スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

妙手⑨&否定する力

2010-03-15 18:50:15 | ポカと妙手etc
 第17期竜王戦七番勝負第六局より。横歩取り中座飛車からの中盤戦。
               
 ここで先手は▲6六銀と出ていますが,こう攻めに厚みを加えるのがうまい構想で,将棋自体は微差ながらここからずっと先手が前に出ているようです。とはいえ△4八金▲同玉△3七歩成▲同玉△3五銀▲3四歩△3二金▲5五銀△4四桂▲6六馬(第2図)という進展は,玉が露出するだけに先手としても怖いところだと思います。
               
 このまま飛車を切って寄せにいくとどこかで▲7四角成とされ馬が受けに効いてきて寄らないので,後手は△8二歩と打ちました。この将棋はこれが妙手とはっきりいえるような手はないのですが,1手だけあげるならばそこでじっと▲7二角成と成った手。攻め合いたくなりますが,これで自玉が寄らないので勝ちとみきった手です。
 後手は△5五飛と切り▲同銀に△5八銀と攻めますがそこで▲4五歩が△3六銀なら▲4六玉をみせつつ馬筋を通す一手。実戦の△3六銀打には▲2八玉と逃げ,△2六歩と伸ばしたところで▲3九桂。△2七歩成▲同桂に△2六歩だと▲3五桂で後手は1歩足りませんので△2六銀と出ましたが▲1八玉(第3図)と寄って飛車も受けに効き,寄りません。
               
 この後も後手の攻めが少し続きましたが,正しく応接した先手が反撃を決めて勝っています。第2図から第3図の間で,自玉が寄るには1歩だけ足りないということを読みきっての▲7二角成。△8二歩と打たなければならないので1歩が足りなくなるわけで,将棋というのがきわどいところで戦われているということを見せつけるような一局だと思います。

 虚偽と真理を分つことができるということ,いい換えれば,虚偽を虚偽であると認識することができるということを,具体的にある人間の知性のうちで生じることとして考えるならば,自分の知性のうちに混乱した観念が生じたとき,同時にそれを虚偽であると,すなわちこの観念が混乱した観念であると認識することができるということを意味します。このこと自体は,たとえば僕たちがペガサスを想像したときに,しかしそれはあくまでも想像,すなわち表象像であって,十全な観念ではないと僕たちは同時に認識できるということから経験的にも明らかであるといえるでしょう。そしてこういう場合には,ペガサスを想像するということは,人間の無力ではなく,むしろを意味するというのが,スピノザの見解です。
 もちろん混乱した観念の意志というのがあるわけですから,僕たちがペガサスを想像する場合には,僕たちは馬に対して翼を肯定しているといわなければなりません。しかし同時にそれが表象像,すなわち混乱した観念であるということを認識しているとき,僕たちは同時にそれを否定しているということができると思います。部分的にいえばこれは,表象像が真理であるということの否定ですが,表象像を真理であるとみなすことの否定というのは,実はある虚偽に対する一般的な否定だと思うのです。しかるにスピノザはこのような虚偽の否定について,それも意志であるといいます。つまり僕たちが自分の知性のうちにあるペガサスの観念を虚偽であるとみなすとき,僕たちの知性のうちには,虚偽を否定するような意志が働いていると考えてよいのではないでしょうか。そしてこうした力こそが,事物を表象することが人間の精神の力であるといわれるときの,その力の源泉ではなかろうかと思うのです。
 混乱した観念自体は非実在的なものですが,それを虚偽として否定することは,結局のところ真理を肯定する力と同一なのであり,その限りで実在的であるといえると思います。このことが,僕が知性と意志の関係を,本性と実在性との関係で説明した最大の理由となっています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

シンプルな公理系&虚偽と誤謬の相違

2010-03-13 19:07:43 | 哲学
 スピノザの哲学の体系というのは,実際は非常にシンプルなものであって,こういってよければひとつの式に還元することができるようなものです。確かに『エチカ』というのは数多くの定義と公理,そして定理や系から成立しているものではありますが,それでもなお,その中心を貫く原理は単純なものです。それはスピノザ自身が,『エチカ』第三部の序言において,「自然は常に同じであり,自然の力と活動能力はいたるところ同一である」といっていることからも明らかだと思います。
 ここまで明らかになれば,僕がルールの公理系において,公理系がシンプルに成立している競技が,よりスピノザ哲学の信奉者の好みに合うのではないかという仮説を立てた理由もお分かりいただけるものと思います。
 確かに哲学は哲学であり,また競技は競技ですから,まったく別のものではあります。しかしこの公理系の単純さは,確かにスピノザの哲学のひとつの魅力であると僕は思うのです。そして分裂病と躁鬱病というカテゴリーの中で,分裂病圏にある人が特異的にこの哲学のシンプルさに魅力を感じるのであるとすれば,このことは競技の公理系の場合にもやはり妥当するのであって,シンプルな公理系によって成立している競技の方に,大きな魅力を感じるのではないかと思うのです。
 これは逆もいえるでしょう。もしもあなたが,シンプルな競技がより好きであるのなら,あなたは分裂病圏に属する人間なのかもしれません。そしてぜひスピノザを読んでみてください。そこには意外な魅力が潜んでいるかもしれません。

 ある人間の知性の一部が混乱した観念によって形成されているとき,これはこの人間の知性の一部が虚偽を含んでいるということであり,それ自体でみるならば,非実在的なもの,すなわち無によって形成されているということにほかなりません。これは僕にも否定することができません。というか,否定するつもりもありません。
 しかし,この場合にスピノザの哲学において重要なのは,この知性の一部が虚偽によって構成されていることが,直ちにこの人間の知性のうちに誤謬が含まれている,もっと簡単ないい方をするなら,この人間が誤っているということを意味するわけではないということです。これもいくつかの考察の中で再三いってきていることですが,スピノザの哲学にあっては,虚偽と誤謬は,それぞれ異なった概念として考えなければならないのです。
 第二部定理三五により,誤謬とは,虚偽を真理と信じ込むこと,ないしは虚偽が虚偽であると知らないことです。次に第二部定理四二により,真理の規範,すなわち真理と虚偽とを分つのは真理それ自身ですが,第二部定理三八および第二部定理三九により,人間の精神のうちには必ずそうした真理が生じます。よって人間はこの真理によって虚偽を真理から分つことができる,いい換えれば,ある虚偽が自分の知性の一部を構成している場合においても,そうした虚偽が自身の知性のうちに発生すること自体は防ぐことができませんが,それを虚偽と知ることは可能なのです。つまり,たとえそれ自体では非実在的なものが知性の一部を占めていても,それが非実在的であるということを正しく認識することができるのです。
 この限りにおいて,人間が事物を表象することを,それはたとえ虚偽であっても,精神の力であるとスピノザがみなしていることは,第二部定理一七備考の一文に示されている通りです。そしてこれが,僕が知性と意志の関係を,本性と実在性の関係から説明しようとする理由になっているのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

王将戦&実在性

2010-03-11 19:17:31 | 将棋
 久保利明棋王が二冠に王手という状況で迎えた第59期王将戦七番勝負第五局。
 久保棋王の先手で三間飛車石田流。羽生善治王将は持久戦を選択し,銀冠に構えたところで先手から仕掛けていきました。その後,小競り合いが続いて第1図。
               
 ここで先手は▲6五銀と突進していきました。△同桂▲同飛△3二金に▲2三角成と切って△同玉の瞬間は先手の角損。しかしそこで▲4五桂。後手は△6四金と歩を払って▲同飛。△6三歩▲7四飛△7三歩▲7六飛△8八馬に▲3一銀(第2図)と打ち込みました。
               
 先手はまだ駒損とはいえ金を取り返してほぼ一方的に攻めていますから,よさそうに思えますが,意外と難しかったようです。やはり7筋の飛車や桂馬が攻めに参加していないのが泣き所でしょうか。かといって足を止めるわけにもいかず,攻めを続けて第3図。
               
 ここで△5五角と打ったのが攻防の一手。先手は▲6二金△同飛▲5三銀としましたが,そこで飛車を逃げずに△7八馬。▲6二銀不成に△7七馬(第4図)として,後手からの反撃の方が厳しくなりました。プロレベルでは逆転なのかもしれませんが,僕のレベルではそういうほどには先手がよかったというわけでもないという感じです。
               
 以下は後手の桂馬が気持ちよく活躍して羽生王将の勝利。シリーズは第六局へ。16日と17日です。

 これで,なぜ僕が,知性と意志との関係を,事物とその事物の本性との関係に依拠して説明しなかったのかということの理由はお分かりいただけたものと思います。しかし同時に,次のような疑問も生じてくるのではないでしょうか。すなわち,確かにそれを事物と本性の関係で説明しなかった判断は正しいとしても,本性と実在性との関係で説明する僕の方法もまた,同様の問題を生じさせるのではないかというものです。
 十全な観念と混乱した観念との関係は,単に真理と虚偽という関係にあるだけではなく,有と無という関係にあるというのがスピノザの哲学的主張のひとつであり,この主張には僕自身も同意しています。したがって,もしも混乱した観念をそれ自体でみるという場合には,それは無であると判断しなくてはなりません。よって知性と意志の関係を本性と実在性という関係に依拠して説明するならば,混乱した観念に関しては,無であるものを実在的,すなわち有であると主張しているも同様で,冒頭の疑問はしごく当然のものです。また僕自身,このようにただ混乱した観念を形相的なものとしてみた限りでは,むしろこの疑問は正しいものであると認め,弁明はしません。
 確かに混乱した観念の実在性というのは,それを神と関連付けるという方法で,考えることができないものではありません。しかし今は僕はこの点については強く主張しません。これはあくまでも混乱した観念を神と関係付けて説明する方法ですから,この観点からの主張は,同時にこれを事物と本性との関係で説明することも擁護するからです。
 しかしそれでもなお僕が本性と実在性の観点から説明したことに,何の理由もないというわけではないのです。そしてこれは,僕が意志というのを,単に真理の肯定ないし虚偽の否定であるとのみ解さず,そういう力であるとみていることと大きく関係しているのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ダイオライト記念&混乱した観念の意志

2010-03-10 19:03:05 | 地方競馬
 フリオーソによる同一重賞3連覇がかかったダイオライト記念
 どの馬が逃げるのかは焦点のひとつでしたが,かなり押していってフリオーソが先手を奪いました。かなり行きたがっている様子でしたがフサイチセブンが2番手に控え,ロールオブザダイスとマコトスパルビエロが並んで追走。最初の1000mは63秒0ですからスローに近いミドルペースといったところでしょうか。
 3コーナーを回ってからロールオブザダイスが後退していったのを除けばほとんど隊列は変わらないままに直線に。追走していたフサイチセブンがフリオーソを交わして先頭に立つとフリオーソは一杯。ロールオブザダイスと入れ替わるように上がってきたマイネルアワグラスとマコトスパルビエロが並んで前を追いましたが,危なげなく振りきったフサイチセブンの優勝。マイネルアワグラスが2着でマコトスパルビエロが3着。
 優勝したフサイチセブンは3戦目の未勝利を勝つと4連勝してオープン入り。前走のオープン特別で2着となり,少し壁があるかと感じていましたが強い内容でした。発走後にフリオーソがかなり押していったのでスタミナをロスしたという側面もあったかと思いますが,こちらも抑えるのに必死という様相でしたから,それでいてこの内容であれば,一線級でもある程度はやれそうに思います。
 騎乗した内田博幸騎手は2006年ヴァーミリアン以来のダイオライト記念2勝目。管理している松田国英調教師はダイオライト記念初制覇となっています。

 混乱した観念には意志は含まれないと考えることには無理があるということ,いい換えれば,混乱した観念にも,十全な観念と同様に,意志が含まれているということを具体的な例で考えてみようと思います。この場合にも,これまで何度かそうしてきたように,ペガサス,すなわち翼の生えた馬の観念を例材とします。
 ペガサス,すなわち翼ある馬の観念が,ある人間の精神のうちにあると仮定します。以前に第二部定理一七表象の種類のうち,想像について詳しく検討した内容から,この仮定は無理がありません。しかるに,この観念は,馬という動物に対して,翼という部分を肯定していることにほかなりません。いい換えればこうした肯定なしには,この観念はこの人間の知性のうちにあることはできないでしょう。しかし,馬に対して翼を肯定する思惟の様態,すなわちこれがスピノザの哲学でいう意志ですが,この意志は,ペガサスの観念だけを肯定し,ほかの観念を肯定することが不可能ですから,ペガサスの観念なしにはある人間の知性のうちにあることはできないということになります。同様に以前に考察した宝くじの的中という想像は,たとえば自分が購入した宝くじの番号が当せん番号と一致するという肯定なしにはあることができませんが,この意志が肯定し得るのは,自分が購入した宝くじが当たるという想像だけだといえるでしょう。
 したがってこの関係は,三角形の場合,すなわち十全な観念の意志の場合と完全に一致するのです。よって混乱した観念の場合にも,知性と意志とは同一のものであるということになります。すなわち第二部定理四九とか第二部定理四九系というのは,混乱した観念というのを,神とは関連付けず,ただそれ自体でみた場合にも妥当するといわなければならないと思います。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本選手権&本性と存在

2010-03-08 18:54:01 | 競輪
 GⅠとしては最高峰にあたる日本選手権競輪。今年は松戸競輪場を舞台に6日間にわたって熱戦が展開され,昨日が決勝でした。並びは山崎-伏見の福島に松坂,加藤-山口の岐阜,村上義弘-村上博幸の京都,坂本-井上の九州。
 Sは伏見が取って山崎の前受け。村上義弘が4番手で加藤が6番手,坂本が8番手という周回。残り3周のホームから坂本が上昇開始。バックでは山崎に並び掛けましたが山崎はなかなか引かず,残り2周のホームでようやく坂本が叩きました。バックに入ると村上義弘も上昇し,打鐘で坂本を叩いて先行。坂本が3番手で粘る構えを見せましたが,ここはあっさり加藤が取りました。山崎はこの動きを見てしまった感があり,7番手に置かれ圏外。村上義弘のかかりがよく,一列棒状でバックを通過。直線手前から加藤が外を踏みましたが車の伸びが案外で,直線から踏んだ村上博幸が兄を差して優勝。村上義弘も2着に残って兄弟ワンツー。加藤が外へ行ったので兄弟の間に突っ込んだ山口が3着。
 優勝した京都の村上博幸選手は2007年の共同通信社杯優勝がありますが,GⅠは初優勝となるビッグ2勝目。兄が2車でも行ってくれたこと,岐阜勢が追走してくれたこと,そして坂本が番手ではなく3番手を取りにいったことなど,いくつかの恩恵はありましたが堂々の優勝。自力も使えますが,マーク選手として大成していくことになりそうです。

 もしも知性と意志との関係を,事物とその事物の本性との関係で説明し,さらに有限知性の一部は混乱した観念によっても形成されているということを認め,かつこの有限知性を神の無限知性の一部としてではなく,それ単独で考えようとするならば,この観点において,混乱した観念の本性とは何かという問いに対して答えることができるのでなければなりません。
 しかし,実際にはこの問いというのは,答えることが不可能であると僕は考えます。なぜなら,まず第一に,第二部定義二の意味としてあるように,事物の本性というのはこの事物の存在を定立するものですから,混乱した観念の本性というのは,この混乱した観念の存在を定立するものです。しかし第二に,スピノザの哲学における十全な観念と混乱した観念との関係というのは,単に前者が真理で後者が虚偽であるということにとどまらず,有と無の関係,すなわち前者は有であり後者は無であるということを含んでいます。これはスピノザ自身が第二部定理四三の備考で示している事柄です。
 したがって,第一の点と第二の点は両立し得ないということが明らかです。よってこの問いには答えることができないでしょう。できることがあるとするなら,神に関連させずにこの観点から観念と意志の関係を説明する場合には,知性と意志の関係を事物とその事物の本性との関係で説明することを断念するか,混乱した観念が有限知性の一部を構成することを否定するか,そうでなければ混乱した観念は有限知性の一部を構成するのだけれども,この混乱した観念には意志は含まれないとするかのどれかです。しかし第二の道は,第二部定理四九の備考でスピノザ自身によって閉ざされていますので,僕としては第一の道か第三の道を選択するほかありません。しかし第三の道も,スピノザは否定するだろうと僕は思うのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

棋王戦&混乱した観念

2010-03-07 18:59:34 | 将棋
 互いに後手で1勝ずつをあげて迎えた今日の第35期棋王戦五番勝負第三局。
 久保利明棋王の先手で石田流。佐藤康光九段のごく一般的な対応に先手が早くから動く将棋に。先手の一歩得に後手が手得を主張する序盤戦。後手が角打ちから9筋を破りにきたのに対し,先手は美濃囲いに組んでから反撃に出ました。
               
 ここで▲7一角。取らせて龍を作る狙いに後手は△7三銀と引いて受けました。▲8二角成△同金で後手陣はバラバラですが,これで先手の後続手段も意外と難しかったようです。先手は桂馬を応援に繰り出し第2図に。
               
 ここで▲7五飛と浮いたので,△6四角を打たせる格好に。▲7三桂成△7五角に金は取らずに▲6三成桂と迫りました。かなりきわどかったとは思うのですが,しかしこの攻めでは足りなかったようです。攻撃を余した後手が反撃に転じて勝っています。
 佐藤九段が2勝1敗とし,棋王復位に王手を掛けました。第四局は19日です。

 スピノザが知性と意志との関係を,事物と本性の関係で説明しているにもかかわらず,僕がこれを本性と実在性との関係で説明するのには,はっきりとした理由があります。結論から先にいますとそれは,スピノザが知性のうちに,混乱した観念も含めているからです。
 実際には,混乱した観念というのは,ここで考察の対象にしている人間の知性を代表とするような,有限な知性のうちにのみあります。しかしこうした知性というのは,神の無限知性の一部なのであって,それを有限な知性のうちにある観念としてのみ考えるのでなく,神との関連で考えるならば,十全な観念ということになります。よってこの観点からは,スピノザが実際にそうしたように,知性と意志との関係を,事物とその事物の本性との関係で説明することに何の問題もありません。混乱した観念が有限知性の一部を構成しているとしても,現実的にこの関係で説明されているのは十全な観念であると考えることができるからです。第二部定理四九の証明で,スピノザは明らかに十全な観念だけを対象にしていると僕は思うのですが,スピノザがそのようにすませることができるのは,こうした考え方が下地となっているからなのでしょう。また,こうした論拠においては,混乱した観念の本性とは何かということを考えることが可能であるということは,僕自身も認めているところです。
 しかし,僕はここでは,人間の知性と人間の意志について,それ単独で考察しようと意図しています。したがって,混乱した観念の本性ということについても,それはある人間の知性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにある観念であって,その神のうちではこれは十全な観念であるということには依拠することができなくなります。すると,観念と意志の関係を事物とその事物の本性との関係で説明することに,少し問題が生じてくるように思われるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マクトゥームチャレンジ3&本性との関係

2010-03-05 19:16:23 | 海外競馬
 今年のドバイの国際招待レースは現地時間の27日。競馬場がリニューアルされ,ダートコースがタペタという素材のオールウェザーになりました。そのオールウェザーのコースで現地時間の4日に行われたのがマクトゥームチャレンジラウンド3GⅡという前哨戦。ここに日本から昨年のJRA賞年度代表馬のウオッカと,秋華賞を勝ったレッドディザイアが参戦しました。
 レースを引張ったのはフランスのGloria de Campeao。ウオッカは好位の外。大外枠のJoe Louisは出遅れ,集団から離れた最後尾を追走し,レッドディザイアは残る集団の最後尾からのレース。
 ラップは不明ですが,スローペースのレースであったと思います。逃げたGloria de Campeaoは後ろに大きな差こそつけませんでしたが,かといって並ばれるというところもなくゴール板へ一直線。ウオッカはよい手応えで直線に入ったように見えましたが,どうやら引っ掛かっていたようで伸びを欠き結果8着。直線入口で大外に持ち出されたレッドディザイアの方はそこからぐいぐいと伸び,ゴール直前でGloria de Campeaoを捕えて優勝しました。
 優勝したレッドディザイアは秋華賞以来の勝利で重賞2勝目。2着のGloria de Campeaoは昨年のドバイワールドカップの2着馬で,シンガポール航空国際カップの優勝馬。前走はこれも前哨戦のマクトゥームチャレンジ1を勝っていました。こうした相手関係もそうですが,先行した馬が残るレースを大外から追い込んだわけですから,レッドディザイアはかなり強い内容であったといっていいと思います。父はマンハッタンカフェ
 管理している松永幹夫調教師はこれが海外競馬初出走。鞍上は日本でもおなじみのフランスのオリビエ・ペリエ騎手。日本馬による海外重賞制覇は一昨年のカジノドライヴによるピーターパンステークスGⅡ以来。ドバイでの重賞制覇は2007年のアドマイヤムーンによるドバイデューティフリーGⅠ以来となります。

 僕は知性と意志との関係というのを,事物の本性とその事物の実在性という関係になぞらえて説明しました。しかし,この関係は,事物とその事物の本性との関係にたとえることも可能で,実際には『エチカ』におけるスピノザ自身の説明というのはそのようになっています。
 ある知性のうちに平面上の三角形の観念があるとき,この観念のうちには,この三角形の内角の和が180度であることを肯定する意志が必ず含まれています。これは第一部公理六からそれ自体で明らかなのであって,この肯定,すなわち意志なしには,この知性のうちに三角形の観念があるということはできません。
 一方,ある知性のうちに,ある平面上の図形に関して,その内角の和が180度であることを肯定する意志があったとします。この意志は,平面上の三角形の観念に関しては肯定することができますが,その他の図形,また図形に限らずその他のあらゆる観念に関してはそれを肯定することができません。したがってこの肯定がある知性のうちに思惟の様態としてあるためには,三角形の観念が必要不可欠であるということになります。いい換えれば,平面上の三角形の観念がなければ,ある図形に関してその内角の和が180度であることを肯定する意志というのはあることができないでしょう。
 このことから,ある観念とこの観念を肯定する意志作用は,一方がなければ他方が,他方がなければもう一方が,考えること,ないしはあることができないという関係にあることになります。そしてこの関係は,第二部定義二の,事物とその本性との関係に完全に一致しているということになります。つまり平面上に形相的に,すなわち物体としてある三角形とこの三角形の本性との関係が,客観的に,すなわち何らかの知性のうちに十全な観念として考えられている三角形の観念とこの観念を肯定する意志との関係と一致するのです。よって,このように考える限り,知性と意志の関係を,事物とその事物の本性との関係にたとえることは,確かに可能であることを,僕も認めます。したがってこう考える限り,スピノザによる説明は正しいといえるでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京スプリング盃&三角形の場合

2010-03-03 19:11:16 | 地方競馬
 名目上は今年度から新設された東京スプリング盃
 昨年6月以来のレースとなったネフェルメモリーの逃げ。これをスリーセブンスピンが追い,離れた3番手集団にスーパーヴィグラス,ヴァイタルシーズ,ストロングライデン,フジノウェーブなど。最初の600mは34秒9のハイペース。
 2頭の逃げは直線入口まで。最内を突いてスーパーヴィグラスが伸びましたが,フジノウェーブが楽々とこれを捕えると,あとは引き離す一方の快勝。あっという間に交わされ,かなり苦しかった筈ですが,スーパーヴィグラスが2着に粘り,後方から外を追い込んだイーグルショウが3着。
 優勝したフジノウェーブは実質的にこのレースの前身といえる昨年の東京シティ盃を制した後,勝ち星がありませんでしたが前走のオープン特別を快勝。復調してきたとあらばこのメンバーでは力が抜けていますからこの圧勝も当然でしょう。もう8歳になりましたし,コースに注文はつく馬ですが,適条件なら重賞でもやれそうです。
 鞍上は大井の戸崎圭太騎手で,先月の金盃以来の南関東重賞制覇。一応は第1回ということですので,管理する大井の高橋三郎調教師とともに,記念すべき優勝となりました。

 この証明は,具体的に考えた方がずっと分かりやすいでしょう。
 平面上にある三角形が現実的に存在し,この三角形の観念が神のうちにあるという場合について,この観念と意志作用の関係を考えてみましょう。
 この三角形が現実的に存在するということは,この三角形が実在性を有するということです。よってこの三角形の観念のうちには,ちょうどこれと同じ秩序であるようなこの観念の実在性が思惟の様態としてあるのでなければなりません。
 三角形の実在性は,三角形の本性を力という観点からみたものです。よってこの三角形の実在性は,三角形の本性そのもの,すなわち,その内角の和が180度であるということのうちにあります。したがって,三角形の観念の実在性というのは,その内角の和が180度であるということを肯定するような思惟の様態としてあるということになります。
 ところで,ある図形の内角の和が180度であることを肯定するような思惟の様態,すなわちこれはある事柄を真理として肯定する思惟の様態ということになりますから,ある意志作用ということになるのですが,この意志作用は,平面上の三角形の観念の存在だけを肯定し,それ以外の一切の観念の存在についてはそれをまったく肯定しません。したがってこれは,平面上の三角形の観念に固有の意志であるということになります。よってこの意志なしには三角形の観念はあることが,あるいは考えることができないでしょうが,それ以外の観念に関しては,この意志がなくても考えることができるでしょう。
 各々の事物にはその事物に固有の本性がありますから,この関係は,神の無限知性のうちにあるすべての観念に妥当します。よって個々の意志作用は個々の観念を力という観点からみたものであるということになり,知性と意志とは同一であるということになるのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

仲間割れ&第二部定理四九系証明

2010-03-01 19:05:33 | NOAH
 僕のプロレスキャリア以前のプロレスで,僕が最も面白いと感じた抗争は,意外な,しかしある見方からすれば必然的な仕方で終止符を打ちました。それがアラビアの怪人ことシークとパートナーであるブッチャーの仲間割れでした。
 この仲間割れについては諸説ありますが,もっともらしく語られているのは,ブッチャーはアメリカでシークによって見出されたレスラーであり,いわばシークが師匠でブッチャーが弟子といった関係にあたるのですが,日本でブッチャーがシーク以上の大物になってしまったために,この関係が崩壊し,仲間割れに至ったというもの。しかし現実的にいうならば,ブッチャーがシークの手下として戦うのが不自然になったからではないでしょうか。いい換えれば仲間割れをしたということは,むしろシークがブッチャーを一人前のレスラーとして認めたということであって,本気で喧嘩をしたとかいうことではないのだろうと思います。
 ただしこの仲間割れは,ブッチャーにとってはともかく,シークにとっては日本でプロレスをする上ではマイナスに作用したと思います。というのも,シークというのは暴れるだけでほとんどプロレスらしいプロレスはしませんでしたから,ブッチャーと組んでのタッグマッチならある程度は試合として成立しましたが,シングルではそうはいきません。僕のプロレスキャリアが始まった頃から,シークは全日本プロレスに呼ばれなくなったのですが,もしもブッチャーとのチームが継続していたなら,こうしたこともなかったのではないかと思うのです。

 第二部定理七により,物体の秩序と観念の秩序は同一です。したがって,物体Xがあるなら,この物体の観念Xは,物体Xが有しているのと同じだけの秩序を有しているのでなければなりません。同じことは,第一部公理六からもいえると思います。
 ところで,前提条件により,物体Xがあるならば,この物体Xはそれがあるという力を有しているということになります。したがって観念Xの中にも,そうした力があるということになります。
 しかし,ここで注意しておかなくてはならないのは,この観念に含まれるような力というのは,物体Xに含まれる力,すなわち物体Xの実在性そのものではないということです。むしろこれは観念Xの実在性なのであって,物体Xの実在性と同じ秩序ではあるけれども,物体Xの実在性が延長の属性としての実在性であるのに対して,観念Xの実在性は思惟の属性の実在性であるという相違があることになります。この証明との関連で第二部定理七がとくに意味しているのはこのことだと考えなければなりません。
 実在性とは力という観点からみた本性であり,事物の本性は事物の存在を肯定し,排除しません。したがって,ある観念の実在性もまた,この観念の肯定であり,この観念が思惟の様態として実在することを排除しないような思惟の様態であるということになります。
 ところで,意志作用とは,真であるものを肯定するような力であるというのがスピノザの哲学における理解です。したがって,ある観念と意志作用との関係は,ある事物とこの事物の実在性の関係に等しいということになります。いい換えれば,意志作用とは,力という観点からみた観念にほかならないのです。
 知性は個々の観念の総体であり,意志とは個々の意志作用の総体です。よって知性と意志とは同一であるということになります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする