互いに後手で1勝ずつをあげて迎えた今日の第35期棋王戦五番勝負第三局。
久保利明棋王の先手で石田流。佐藤康光九段のごく一般的な対応に先手が早くから動く将棋に。先手の一歩得に後手が手得を主張する序盤戦。後手が角打ちから9筋を破りにきたのに対し,先手は美濃囲いに組んでから反撃に出ました。
ここで▲7一角。取らせて龍を作る狙いに後手は△7三銀と引いて受けました。▲8二角成△同金で後手陣はバラバラですが,これで先手の後続手段も意外と難しかったようです。先手は桂馬を応援に繰り出し第2図に。
ここで▲7五飛と浮いたので,△6四角を打たせる格好に。▲7三桂成△7五角に金は取らずに▲6三成桂と迫りました。かなりきわどかったとは思うのですが,しかしこの攻めでは足りなかったようです。攻撃を余した後手が反撃に転じて勝っています。
佐藤九段が2勝1敗とし,棋王復位に王手を掛けました。第四局は19日です。
スピノザが知性と意志との関係を,事物と本性の関係で説明しているにもかかわらず,僕がこれを本性と実在性との関係で説明するのには,はっきりとした理由があります。結論から先にいますとそれは,スピノザが知性のうちに,混乱した観念も含めているからです。
実際には,混乱した観念というのは,ここで考察の対象にしている人間の知性を代表とするような,有限な知性のうちにのみあります。しかしこうした知性というのは,神の無限知性の一部なのであって,それを有限な知性のうちにある観念としてのみ考えるのでなく,神との関連で考えるならば,十全な観念ということになります。よってこの観点からは,スピノザが実際にそうしたように,知性と意志との関係を,事物とその事物の本性との関係で説明することに何の問題もありません。混乱した観念が有限知性の一部を構成しているとしても,現実的にこの関係で説明されているのは十全な観念であると考えることができるからです。第二部定理四九の証明で,スピノザは明らかに十全な観念だけを対象にしていると僕は思うのですが,スピノザがそのようにすませることができるのは,こうした考え方が下地となっているからなのでしょう。また,こうした論拠においては,混乱した観念の本性とは何かということを考えることが可能であるということは,僕自身も認めているところです。
しかし,僕はここでは,人間の知性と人間の意志について,それ単独で考察しようと意図しています。したがって,混乱した観念の本性ということについても,それはある人間の知性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにある観念であって,その神のうちではこれは十全な観念であるということには依拠することができなくなります。すると,観念と意志の関係を事物とその事物の本性との関係で説明することに,少し問題が生じてくるように思われるのです。
久保利明棋王の先手で石田流。佐藤康光九段のごく一般的な対応に先手が早くから動く将棋に。先手の一歩得に後手が手得を主張する序盤戦。後手が角打ちから9筋を破りにきたのに対し,先手は美濃囲いに組んでから反撃に出ました。
ここで▲7一角。取らせて龍を作る狙いに後手は△7三銀と引いて受けました。▲8二角成△同金で後手陣はバラバラですが,これで先手の後続手段も意外と難しかったようです。先手は桂馬を応援に繰り出し第2図に。
ここで▲7五飛と浮いたので,△6四角を打たせる格好に。▲7三桂成△7五角に金は取らずに▲6三成桂と迫りました。かなりきわどかったとは思うのですが,しかしこの攻めでは足りなかったようです。攻撃を余した後手が反撃に転じて勝っています。
佐藤九段が2勝1敗とし,棋王復位に王手を掛けました。第四局は19日です。
スピノザが知性と意志との関係を,事物と本性の関係で説明しているにもかかわらず,僕がこれを本性と実在性との関係で説明するのには,はっきりとした理由があります。結論から先にいますとそれは,スピノザが知性のうちに,混乱した観念も含めているからです。
実際には,混乱した観念というのは,ここで考察の対象にしている人間の知性を代表とするような,有限な知性のうちにのみあります。しかしこうした知性というのは,神の無限知性の一部なのであって,それを有限な知性のうちにある観念としてのみ考えるのでなく,神との関連で考えるならば,十全な観念ということになります。よってこの観点からは,スピノザが実際にそうしたように,知性と意志との関係を,事物とその事物の本性との関係で説明することに何の問題もありません。混乱した観念が有限知性の一部を構成しているとしても,現実的にこの関係で説明されているのは十全な観念であると考えることができるからです。第二部定理四九の証明で,スピノザは明らかに十全な観念だけを対象にしていると僕は思うのですが,スピノザがそのようにすませることができるのは,こうした考え方が下地となっているからなのでしょう。また,こうした論拠においては,混乱した観念の本性とは何かということを考えることが可能であるということは,僕自身も認めているところです。
しかし,僕はここでは,人間の知性と人間の意志について,それ単独で考察しようと意図しています。したがって,混乱した観念の本性ということについても,それはある人間の知性を構成するとともにほかのものの観念を有する限りで神のうちにある観念であって,その神のうちではこれは十全な観念であるということには依拠することができなくなります。すると,観念と意志の関係を事物とその事物の本性との関係で説明することに,少し問題が生じてくるように思われるのです。