『スピノザ『神学政治論』を読む』で主張されているように,社会契約と神学の間で,敬虔pietasということの整合性を保たせるため,スピノザがいう社会契約の考え方が発生したのかについては,僕は何ともいえません。ただ,そこで上野が主張していることのうち,これだけは確かだと僕には思える事柄があります。
上野の論理でいけば,スピノザ式の社会契約は,実際に人が居住する社会と主体的に結んだ契約ではあり得ないことになります。むしろこの場合に社会契約は,そういう実情に関係なく,単に神学者を政治から排除するために発明されたものとなっているからです。僕はその目的の説明については判断しかねますが,スピノザの社会契約がいわば実情から離れたものである,哲学的にいい換えれば実在的有ではないという点については正しいと考えています。
社会契約と契約が同じようなものでなければならないというのがスピノザの基本的な考え方だったと僕は解しています。しかし普通の契約と同じように結ばれた社会契約は存在しません。人は好むと好まざるとに関係なく,社会契約を締結した存在として産まれてくるからです。なので普通の契約は実在的有であるといえますが,社会契約をそうした契約と同じ契約とみなす限りにおいて,社会契約が実在的有であることはできません。
したがって,スピノザの政治論における社会契約は,実際に人びとが結んだ実在的有について語っているのではなく,形成されている社会や国家を合理的に説明するために語られていると僕は考えます。上野の理論はそのようになっていて,その点は正しいと僕は考えるのです。
哲学的にいえば社会契約は実在的有ではなく理性の有entia rationisにすぎません。そのために『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』でも『国家論Tractatus Politicus』でも,具体的に政治のあり方を説明する場面では,社会契約の考え方が後退するのではないでしょうか。理性の有は有ではないので,具体的な有を説明するためには役立たないからです。
『フェルメールとスピノザ』に示されているマルタンによるスピノザの哲学とフェルメールの絵画の間の公式をスピノザは認めないと僕が考えるのは,スピノザは絵画がそれ自体で実在的有であると認めていないと思われるからです。少なくとも,ある形相的有の観念がその形相的事物を離れて思惟の様態として実在的であるということ,すなわち客観的有であるということと同じように,絵画が描かれた対象を離れた実在的有であることをスピノザは認めないということは,僕は確実であるといいきります。根拠はいくつかあげられますが,ここでは十全な観念と混乱した観念の相違について言及している第二部定理四三備考を示します。
スピノザはこの備考の冒頭部分で,第二部定理四三は証明するまでもなく明白でなければならないとしています。そしてその理由を以下のように説明しています。
「真の観念を有するとは物を完全にあるいは最も善く認識するという意味にほかならないから。実際これについては何びとも疑うことができない。観念が画板の上の画のように無言(mutum instar picturae in tabula)のものであって思惟様態すなわち認識作用そのものではないと信じない限りは」。
これと同じようないい回しは,第二部定理四八備考や第二部定理四九備考にも出ています。前者では思惟を絵画に堕さしめないようにしてほしいといわれていて,後者では,あるものについて何ら類似した表象像を形成できない思惟様態は観念ではなく想像物と信じ込んでいる人びとについて,そうした人は観念をまるでキャンバスに描かれた無言の絵のように思っているといわれています。いずれも観念が思惟の様態の実在的有であるということを示すために,観念は絵画のようなものではないという比喩が用いられているのはお分かりいただけるでしょう。
絵画が描かれた対象を離れて実在的であるということをスピノザは認めないということは,こういったいい方から明白であるといわなければなりません。とくに観念が観念されたものを離れて実在的であるようには絵画は実在的でないとスピノザが解していることは一目瞭然といっていいでしょう。だからマルタンの公式をスピノザはきっと否定するのです。
上野の論理でいけば,スピノザ式の社会契約は,実際に人が居住する社会と主体的に結んだ契約ではあり得ないことになります。むしろこの場合に社会契約は,そういう実情に関係なく,単に神学者を政治から排除するために発明されたものとなっているからです。僕はその目的の説明については判断しかねますが,スピノザの社会契約がいわば実情から離れたものである,哲学的にいい換えれば実在的有ではないという点については正しいと考えています。
社会契約と契約が同じようなものでなければならないというのがスピノザの基本的な考え方だったと僕は解しています。しかし普通の契約と同じように結ばれた社会契約は存在しません。人は好むと好まざるとに関係なく,社会契約を締結した存在として産まれてくるからです。なので普通の契約は実在的有であるといえますが,社会契約をそうした契約と同じ契約とみなす限りにおいて,社会契約が実在的有であることはできません。
したがって,スピノザの政治論における社会契約は,実際に人びとが結んだ実在的有について語っているのではなく,形成されている社会や国家を合理的に説明するために語られていると僕は考えます。上野の理論はそのようになっていて,その点は正しいと僕は考えるのです。
哲学的にいえば社会契約は実在的有ではなく理性の有entia rationisにすぎません。そのために『神学・政治論Tractatus Theologico-Politicus』でも『国家論Tractatus Politicus』でも,具体的に政治のあり方を説明する場面では,社会契約の考え方が後退するのではないでしょうか。理性の有は有ではないので,具体的な有を説明するためには役立たないからです。
『フェルメールとスピノザ』に示されているマルタンによるスピノザの哲学とフェルメールの絵画の間の公式をスピノザは認めないと僕が考えるのは,スピノザは絵画がそれ自体で実在的有であると認めていないと思われるからです。少なくとも,ある形相的有の観念がその形相的事物を離れて思惟の様態として実在的であるということ,すなわち客観的有であるということと同じように,絵画が描かれた対象を離れた実在的有であることをスピノザは認めないということは,僕は確実であるといいきります。根拠はいくつかあげられますが,ここでは十全な観念と混乱した観念の相違について言及している第二部定理四三備考を示します。
スピノザはこの備考の冒頭部分で,第二部定理四三は証明するまでもなく明白でなければならないとしています。そしてその理由を以下のように説明しています。
「真の観念を有するとは物を完全にあるいは最も善く認識するという意味にほかならないから。実際これについては何びとも疑うことができない。観念が画板の上の画のように無言(mutum instar picturae in tabula)のものであって思惟様態すなわち認識作用そのものではないと信じない限りは」。
これと同じようないい回しは,第二部定理四八備考や第二部定理四九備考にも出ています。前者では思惟を絵画に堕さしめないようにしてほしいといわれていて,後者では,あるものについて何ら類似した表象像を形成できない思惟様態は観念ではなく想像物と信じ込んでいる人びとについて,そうした人は観念をまるでキャンバスに描かれた無言の絵のように思っているといわれています。いずれも観念が思惟の様態の実在的有であるということを示すために,観念は絵画のようなものではないという比喩が用いられているのはお分かりいただけるでしょう。
絵画が描かれた対象を離れて実在的であるということをスピノザは認めないということは,こういったいい方から明白であるといわなければなりません。とくに観念が観念されたものを離れて実在的であるようには絵画は実在的でないとスピノザが解していることは一目瞭然といっていいでしょう。だからマルタンの公式をスピノザはきっと否定するのです。
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