スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

成功体験&正確な円

2023-09-06 19:01:59 | 歌・小説
 先生はKの人間らしさを取り戻すことを目的としてKを自分と同居させました。その人間性の回復の中には,恋愛感情とか性的欲望といったものも含まれていたと僕は考えます。なぜならそうしたものをこの時点での先生は,すでにお嬢さんに対して抱いていたと僕は解するからです。
                                        
 Kを同居させることによって,先生のお嬢さんに対する恋愛感情とか性的欲望といったものは,増大したと僕は考えます。これは感情の模倣affectum imitatioというものが先生には生じたであろうからです。しかし,Kを同居させなければ先生はお嬢さんに恋愛感情を抱かなかったのかといえば,そんなことはありません。むしろKとの同居が始まる前から,先生にはお嬢さんに対するそうした感情があったのだと僕は解します。たとえば,お嬢さんの美貌に関連するような記述は,Kとの同居が始まる以前のものであって,それは先生がそのことをその時点で意識はしていたがゆえの記述でしょう。また,戸棚の中に先生の着物とお嬢さんの反物が重ねておいてあったというような記述は,明らかにその時点で先生がお嬢さんとの結婚を意識していたことを匂わせるものであって,おそらくその前提にはお嬢さんへの恋愛感情や,お嬢さんに対して感じていた性的魅力が反映されているがゆえのものであったといえるでしょう。
 だから,Kがを開けてお嬢さんが好きだという告白を先生にしたとき,先生はKが自分と同様にお嬢さんを好きなのだと解したと僕は考えます。つまりKはお嬢さんに対して恋愛感情を抱き,また性的欲望を抱いているのだと先生は認識したのだと思います。つまり,天罰の条件というものは,この時点で先生のうちで充足していたのだと解するのです。
 ある意味ではこの件は,先生の成功体験です。Kの人間らしさを回復させるために同居したら,確かにKの人間性は回復したというように読めるからです。ただその成功体験は,同時に先生の人生にとっては重大な失敗体験のひとつでもあったといえるでしょう。

 さらに僕は河井が示していることは,別の観点からも適切性を欠いているように思えます。これは河井の主張に対する適切性ではなく,主張自体のスピノザの哲学に対する適切性です。
 河井の主張では,コンパスを用いて円を描くとき,その中心がずれてしまって歪んだ円が描かれるとき,中心がずれるということは,歪んだ円が描かれることに対して十全な原因causa adaequataをなすので,中心がずれてしまった原因,これは具体的な事象としてはそれぞれでしょうが,そのときに中心がずれてしまった原因が認識されるなら,歪んだ円の観念ideaも真の観念idea veraになるというようになっています。このことそのものが本当に正しいかということについて僕は疑問に感じますが,そのことについては問いません。このことは河井がひとつの事例として出しているだけで,この事例自体は河井がいわんとしていること,すなわち僕が第二部定理三二の意味を修正する以前に示した河井の主張の事例として適合しているからです。
 ただ,こうしたことを事例として出すことができるのは,中心がずれるという事象が生じるからといえます。だから,中心がずれることの原因となったことの真の認識cognitioが,歪んだ円の真の観念のために必要となってくるのです。したがって,もしもそうしたことが生じないのであれば,そうした原因の認識は必要とされないでしょう。その場合はそのこと自体で直ちに事物が真に認識されるといわなければならないことになるのです。
 したがって,コンパスを用いて正確な円が描かれるならば,そのコンパスの運動motus,実際にはコンパスはそれ自体で運動するわけではなく,コンパスが運動する原因というのがまたあるのですが,そのことは無視するとして,このコンパスの運動が描かれた正確な円の十全な原因ですから,そのことが認識されるだけで円の真の観念が発生すると,河井は主張しなければならなくなると考えられます。しかしこのような考え方は,スピノザの哲学において事物が真に認識されるということの事例として適切ではないと僕は考えます。このようにして円が描かれるということと,円が真に認識されるということとの間には実際は何の関係もないからです。
コメント
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