スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&無能力の表出

2018-01-04 19:09:35 | 将棋
 12月27日に指された第43期棋王戦挑戦者決定戦変則二番勝負第二局。
 振駒で黒沢怜生五段の先手となり5筋位取り中飛車から穴熊。永瀬拓矢七段も居飛車穴熊に組み相穴熊の対抗形に。手を殺し合うかのような中盤戦でしたが,後手が少しずつポイントを稼いでいたようです。
                                     
 後手が穴熊のハッチを閉めた局面。ここで☗4七飛と寄りましたがこれは小さなミスで,☗5七飛としておくべきだったようです。
 チャンスとみた後手が決戦に持ち込みます。まず☖5五金。これに対して☗4一飛成とできないといけない筈ですが無理があるようで☗7七角と自重。すかさず☖4六歩と飛車先を止めながら拠点になりそうな歩を打ちました。
 先手はここで☗5七飛と寄りましたが☖5四飛とされ☗3五歩のときに☖5六金と全面的な戦いに持ち込まれました。ここから☗3三角成☖同金☗3七飛は先手としては仕方がないところに思えます。
 このときに☖9二角と遠見の角を打ったのが攻めを繋げる好手。☗4八歩と受けても☖4七歩成☗同歩☖4六歩があり,また☗3六角と受けておくのは有力そうですが☖4四飛と数を足され☗4八歩と受けたときに☖5四歩と角成を受けてから前述の手順を狙われて先手が困るようです。よって☗3四歩☖同金☗4三角と攻め合いましたが☖4七歩成とと金ができました。
                                     
 先手玉の方が固いですが,相穴熊は先にと金で攻めることができれば十分です。第2図はすでに大勢が決している局面なのかもしれません。
 永瀬七段が勝って挑戦者に。2016年の棋聖戦以来2度目のタイトル戦出場。第一局は来月12日です。

 他人の不幸を喜んでいる自分を表象したからといって,現実的に存在するすべての人間が自分の無能力impotentiaを感じるわけではありません。つまり第三部定理五五は,現実的に存在する人間が他人の不幸を喜んでいる自分自身を表象した場合に必然的にnecessario妥当する定理Propositioではありません。ですが,他人の不幸を喜ぶということは確かに喜んでいる人間の無能力の表出なので,この定理が妥当する場合が生じ得ることは明らかでしょう。このとき,その人間は,当初は喜びlaetitiaであった感情affectusが悲しみtristitiaという反対感情に変化することになります。いい換えれば善bonumとして肯定していた事柄が悪malumとして否定されるべき事柄になるのです。これは人間の多様性に対する肯定affirmatioおよび否定negatioとは直接的に関係しないかもしれませんが,単純にある人間を表象するimaginariことで喜びを感じているからといって,直ちにその人間のことを肯定していると結論するわけにはいかないということの論証Demonstratioとしては成立しているでしょう。
 なお,他人の不幸を喜ぶということが無能力の表出であるということは,自由の人homo liberは確実に認識します。ただ,感情の抑制は理性ratioそれ自体によって可能であるわけではないので,たとえ基本的に自由の人といい得るような人であっても,他人の不幸を喜ぶという場合が絶対に生じないというものではありません。ただ,自由の人はそうした受動感情を理性的に判別することができる人という意味を含むので,そのような喜びのことをそれ自体で否定するnegareでしょう。ただ,人間の多様性との関連でいうなら,人間は理性に従っている限りでは,他面からいえば自由の人である限りにおいては,その多様性を全面的に肯定し,部分的にさえ否定することはないということをすでに明らかにしているので,このような感情との関係で説明する必要は本来的にはありません。
 今度は逆の場合を考えてみます。そしておそらくこちらの場合の方が重要です。というのは,ある人間を表象して悲しみを感じるとき,それはその人間の否定すなわち多様性の部分的否定ですが,それが喜びに変じるのであれば,事実上は人間の多様性を否定していない,つまり排他主義者とはみなせないということになるからです。

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