感謝の気持ちも込めながら、その思い出を大切にしている。

 私がこのゴルフを忘れないのには理由がある。それはゴルフ自体の楽しさよりも、その中に豊かさ文化の香りを感じたからだ。
 その第一は、ゆったりとした設計で緑の量がちがう、と思ったこと。ファイアストーンは、オハイオの澄み切った空気と抜けるような青空に見合うだけの緑の厚みに囲まれていた。
 第二に、45ホールでメンバー数470人(当時)というゆとり。私たちは午前中に工場見学をやり昼過ぎにゴルフ場に到着、ゆっくり昼食をとり練習をやり、それから18ホールをまわって陽の高いうちに街に帰った。ティグランドで前のチームのために待つようなことは一度もなかった。
 第三に費用も安い。メンバーのO氏はカート代の11ドルのみ、われわれビジター代も40ドル(当時、数千円)であった。クラブハウスは決して華美ではないが、アーノルド・パーマーの部屋などがあって歴史を感じる。サービスもよく、プレーから帰ると、シャワーの間に靴はきれいに磨かれビニール袋に入れられてあった。

 朝暗いうちに家を出て、星をいただいて帰路に着き、すくなくとも2~3万円は払うゴルフしかやったことのなかった私は、不思議な世界に居る心地がしたのであった。
                            
 


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