スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

自己原因&思惟の様態

2021-02-26 19:20:52 | 哲学
 最近まで自己原因論争に関して考察をしていました。そこで,スピノザの哲学における自己原因causa suiが何を意味するのかということをここにまとめておきましょう。
                                 
 自己原因は『エチカ』の冒頭,第一部定義一で示されています。それによれば,その本性が存在を含むものcujus essentia involvit existentiam,いい換えれば,その本性が存在するとしか概念することができないものcujus natura non potest concipiのことをいいます。他面からいえば,もしもあるものが概念されて,そのものが存在しないと概念することができないのであれば,そうしたものは自己原因といわれることになります。よってこの定義Definitioは,第一部公理七と少しばかりの関係を有していることになります。
 自己原因論争の考察の最後のところでいったように,その本性が存在を含むもの,という規定は,伝統的に神Deusの規定でした。したがってこの定義は実際には,自己原因というのは神のことである,いい換えれば神は自己原因であるということを,スピノザが実質的に宣言しているのだと解することができます。たぶんスピノザにはそのような意図があったのでしょう。僕たちはこの定義を読んで,神が自己原因であるということを宣言しているというようには読めないかもしれませんが,少なくともスピノザが生きていた時代に,思想や神学に詳しい人物がこれを読めば,スピノザは神が自己原因であると規定しているということが,たちどころに理解できるような定義であったことになります。
 第一部定理二五備考では,神は自己原因であるのと同じ意味で万物の原因だDeus dicitur causa sui, etiam omnium rerum causa dicendusとされています。万物の原因といわれる意味で,自己原因といわれるのではありません。これはスピノザの哲学の自己原因と原因の関係性を示すので重要です。つまりスピノザは自己原因こそが原因として第一のものだと考えているのです。もちろんこのとき,原因というのは起成原因causa efficiensのことを意味します。すなわち自己原因は起成原因であるとスピノザはいっているのです。つまり神の本性は,神が存在するために起成原因を有さない理由であるのではなく,起成原因そのものです。
 神が起成原因を有することによって,神は起成原因を超越する存在であることができなくなります。よって第一部定理一八でいわれるように,神は内在的原因causa immanensになるのです。

 僕は後に示す理由によって,神の観念idea Deiというのを思惟の属性Cogitationis attributumの能産的自然Natura Naturansと解することには懐疑的です。しかしここまでに説明したことから,神の観念を思惟の属性の能産的自然とみることについて,妥当性がまったくないというようには考えません。第二部定理七系には確かに神の観念という語が用いられています。そしてこの系Corollariumは第二部定理七の系ですから,この神の観念は,神の無限な本性naturaと同一個体であると解するのが適切でしょう。ですから神の無限な本性というのを能産的自然と解する限りは,神の観念も能産的自然と考えなければなりません。そして第二部定理七は,ある観念とその観念の対象ideatumの原因causaと結果effectusの秩序ordoと連結connexioが同一である,つまりある観念とその観念の対象は同一個体であるといっているのですから,神の観念はとくに思惟の属性の能産的自然に該当すると考えなければならないでしょう。逆にいうと,この系でいわれている神の観念というのを所産的自然と解するのであれば,明らかにその神の観念の観念対象と解せる神の無限な本性も,所産的自然と解するべきだということになると僕は考えます。
 先述したように,僕はそれでも神の観念を思惟の属性の能産的自然と解することに疑問をもちます。というのは,神の観念といわれる限り,それは神を観念対象とした観念という意味なのであり,観念というのはその対象が何であったとしても,思惟の様態cogitandi modiであると解するべきだと僕は考えるからです。そしてその根拠は,観念を定義した第二部定義三にあります。
 この定義Definitioでは,観念とは,精神が思惟するものであるがゆえに形成する精神の概念Mentis conceptum, quem Mens format, propterea quod res est cogitansであるといわれています。この定義は難解な定義にみえるかもしれませんが,以前にテーマと設定して考察しましたから,ここではそのことに関しては考察しません。ここで注目したいのは,ここで精神といわれているのは,思惟の様態にほかならないという点です。少なくともこの精神を何らかの絶対的思惟とみることはできません。したがって観念が思惟するものとしての精神が形成するその概念であるのなら,観念もまた思惟の様態でなければなりません。

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