スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

その後のシーク&手術

2010-09-17 12:24:13 | NOAH
 僕のプロレスキャリアが始まった年は,アラビアの怪人はマーク・ルーインとのコンビで年末の世界最強タッグ決定リーグに参加していました。このリーグ戦は,後で詳しく書くことになるでしょうが,ブルーザー・ブロディとジミー・スヌーカのチームが優勝しています。そしてこれを最後に,僕は少なくとも日本テレビの全日本プロレス中継においてはシークを観ていないので,たぶん全日本のリングには上がっていないのではないかと思います。前に説明しましたように,シークはプロレス的な技というのを試合の中ではほとんど繰り出しませんでしたし,相手の技を受けるということもしませんでしたが,これはもしかしたら年齢的にそういう動きをすることがすでに困難になっていたからかもしれず,もう全日本に呼ばれなくなった,要するにこれは馬場から呼ばれなくなったという意味ですが,それにはそうした事情もあったかもしれません。
 しかし,僕はシークを生で観ているのです。これは学生か,そうでなければ卒業して就職してすぐの頃。元全日本プロレス所属で1度は引退した大仁田厚が旗揚げしたFMWでのことです。
 僕のプロレスキャリアが始まって10年以上は経過していたので,すでに開始の時点で年齢的に難しくなっていたと考えるなら,この頃はさらに年をとっているわけですから,正直にいって試合の内容はまあひどいものでした。全日本の頃はまともなプロレスはしないといっても,リングには上がっていたわけですが,この頃は場外戦に終始し,リングに上がるということ自体が少ない。ですから試合時間も元々が長い方ではありませんでしたが,極端に短くなりました。
 そういう意味では,プロレス自体はまったく面白くも何ともなかったのですが,それでもファンクスと激しい抗争をかつて繰り広げた,シークという半ば伝説的なレスラーを,この目で見ることができたというのは,貴重な経験であったと思います。

 翌6月10日。の手術の日です。ダウン症の妹はパンを作る作業所に通っていまして,ひとりで行かれないことはない,というか帰りは基本的にひとりでバスを乗り継いで帰ってくるのですから,行きもひとりで行かれるのですが,癲癇の発作のために朝は体調が悪くなることがあるためにいつも母が送っていました。一方,みなと赤十字病院で手術が行われる場合,緊急である場合を除けば午前9時から。父は朝一番で手術という予定になっていましたので,母はこの日は朝の早いうちから病院へと向いました。したがって妹を作業所まで送り届ける役目が僕に回ってきまして,僕はこれを済ませてから病院に向かいました。作業所というのは,位置関係でいいますと僕の家とみなと赤十字病院との間にありますので,それ自体はさして大変なことではありませんが,僕と妹が家を出たのは8時50分頃でしたし,僕の場合はバスで送るということになりますから,当然ながら手術の開始前には間に合わず,父の顔をみておくことはできませんでした。
 このとき父は6階に入院していました。みなと赤十字病院の手術室は3階にあったのですが,3階には患者の家族が待っていることができるような場所はありません。よって僕はすでに手術が始まっていることは知っていましたから,3階は素通りして6階へ向かいました。ただ,父の病室にはだれもいませんでしたので,そのまま同じ階の談話室へ。そこには母と父のふたりの兄夫婦の5人がいまして,僕も合流しました。なお,父の病室は4人部屋でしたが,その部屋の構造は,僕が入院した8階の内科病棟とやはり同様でした。少し狭く感じられましたが,たぶん気のせいでしょう。
 僕たちに手術の終了が告げられたのは12時前くらいだったと思います。僕たちは3階に向い,執刀した外科のО先生の話を聞きました。手術自体は成功。開腹しましたのでついでに少し調べたところ,やはり癌は肝臓や腹膜へと転移しているとのことでした。それから病室が7階へと移動するので,そちらへ向うようにとの指示。僕たちはこの時点ではまだ父に会うことはできず,会えたのは7階の新しい病室に戻ってからでした。少し話をしたのですが,やはり父も疲れているようでしたので,そのまま病院の食堂で昼食を摂って帰りました。
コメント
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