スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

社会契約と神学&観念の個別性

2016-03-12 19:25:42 | 哲学
 社会契約と契約が同じようなものでなければならないとしたら,一般的な契約を結ぶように社会契約を結んだ人間は,実は現実的には存在しないということになってしまいます。一方,『国家論』であれ『神学・政治論』であれ,政治理論についてスピノザが語るとき,その文脈は社会契約という概念を排除しては理解できないものになっているのも事実です。ここには大きな齟齬が発生しているように思えます。これについてはどのように考えればいいのでしょうか。
                                    
 『スピノザ『神学政治論』を読む』の第四章で,上野修がこれについて僕には解決策となるような考えを呈示しています。そこでは,スピノザの社会契約説というのは,政治学や哲学との関連でよりも,神学との関連で重要であったと結論付けられています。
 聖書は服従を教えることによって人を敬虔にするというのがスピノザの考え方でした。このとき,何が敬虔であって何が敬虔ではないかすなわち無神論者であるかが,神学から切断された政治学の内部においても有効であるための論理的条件を再構成していくと,スピノザが主張するような社会契約が帰結するというのが上野の解釈です。その主張自体が正しいかどうかはここでは判定しません。ただ,スピノザは神学者が政治権力に介入してくることにはとても否定的であったので,政治論についてスピノザが何を意図するかという観点から考えると,この主張は非常に強力です。というのはこうして帰結してくるような社会契約では,神学者の指導が存在しなくても,聖書の敬虔の教えは無効化することがないからです。いい換えれば政治に神学者が介入する必要性が排除されているからです。
 スピノザの聖書解釈の方法の最大の特徴は,聖書は真理を教えないということでした。それに倣えば,社会契約は国家の真理を教えないということになるのでしょう。

 概念notioが思惟の様態として一般的なものを意味するのに対して,観念ideaといわれる場合には個別的なものを意味するであろうということは,たとえば第一部公理六から明らかだと僕は思います。というのはこの公理で観念と一致しなければならないとされている観念されたものideatumというのは,個別的なものを意味するであろうからです。もちろん解釈のしようによっては,それが一般的なものを含んでいると考えることは可能かもしれませんが,少なくともそこに個別的なものが含まれないと解することは不可能です。とくにスピノザは共通概念notiones communesは個物の本性を表現しないといっているのですから,もし個物の本性を表現する思惟の様態が存在するなら,それは概念notioではなく観念といわれなければならないことは確実です。そしてそういう思惟の様態が存在することは,第二部定理三からも第二部定理七系からも明白だといわなければなりません。そしてそのどちらでもスピノザは観念という語句を使用しています。したがって概念notioが一般的な思惟の様態を意味し,観念は個別的な思惟の様態を示すとしている「観念と表象」ならびに『概念と個別性』の見解に僕は同意します。
 ではなぜ共通概念notiones communesは概念notioであって観念,共通観念ではないのでしょうか。他面からいえばなぜこの思惟の様態は,その十全性よりも一般性の方が重視されなければならなかったのでしょうか。先に結論だけいっておくと,おそらくこれはスピノザが示した三種類の認識に対応させるためだったと僕は考えています。
 個別的なものとしての思惟の様態である観念は,原則的に真なるものであるという解釈が成り立ちます。これは第二部定理三二から自明であるといってよいでしょう。第一部定理一五からして,神と関係しない観念が存在すると主張することはできないからです。
 しかし,もしある人間の精神の現実的有を構成している観念だけに着目したら,そのすべてが真の観念であるということはできません。個別的だから直ちに真であるわけではないのです。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする