15日に名古屋で指された第7期叡王戦五番勝負第二局。
出口若武六段の先手で相掛り。この将棋は後手の藤井聡太叡王が有利という判定をAIは出していましたが,馬を切っていく順に後手は成算がもてなかったようで千日手となりました。
先手と後手が入れ替わっての将棋も相掛りになりました。
第1図で後手は☖2二銀と上がりました。これは仕方がない手だと思います。対して先手は☗2一角と打ちましたが,この手を後手はうっかりしていたそうです。この手はある筋なので知らなかったとはさすがに考えにくいと思います。形によって成立したりしなかったりする手なので,第1図で☖2二銀と上がると成立するということを失念していたという意味でしょう。
ここから☖2三銀☗3二角成☖2四銀と進みました。別の変化もあり得ましたが,先手はこれでよいとみたのでしょう。☗8二歩と打ちました。
ここで☖9三桂と逃げたので,☗8一歩成☖同銀☗4四金で先手の優位がはっきりしました。第2図では桂損を甘受して☖8六飛としておけば,まだ難しかったようです。
藤井叡王が連勝。第三局は24日に指される予定です。先手は藤井叡王です。
自分が与えた害悪あるいは与えるであろう害悪の観念ideaを原因causaとして伴った悲しみtristitiaとしての良心の呵責conscientiae morsusと,自分が与えた利益の観念を原因として伴った喜びlaetitiaとしての歓喜gaudiumは,ともに原則的には推奨される感情affectusであり,例外として推奨されない場合もあります。ただ僕たちは,自分が害悪を与えたあるいは与えると表象するimaginariことは稀で,自分が利益を与えたあるいは与えると表象することはそれよりしばしば生じます。よって僕たちは良心の呵責を感じることは稀で,歓喜はそれよりもしばしば感じるのです。ですから発生する例外は,良心の呵責よりも歓喜の場合の方が多くなります。なので,例外があるということを,割合として考えるなら同じとみなしても構いませんが,発生する数で考える場合には,同じとみなしてはいけません。その場合は,歓喜が推奨されない場合は,良心の呵責が推奨されない場合よりも多いとみておくべきなのです。
そして同時に,このことは銘記しておくべきことだと僕は思います。とりわけ自由の人homo liberとして生きていくことを目指す場合には,よく覚えておくべきことでしょう。そしてそれは,単に僕たちは良心の呵責を感じることは稀で,歓喜を感じることはそれよりしばしばであるということだけを覚えておけばよいというものではありません。僕たちは害悪を与えたあるいは与えるということを表象するのは稀で,利益を与えたあるいは与えると表象することはそれよりもずっと多いということを覚えておくべきなのです。他面からいえば,僕たちは実際には利益を与えてもいないのに利益を与えたと表象することがしばしばあるのであって,実際には害悪を与えているのに害悪を与えたとは表象しない,あるいは同じことですが害悪を与えていないと表象することもしばしばあるのです。つまり僕たちは,自分がそのように認識しているほどは他人に利益を与えているわけではありませんし,自分が思っているよりはずっと多く他人に害悪を与えているのです。いい換えれば,僕たちは自分が思うほど他人を喜ばせているわけではありませんし,自分が思うよりはずっと他人を悲しませているのです。そしてそのために多くの争いも生じるのです。
出口若武六段の先手で相掛り。この将棋は後手の藤井聡太叡王が有利という判定をAIは出していましたが,馬を切っていく順に後手は成算がもてなかったようで千日手となりました。
先手と後手が入れ替わっての将棋も相掛りになりました。
第1図で後手は☖2二銀と上がりました。これは仕方がない手だと思います。対して先手は☗2一角と打ちましたが,この手を後手はうっかりしていたそうです。この手はある筋なので知らなかったとはさすがに考えにくいと思います。形によって成立したりしなかったりする手なので,第1図で☖2二銀と上がると成立するということを失念していたという意味でしょう。
ここから☖2三銀☗3二角成☖2四銀と進みました。別の変化もあり得ましたが,先手はこれでよいとみたのでしょう。☗8二歩と打ちました。
ここで☖9三桂と逃げたので,☗8一歩成☖同銀☗4四金で先手の優位がはっきりしました。第2図では桂損を甘受して☖8六飛としておけば,まだ難しかったようです。
藤井叡王が連勝。第三局は24日に指される予定です。先手は藤井叡王です。
自分が与えた害悪あるいは与えるであろう害悪の観念ideaを原因causaとして伴った悲しみtristitiaとしての良心の呵責conscientiae morsusと,自分が与えた利益の観念を原因として伴った喜びlaetitiaとしての歓喜gaudiumは,ともに原則的には推奨される感情affectusであり,例外として推奨されない場合もあります。ただ僕たちは,自分が害悪を与えたあるいは与えると表象するimaginariことは稀で,自分が利益を与えたあるいは与えると表象することはそれよりしばしば生じます。よって僕たちは良心の呵責を感じることは稀で,歓喜はそれよりもしばしば感じるのです。ですから発生する例外は,良心の呵責よりも歓喜の場合の方が多くなります。なので,例外があるということを,割合として考えるなら同じとみなしても構いませんが,発生する数で考える場合には,同じとみなしてはいけません。その場合は,歓喜が推奨されない場合は,良心の呵責が推奨されない場合よりも多いとみておくべきなのです。
そして同時に,このことは銘記しておくべきことだと僕は思います。とりわけ自由の人homo liberとして生きていくことを目指す場合には,よく覚えておくべきことでしょう。そしてそれは,単に僕たちは良心の呵責を感じることは稀で,歓喜を感じることはそれよりしばしばであるということだけを覚えておけばよいというものではありません。僕たちは害悪を与えたあるいは与えるということを表象するのは稀で,利益を与えたあるいは与えると表象することはそれよりもずっと多いということを覚えておくべきなのです。他面からいえば,僕たちは実際には利益を与えてもいないのに利益を与えたと表象することがしばしばあるのであって,実際には害悪を与えているのに害悪を与えたとは表象しない,あるいは同じことですが害悪を与えていないと表象することもしばしばあるのです。つまり僕たちは,自分がそのように認識しているほどは他人に利益を与えているわけではありませんし,自分が思っているよりはずっと多く他人に害悪を与えているのです。いい換えれば,僕たちは自分が思うほど他人を喜ばせているわけではありませんし,自分が思うよりはずっと他人を悲しませているのです。そしてそのために多くの争いも生じるのです。