僕は十全な認識への意欲が事物を混乱して認識することを起成原因causa efficiensとして人間の精神mens humanaのうちに発生するということは否定しますが,事物を混乱して認識することが十全な認識の契機となり得るということは部分的には否定しません。一方,田島正樹が『スピノザという暗号』で主張している,十全な観念idea adaequataと混乱した観念idea inadaequataをパズルのピースとして喩えることにはまったく賛同できません。
もし田島のいうことが成立するとすれば,無限知性intellectus infinitusのうちにある個々の観念を,無限知性のうちでみるか,個々の観念としてみるかという観点に立つ場合です。第二部定理九から分かるように,どんな個物res singularisの観念でもほかの個物の観念を原因として発生するのですから,もし原因の観念と切断された観念があるならそれは混乱しています。ですがそれをパズルのピースに見立て,無限知性のうちのその観念があるべき部分に嵌めれば,それは十全な観念になるでしょう。おそらく第二部定理三六はそういう主旨のことをいいたいのであって,そう解する限り,確かに同じひとつのピースが,十全adaequatumであったり混乱していたりするということはできます。
とはいえ,第二部定理七系の意味から明らかなように,混乱した観念は,それがあるといわれるなら,人間の精神のような,有限な知性のうちにのみあるのです。そして人間の精神のうちにあるパズルのピースとみるなら,同じピースであるとみることはできません。第四部定理一は,明らかにXの十全な観念とXの混乱した観念が同じ人間の精神のうちに同時に存在し得るということを示唆しています。したがってそれは同じピースであるわけではなく,異なったふたつのピースとみなければならないからです。
第二部定理一一系がいうように,人間の精神は無限知性の一部です。ですが無限知性に対して成立する比喩が,人間の精神にも成立するわけではないのです。無限知性のうちにあるのと同じピースと,他との関連性を欠いた,もはやパズルの一部分とさえいえないピースが,人間の精神のうちにはあるとみなせます。前者は唯一のピースですが,後者に至っては同じXのピースでも,数多くのXのピースがあるというべきでしょう。
10月2日が通院ということは前もって分かっていました。ですから僕としてはこの日の手術は避けてほしいという希望がありました。ただ執刀医の都合もありますし,時間的にも手術の開始は診察の前で,診察が終わっても手術は終了していないであろうということ,さらに手術なので家族がいなければならないのですが,病院の中にいるならそれでいいという先方の了承を得ることができましたので,この日の手術に踏み切りました。何しろ腸閉塞はいつ発症するか分からないものですから,できるのであれば手術は早い方がよく,最も早い日程を組むとこの日ということだったのです。
病院に着いたのは11時25分ごろです。まず保険証確認に向いました。これはいつもと同じなのですが,9月に保険証が新しくなっていました。この場合はコピーを取るというのがこれまでの慣例であったように思うのですが,この日はそれを求められませんでした。コピーを取っていたのは僕の記憶違いかとも思いましたが,そうではなく,取らなくてよいようになったようです。
まず僕の通院の予約票を所定の機械から出し,中央検査室に向いました。この日は採血を待っている患者がいませんでした。なのですぐに採血をすることができ,注射針の処理をしてから採尿。そしてそのまま母の病室に向いました。昨日,僕たちが面談を終えて帰った後,父のふたつ上の兄とひとつ上の兄がそれぞれ夫婦で見舞いに来てくれたようです。これはひとつ上の兄の奥さんには,事情を話しておいたためです。その時点で入院や手術の日程も決まっていましたから,みなと赤十字病院に入院しているということも知っていたのです。
12時35分ごろに担当の看護師が母の病室にやってきて,僕たちは手術室へ向いました。これは母も含めて徒歩,といっても7階から手術室のある3階までは専用のエレベーターを使うわけですが,ベッドで移動するわけではなく徒歩での移動でした。そして手術室の入口で僕は母と別れました。
このとき,僕が母の肩と背中を軽く叩いて,それが心強かったと後に母はいっています。僕はそれは無意識的にしたことで,そのようなことをしたことは覚えていませんでした。
もし田島のいうことが成立するとすれば,無限知性intellectus infinitusのうちにある個々の観念を,無限知性のうちでみるか,個々の観念としてみるかという観点に立つ場合です。第二部定理九から分かるように,どんな個物res singularisの観念でもほかの個物の観念を原因として発生するのですから,もし原因の観念と切断された観念があるならそれは混乱しています。ですがそれをパズルのピースに見立て,無限知性のうちのその観念があるべき部分に嵌めれば,それは十全な観念になるでしょう。おそらく第二部定理三六はそういう主旨のことをいいたいのであって,そう解する限り,確かに同じひとつのピースが,十全adaequatumであったり混乱していたりするということはできます。
とはいえ,第二部定理七系の意味から明らかなように,混乱した観念は,それがあるといわれるなら,人間の精神のような,有限な知性のうちにのみあるのです。そして人間の精神のうちにあるパズルのピースとみるなら,同じピースであるとみることはできません。第四部定理一は,明らかにXの十全な観念とXの混乱した観念が同じ人間の精神のうちに同時に存在し得るということを示唆しています。したがってそれは同じピースであるわけではなく,異なったふたつのピースとみなければならないからです。
第二部定理一一系がいうように,人間の精神は無限知性の一部です。ですが無限知性に対して成立する比喩が,人間の精神にも成立するわけではないのです。無限知性のうちにあるのと同じピースと,他との関連性を欠いた,もはやパズルの一部分とさえいえないピースが,人間の精神のうちにはあるとみなせます。前者は唯一のピースですが,後者に至っては同じXのピースでも,数多くのXのピースがあるというべきでしょう。
10月2日が通院ということは前もって分かっていました。ですから僕としてはこの日の手術は避けてほしいという希望がありました。ただ執刀医の都合もありますし,時間的にも手術の開始は診察の前で,診察が終わっても手術は終了していないであろうということ,さらに手術なので家族がいなければならないのですが,病院の中にいるならそれでいいという先方の了承を得ることができましたので,この日の手術に踏み切りました。何しろ腸閉塞はいつ発症するか分からないものですから,できるのであれば手術は早い方がよく,最も早い日程を組むとこの日ということだったのです。
病院に着いたのは11時25分ごろです。まず保険証確認に向いました。これはいつもと同じなのですが,9月に保険証が新しくなっていました。この場合はコピーを取るというのがこれまでの慣例であったように思うのですが,この日はそれを求められませんでした。コピーを取っていたのは僕の記憶違いかとも思いましたが,そうではなく,取らなくてよいようになったようです。
まず僕の通院の予約票を所定の機械から出し,中央検査室に向いました。この日は採血を待っている患者がいませんでした。なのですぐに採血をすることができ,注射針の処理をしてから採尿。そしてそのまま母の病室に向いました。昨日,僕たちが面談を終えて帰った後,父のふたつ上の兄とひとつ上の兄がそれぞれ夫婦で見舞いに来てくれたようです。これはひとつ上の兄の奥さんには,事情を話しておいたためです。その時点で入院や手術の日程も決まっていましたから,みなと赤十字病院に入院しているということも知っていたのです。
12時35分ごろに担当の看護師が母の病室にやってきて,僕たちは手術室へ向いました。これは母も含めて徒歩,といっても7階から手術室のある3階までは専用のエレベーターを使うわけですが,ベッドで移動するわけではなく徒歩での移動でした。そして手術室の入口で僕は母と別れました。
このとき,僕が母の肩と背中を軽く叩いて,それが心強かったと後に母はいっています。僕はそれは無意識的にしたことで,そのようなことをしたことは覚えていませんでした。
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