宇奈月温泉で指された第39期棋王戦五番勝負第三局。
渡辺明棋王の先手で三浦弘行九段の横歩取り☖8四飛。後手の中住いに対して先手が☗6八玉&☗3八銀と組む珍しい形。後手から攻める将棋に進みました。
歩を打って銀を僻地に追いやった局面。ここから☖4五桂と本格的な攻撃を開始。☗4六銀はこの一手。後手は☖2七歩と叩いて☗同飛に☖3八角と激しい手順を選択。☗2四飛と逃げたので☖4九角成☗3五銀までは一本道。☖4八馬は追撃の一手ですが☗4六銀で受かります。後手としてはここまで来てしまうと立ち止まれないので☖5七桂成☗同銀☖5八金と攻めていくことになりました。
ただ,この攻めは重くて形勢を損ねたのではないかと思います。ちょっとやり過ぎたという一局であったのではないでしょうか。
3連勝で渡辺棋王が防衛。第38期に続く2期連続通算でも2期目の棋王位になります。
デカルトRené Descartesは物体的実体substantia corporeaが実在するということは認めています。スピノザの場合,デカルトとは違っていて,それ単独の実体として物体的実体が実在することは認めません。ただ,物体的実体をスピノザの哲学に翻訳するならばそれは延長の属性Extensionis attributumとなるのであって,それが実体の属性として実在するということは認めています。第一部定理一四は,実在する実体が神Deusだけであることを示していますから,この部分をひとつに纏めるなら,物体的実体といわれているのは,実体としては神なのであり,物体的実体の本性essentiaを構成すると考えられる属性である延長の属性は,神の本性を構成するということになります。
このことは,単に『エチカ』の公理系のみに注目するならば,第二部定理二から明白であるということが可能です。ただ,現在の考察の状況からすれば,これだけでは十分であるとはいえません。というのは,延長が神の属性であるかどうかを問う以前の問題として,確かに延長の属性,デカルトの哲学に戻せば物体的実体が実在するということを,『エチカ』の公理系の内部で証明しておかなければならないからです。
第二部公理五は,人間の精神mens humanaが物体を認識するcognoscereという意味を含みます。そこでもしも精神が認識しているのが物体的実体であるならば,それ以上の証明Demonstratioは不要です。しかしそれが物体的実体でないとしたら,まず第一部公理一の意味により,物体的様態,本来は物体は様態modiですからこれは奇妙な言い回しですが,物体的実体ではないという意味でそれは物体的様態であるということになります。すると第一部定理一により,いかなる様態の存在にも,その本性naturaの上で,実体の存在existentiaが「先立つ」のでなければなりません。したがって,もしもここでいう物体的様態というものが実在するならば,物体的実体が実在しているのでなければならないということになります。つまり人間の精神が物体を認識するということのうちに,デカルトの哲学でいう物体的実体の実在が確証されているということになるのです。
第一部定理一三系というのは,このような実在的条件のもとに,物体的実体の分割不可能性を主張していると解する必要があります。
渡辺明棋王の先手で三浦弘行九段の横歩取り☖8四飛。後手の中住いに対して先手が☗6八玉&☗3八銀と組む珍しい形。後手から攻める将棋に進みました。
歩を打って銀を僻地に追いやった局面。ここから☖4五桂と本格的な攻撃を開始。☗4六銀はこの一手。後手は☖2七歩と叩いて☗同飛に☖3八角と激しい手順を選択。☗2四飛と逃げたので☖4九角成☗3五銀までは一本道。☖4八馬は追撃の一手ですが☗4六銀で受かります。後手としてはここまで来てしまうと立ち止まれないので☖5七桂成☗同銀☖5八金と攻めていくことになりました。
ただ,この攻めは重くて形勢を損ねたのではないかと思います。ちょっとやり過ぎたという一局であったのではないでしょうか。
3連勝で渡辺棋王が防衛。第38期に続く2期連続通算でも2期目の棋王位になります。
デカルトRené Descartesは物体的実体substantia corporeaが実在するということは認めています。スピノザの場合,デカルトとは違っていて,それ単独の実体として物体的実体が実在することは認めません。ただ,物体的実体をスピノザの哲学に翻訳するならばそれは延長の属性Extensionis attributumとなるのであって,それが実体の属性として実在するということは認めています。第一部定理一四は,実在する実体が神Deusだけであることを示していますから,この部分をひとつに纏めるなら,物体的実体といわれているのは,実体としては神なのであり,物体的実体の本性essentiaを構成すると考えられる属性である延長の属性は,神の本性を構成するということになります。
このことは,単に『エチカ』の公理系のみに注目するならば,第二部定理二から明白であるということが可能です。ただ,現在の考察の状況からすれば,これだけでは十分であるとはいえません。というのは,延長が神の属性であるかどうかを問う以前の問題として,確かに延長の属性,デカルトの哲学に戻せば物体的実体が実在するということを,『エチカ』の公理系の内部で証明しておかなければならないからです。
第二部公理五は,人間の精神mens humanaが物体を認識するcognoscereという意味を含みます。そこでもしも精神が認識しているのが物体的実体であるならば,それ以上の証明Demonstratioは不要です。しかしそれが物体的実体でないとしたら,まず第一部公理一の意味により,物体的様態,本来は物体は様態modiですからこれは奇妙な言い回しですが,物体的実体ではないという意味でそれは物体的様態であるということになります。すると第一部定理一により,いかなる様態の存在にも,その本性naturaの上で,実体の存在existentiaが「先立つ」のでなければなりません。したがって,もしもここでいう物体的様態というものが実在するならば,物体的実体が実在しているのでなければならないということになります。つまり人間の精神が物体を認識するということのうちに,デカルトの哲学でいう物体的実体の実在が確証されているということになるのです。
第一部定理一三系というのは,このような実在的条件のもとに,物体的実体の分割不可能性を主張していると解する必要があります。
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