第17期竜王戦七番勝負第六局より。横歩取り中座飛車からの中盤戦。
ここで先手は▲6六銀と出ていますが,こう攻めに厚みを加えるのがうまい構想で,将棋自体は微差ながらここからずっと先手が前に出ているようです。とはいえ△4八金▲同玉△3七歩成▲同玉△3五銀▲3四歩△3二金▲5五銀△4四桂▲6六馬(第2図)という進展は,玉が露出するだけに先手としても怖いところだと思います。
このまま飛車を切って寄せにいくとどこかで▲7四角成とされ馬が受けに効いてきて寄らないので,後手は△8二歩と打ちました。この将棋はこれが妙手とはっきりいえるような手はないのですが,1手だけあげるならばそこでじっと▲7二角成と成った手。攻め合いたくなりますが,これで自玉が寄らないので勝ちとみきった手です。
後手は△5五飛と切り▲同銀に△5八銀と攻めますがそこで▲4五歩が△3六銀なら▲4六玉をみせつつ馬筋を通す一手。実戦の△3六銀打には▲2八玉と逃げ,△2六歩と伸ばしたところで▲3九桂。△2七歩成▲同桂に△2六歩だと▲3五桂で後手は1歩足りませんので△2六銀と出ましたが▲1八玉(第3図)と寄って飛車も受けに効き,寄りません。
この後も後手の攻めが少し続きましたが,正しく応接した先手が反撃を決めて勝っています。第2図から第3図の間で,自玉が寄るには1歩だけ足りないということを読みきっての▲7二角成。△8二歩と打たなければならないので1歩が足りなくなるわけで,将棋というのがきわどいところで戦われているということを見せつけるような一局だと思います。
虚偽と真理を分つことができるということ,いい換えれば,虚偽を虚偽であると認識することができるということを,具体的にある人間の知性のうちで生じることとして考えるならば,自分の知性のうちに混乱した観念が生じたとき,同時にそれを虚偽であると,すなわちこの観念が混乱した観念であると認識することができるということを意味します。このこと自体は,たとえば僕たちがペガサスを想像したときに,しかしそれはあくまでも想像,すなわち表象像であって,十全な観念ではないと僕たちは同時に認識できるということから経験的にも明らかであるといえるでしょう。そしてこういう場合には,ペガサスを想像するということは,人間の無力ではなく,むしろ力を意味するというのが,スピノザの見解です。
もちろん混乱した観念の意志というのがあるわけですから,僕たちがペガサスを想像する場合には,僕たちは馬に対して翼を肯定しているといわなければなりません。しかし同時にそれが表象像,すなわち混乱した観念であるということを認識しているとき,僕たちは同時にそれを否定しているということができると思います。部分的にいえばこれは,表象像が真理であるということの否定ですが,表象像を真理であるとみなすことの否定というのは,実はある虚偽に対する一般的な否定だと思うのです。しかるにスピノザはこのような虚偽の否定について,それも意志であるといいます。つまり僕たちが自分の知性のうちにあるペガサスの観念を虚偽であるとみなすとき,僕たちの知性のうちには,虚偽を否定するような意志が働いていると考えてよいのではないでしょうか。そしてこうした力こそが,事物を表象することが人間の精神の力であるといわれるときの,その力の源泉ではなかろうかと思うのです。
混乱した観念自体は非実在的なものですが,それを虚偽として否定することは,結局のところ真理を肯定する力と同一なのであり,その限りで実在的であるといえると思います。このことが,僕が知性と意志の関係を,本性と実在性との関係で説明した最大の理由となっています。
ここで先手は▲6六銀と出ていますが,こう攻めに厚みを加えるのがうまい構想で,将棋自体は微差ながらここからずっと先手が前に出ているようです。とはいえ△4八金▲同玉△3七歩成▲同玉△3五銀▲3四歩△3二金▲5五銀△4四桂▲6六馬(第2図)という進展は,玉が露出するだけに先手としても怖いところだと思います。
このまま飛車を切って寄せにいくとどこかで▲7四角成とされ馬が受けに効いてきて寄らないので,後手は△8二歩と打ちました。この将棋はこれが妙手とはっきりいえるような手はないのですが,1手だけあげるならばそこでじっと▲7二角成と成った手。攻め合いたくなりますが,これで自玉が寄らないので勝ちとみきった手です。
後手は△5五飛と切り▲同銀に△5八銀と攻めますがそこで▲4五歩が△3六銀なら▲4六玉をみせつつ馬筋を通す一手。実戦の△3六銀打には▲2八玉と逃げ,△2六歩と伸ばしたところで▲3九桂。△2七歩成▲同桂に△2六歩だと▲3五桂で後手は1歩足りませんので△2六銀と出ましたが▲1八玉(第3図)と寄って飛車も受けに効き,寄りません。
この後も後手の攻めが少し続きましたが,正しく応接した先手が反撃を決めて勝っています。第2図から第3図の間で,自玉が寄るには1歩だけ足りないということを読みきっての▲7二角成。△8二歩と打たなければならないので1歩が足りなくなるわけで,将棋というのがきわどいところで戦われているということを見せつけるような一局だと思います。
虚偽と真理を分つことができるということ,いい換えれば,虚偽を虚偽であると認識することができるということを,具体的にある人間の知性のうちで生じることとして考えるならば,自分の知性のうちに混乱した観念が生じたとき,同時にそれを虚偽であると,すなわちこの観念が混乱した観念であると認識することができるということを意味します。このこと自体は,たとえば僕たちがペガサスを想像したときに,しかしそれはあくまでも想像,すなわち表象像であって,十全な観念ではないと僕たちは同時に認識できるということから経験的にも明らかであるといえるでしょう。そしてこういう場合には,ペガサスを想像するということは,人間の無力ではなく,むしろ力を意味するというのが,スピノザの見解です。
もちろん混乱した観念の意志というのがあるわけですから,僕たちがペガサスを想像する場合には,僕たちは馬に対して翼を肯定しているといわなければなりません。しかし同時にそれが表象像,すなわち混乱した観念であるということを認識しているとき,僕たちは同時にそれを否定しているということができると思います。部分的にいえばこれは,表象像が真理であるということの否定ですが,表象像を真理であるとみなすことの否定というのは,実はある虚偽に対する一般的な否定だと思うのです。しかるにスピノザはこのような虚偽の否定について,それも意志であるといいます。つまり僕たちが自分の知性のうちにあるペガサスの観念を虚偽であるとみなすとき,僕たちの知性のうちには,虚偽を否定するような意志が働いていると考えてよいのではないでしょうか。そしてこうした力こそが,事物を表象することが人間の精神の力であるといわれるときの,その力の源泉ではなかろうかと思うのです。
混乱した観念自体は非実在的なものですが,それを虚偽として否定することは,結局のところ真理を肯定する力と同一なのであり,その限りで実在的であるといえると思います。このことが,僕が知性と意志の関係を,本性と実在性との関係で説明した最大の理由となっています。