スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

青森記念&見舞い

2010-09-20 19:32:52 | 競輪
 地区に3場しかないということで,北日本の有力選手の参戦が目立った青森記念の決勝(動画)。並びは山崎-佐藤-成田となった北日本,中野-川村-山口の近畿中部,佐々木-西田の四国中国で神山が単騎。
 前受けは山崎。佐々木が中団で中野が6番手。神山はこのライン追走のレースに終始。上昇した中野は残り2周で山崎の前に。佐々木は動かなかったので山崎は5番手。打鐘過ぎのコーナーから山崎が巻き返しに出て,ホームでは中野を叩いて先行。北日本追走の佐々木がバックから捲ると山崎の番手から佐藤も発進。佐々木は成田のブロックで失速。この間に佐藤と成田の車間がやや離れてしまったので,佐藤が大きな差をつけて優勝。成田が辛うじて2着を確保。3着は直線で大外をよく伸びた川村。
 優勝した岩手の佐藤友和選手は先月の全日本選抜に続く優勝。記念競輪は昨年暮れの武雄記念以来で通算4勝目。北日本はいろいろな並びが考えられたところでしたが,青森ということで佐藤が番手になった模様。ホームで山崎が中野を叩ききったところですべてのお膳立てが整った感じがします。獲らせてもらったという印象も強いですが,低迷期は完全に脱したとみてよいのではないでしょうか。

 みなと赤十字病院の外科のО先生が示したスケジュールの通り,人工肛門開設の手術後,は入院を継続して体力の回復を図りました。したがって,この間はまだ抗癌剤の治療には入っていません。といいますか,抗癌剤の治療を開始するためには,その抗癌剤を体内に注入するための管というのを身体に取り付ける必要があり,この取り付けのためには,ごく簡単なものですが手術が必要でした。つまり単に体力が回復したとかしていないとかいう以前の問題として,この時期の抗癌剤治療というのは物理的に不可能だったわけです。
 みなと赤十字病院というのは,どんなに重篤な患者であっても,特別な場合を除いては付き添いは不要ですし,むしろ拒否されます。したがって通常の見舞いということになるのですが,この見舞いには母がほぼ毎日のように行きまして,僕はこの間はほとんど行っていません。ウイークデーの場合は午後3時が面会可能となる時間ですので,その時間に病院に行き,帰りはついでに妹を迎えにいくというのが母のパターンになりました。妹は普段は帰りはひとりでバスを乗り継いで帰ってきていたわけですが,この間は帰りも母と一緒だったということになります。
 僕がほとんど見舞いに行かなかったのは,もちろん仕事の関係もありましたが,もうひとつ,別の理由もありました。父は末子相続という形で家を継ぎましたので,僕の両親が結婚したとき,父の父はすでに死んでいましたが,父の母は健在でしたから同居していました。つまり僕の両親というのはふたりきりで過ごした時間というのは,ほとんどなかったわけです。父の余命は長くて3ヶ月と診断されていましたから,最後にそうした時間を作るというのも悪いことではないという思いが僕にはありました。そしてそれは,たぶん母にもあったのではないかと思います。実際に母は,後にこんなに長い時間を父とふたりで過ごしたのは初めてだったといっています。まだこの時点では,父は自分の病気の何たるかをはっきりと知っていたわけではないのですが,もしもそれを知っていたとしたら,やはり父も同様に思ったのではないかと思います。
コメント
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