8月31日に鶴巻温泉で指された第71期王座戦五番勝負第一局。対戦成績は永瀬拓矢王座が5勝,藤井聡太竜王・名人が11勝。千日手が2局あります。
振駒で藤井竜王・名人が先手となり,角換わり。後手の永瀬王座が4一玉の形で早繰り銀にしました。先に角を打った先手が攻めていってリードを奪ったのですが,きわめて細い攻めであったために,後手が辛抱しながら駒を蓄えて反撃を狙うという将棋に。
勝負を分けた大きなポイントとなったのはおそらく第1図以下の手順であったと思われます。
ここで後手は☖2六香とただのところに打ちました。先手が☗同飛と応じたので☖6九角の王手金取り。これが厳しい反撃で逆転しました。
☖2六香の局面は詰めろではありませんし,☖2九香成と取られても詰めろとなるわけではありません。なのでその局面で先手は飛車を見捨てて攻めなければ勝ちを掴むことができなかったということになります。
永瀬王座が先勝。第二局は12日に指される予定です。
神Deusと関係させること,これはもちろん知性intellectusが関係させるのですが,神と関係させることができない観念ideaというのは存在しません。したがってこの限りでは,第二部定理三二は,すべての観念は真veraeであるということを意味します。しかし,ある観念は神と関係させることができるということと,その観念を実際に神と関係させるということは異なります。無限知性intellectus infinitusであれば,どのような観念であっても神と関係させることができるでしょう。これは,知性というのが個々の観念の集積であるということに注意すれば明白です。しかしもし知性が限定的である場合には,神と関係させることができる観念もあるでしょうが,神とは関係させることがその知性の力potentiaを超越しているがゆえに,神と関係させることができない観念があるという場合も大いに考えられます。そして実際にそうした観念があるのです。
第二部定理一七は,現実的に存在するある人間,たとえばAの身体corpusが,現実的に存在する外部の物体corpus,たとえばXに刺激されるafficiと,Aの精神mensのうちにXの表象像imagoが発生するといっています。このとき,Aの精神のうちにあるXの表象像は,Aの身体の本性essentiaを構成するとともにXの観念を有する限りで神のうちにあるという仕方で神と関係させることができます。ですから無限知性のうちでは,あるいは神のうちではこの観念は真です。しかし,Aの精神つまりAの知性にだけ注目するなら,Aはこのような仕方でXの観念を神と関係させることはできません。これは,Aの精神というのがAの身体の観念であるということに注目すれば明らかです。すなわち,Aの身体の本性を構成する観念というのはAの精神という意味になりますから,Xの観念を有する限りでの神といわれる場合の観念は,Aの知性のうちには存在していないからです。したがって,Aは自身の身体がXによって刺激されればXの表象像を自身の精神のうちに発生させるのですが,この表象像を神と関係させることはできないので,Aの精神のうちにあるとみられる限りではXの観念は真ではあり得ません。真ではないということは偽falsitasであるという意味ですから,これはXの誤った観念idea falsaであるということになります。
振駒で藤井竜王・名人が先手となり,角換わり。後手の永瀬王座が4一玉の形で早繰り銀にしました。先に角を打った先手が攻めていってリードを奪ったのですが,きわめて細い攻めであったために,後手が辛抱しながら駒を蓄えて反撃を狙うという将棋に。
勝負を分けた大きなポイントとなったのはおそらく第1図以下の手順であったと思われます。
ここで後手は☖2六香とただのところに打ちました。先手が☗同飛と応じたので☖6九角の王手金取り。これが厳しい反撃で逆転しました。
☖2六香の局面は詰めろではありませんし,☖2九香成と取られても詰めろとなるわけではありません。なのでその局面で先手は飛車を見捨てて攻めなければ勝ちを掴むことができなかったということになります。
永瀬王座が先勝。第二局は12日に指される予定です。
神Deusと関係させること,これはもちろん知性intellectusが関係させるのですが,神と関係させることができない観念ideaというのは存在しません。したがってこの限りでは,第二部定理三二は,すべての観念は真veraeであるということを意味します。しかし,ある観念は神と関係させることができるということと,その観念を実際に神と関係させるということは異なります。無限知性intellectus infinitusであれば,どのような観念であっても神と関係させることができるでしょう。これは,知性というのが個々の観念の集積であるということに注意すれば明白です。しかしもし知性が限定的である場合には,神と関係させることができる観念もあるでしょうが,神とは関係させることがその知性の力potentiaを超越しているがゆえに,神と関係させることができない観念があるという場合も大いに考えられます。そして実際にそうした観念があるのです。
第二部定理一七は,現実的に存在するある人間,たとえばAの身体corpusが,現実的に存在する外部の物体corpus,たとえばXに刺激されるafficiと,Aの精神mensのうちにXの表象像imagoが発生するといっています。このとき,Aの精神のうちにあるXの表象像は,Aの身体の本性essentiaを構成するとともにXの観念を有する限りで神のうちにあるという仕方で神と関係させることができます。ですから無限知性のうちでは,あるいは神のうちではこの観念は真です。しかし,Aの精神つまりAの知性にだけ注目するなら,Aはこのような仕方でXの観念を神と関係させることはできません。これは,Aの精神というのがAの身体の観念であるということに注目すれば明らかです。すなわち,Aの身体の本性を構成する観念というのはAの精神という意味になりますから,Xの観念を有する限りでの神といわれる場合の観念は,Aの知性のうちには存在していないからです。したがって,Aは自身の身体がXによって刺激されればXの表象像を自身の精神のうちに発生させるのですが,この表象像を神と関係させることはできないので,Aの精神のうちにあるとみられる限りではXの観念は真ではあり得ません。真ではないということは偽falsitasであるという意味ですから,これはXの誤った観念idea falsaであるということになります。
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