スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王座戦&能動と受動

2023-09-16 19:31:18 | 将棋
 12日に指された第71期王座戦五番勝負第二局。
 永瀬拓矢王座の先手で角換わり。後手の藤井聡太竜王・名人が右玉に構えて先攻するという将棋になりました。
                                        
 勝敗を大きく分けたポイントは第1図だったとされています。実戦は☗4一金と打ったのですが,☖6二銀☗3一金の飛車角交換になった後,☖4三玉と逃げて入玉が見込める形になった後手がよくなりました。
 なのでここでは☗4四馬と引くのが有力だったようです。☖3三金☗5四馬☖4三銀引☗4五馬と進みます。
                                        
 第2図は後手玉が固くて手番なのですが,香車取りと桂馬取りが掛かっていて,香車を受けるために金を使ったために戦力が不足。入玉も不可能ということで,勝つまでには時間を要しても,先手が有望な局面でした。
 藤井竜王・名人が勝って1勝1敗。第三局は27日に指される予定です。

 僕が修正した第二部定理三二の意味というのは,たとえば人間の精神mens humanaのうちに誤った観念idea falsaがあるのだとしても,その観念は神Deusと関係する限りでは真の観念idea veraなので,たとえば無限知性intellectus infinitusのうちにあるとみられるのであれば真の観念であるということでした。
 このとき,これを単に観念としてみるのであれば,神と関係している方が真の観念で,神と関係していない方が誤った観念であるということです。ただ,神と関係させるのは知性が関係させるのですから,知性がその観念を認識するcognoscereという立場からも考えることができます。このとき,第三部定理一により,知性が真の観念を有するというのはその知性の能動actioであって,知性が誤った観念を有するというのはその知性の受動passioを意味します。よって,知性がある観念を神と関係づけるというのはその知性の能動を意味するのに対し,知性がある観念を神と関係づけない,他面からいうと,ある知性が神と関係づけることができない観念を有するということは,その知性の受動を意味することになります。つまり,神と関係するということは,知性の能動と受動によっても考えることができるのです。
 『エチカ』は第二部定理三二をターニングポイントとして,その主題が誤った観念から真の観念へ移行するのでした。これはつまり,知性の受動から知性の能動へと移行するということでもあるのです。よって,観念が神に関係する限りで真であるということが,観念からみたときに受動形であるとみられるのは,あまり適当ではないということができます。この定理Propositioは真の観念について語っているのですから,知性が観念を有するという観点からみるのであれば,それは能動であるといわなければならないからです。
 河井はこの観点から畠中のこの部分の訳業を問題視しています。したがって,ここに至る過程は河井と僕とでは異なっているのですが,確かにこの定理の文言が受動形を意味しているのであるとすれば,それはあまり好ましくないと僕は考えます。つまり,河井はここに至るまでは僕には納得することができないことを主張しているのですが,最終的に結論として出そうとしている点については僕も河井に同意します。
コメント
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