第24回かきつばた記念。
ラプタスが逃げてピンシャンが2番手。3番手にイグナイターとヘリオス。5番手にサンロアノーク。6番手がタガノビューティーとカツゲキキトキトとワイドファラオ。9番手のインペリシャブルまではさほど差がなく続きました。3馬身差でミラクルシップ。11番手がエッシャー。離れた最後尾がサンマルティン。スローペースでした。
3コーナーの手前からピンシャンは苦しくなりました。道中で単独の3番手に上がっていたイグナイターが外から2番手。それより内を回ったヘリオスが3番手で,一番内を回ってきたタガノビューティーが4番手となり,直線はこの4頭の争い。一番外に進路を取ったイグナイターが内の3頭を競り落として優勝。ラプタスとイグナイターの間を突くことになったヘリオスが1馬身差の2着。逃げたラプタスが半馬身差の3着で最も内のタガノビューティーはクビ差で4着。
優勝したイグナイターは黒船賞からの連勝で重賞2勝目。このレースはその黒船賞から転戦してきた馬たちが有力。イグナイターは黒船賞と同じ斤量であったのに対し,2着だったヘリオスは斤量が1.5キロも増えていましたので,こちらが有力だろうと思っていました。最内枠からの発走は必ずしも有利ではなかったと思いますが,騎手の位置取りとコース取りがとても巧みであったという印象です。父はエスポワールシチー。Igniterは点火器。
騎乗した兵庫の田中学騎手は黒船賞以来の重賞3勝目。かきつばた記念は初勝利。管理している兵庫の新子雅司調教師は黒船賞以来の重賞5勝目。第16回以来8年ぶりのかきつばた記念2勝目。
現実的に存在するある人間が他人の悲しみtristitiaを模倣するとは,ある他人が悲しみを感じていると表象するimaginariことによって,自分も悲しみを感じるということです。このとき,悲しみを模倣した人間は,自分の悲しみの原因causaが他人の悲しみにあると認識するcognoscereことになります。現実的に存在する人間は,悲しみを忌避し,また悲しみを除去しようとするコナトゥスconatusを有しています。よって自分の悲しみの原因となっている他人の悲しみを除去しようとするのです。なお,こうした感情の模倣imitatio affectuumは,第三部定理二七により,フラットな場合も生じますが,第三部定理二一により,他人を愛している場合はなお強化されます。愛amorを感じている人間に対して悲しみの模倣が強化されるということは,逆にいえば憎んでいる相手に対しては弱くなります。それどころか第三部定理二三により,憎んでいる対象が悲しみを感じていると表象する場合は,喜びlaetitiaを感じます。現実的に存在する人間は喜びを希求するのですから,その喜びを促進しようとするでしょう。したがって,憎んでいる他人の悲しみを,なお強めることを希求します。このことからも,スピノザが憎しみodiumを全面的に否定することの一端が窺えます。憎しみは感情の模倣を弱める方向に作用する感情であり,このために他人を悲しみから救出するより,さらなる害悪を与えてより悲しませようとする感情なのです。
ここでひとつ,僕がかつて読んだ小説を題材にします。遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』という小説です。遠藤周作はクリスチャンであり,キリスト教が主題とされた小説を多く書いています。これは遠藤周作に限ったことではなく,一般にキリスト教作家全般にいえることだと僕は思いますが,そうした作家たちは,キリスト教を主題とせんがために,小説の中に壮大な虚構あるいは虚偽を創作するケースがあります。この関係から,キリスト教作家の作品については敬遠するという方も多くいるのだろうと僕は推測します。ただ,『わたしが・棄てた・女』に関していえば,キリスト教も主題となっていますが,ハンセン病も大きな主題となっていて,そうした虚構に関してはさほど気にせずに読むことができると思います。
ラプタスが逃げてピンシャンが2番手。3番手にイグナイターとヘリオス。5番手にサンロアノーク。6番手がタガノビューティーとカツゲキキトキトとワイドファラオ。9番手のインペリシャブルまではさほど差がなく続きました。3馬身差でミラクルシップ。11番手がエッシャー。離れた最後尾がサンマルティン。スローペースでした。
3コーナーの手前からピンシャンは苦しくなりました。道中で単独の3番手に上がっていたイグナイターが外から2番手。それより内を回ったヘリオスが3番手で,一番内を回ってきたタガノビューティーが4番手となり,直線はこの4頭の争い。一番外に進路を取ったイグナイターが内の3頭を競り落として優勝。ラプタスとイグナイターの間を突くことになったヘリオスが1馬身差の2着。逃げたラプタスが半馬身差の3着で最も内のタガノビューティーはクビ差で4着。
優勝したイグナイターは黒船賞からの連勝で重賞2勝目。このレースはその黒船賞から転戦してきた馬たちが有力。イグナイターは黒船賞と同じ斤量であったのに対し,2着だったヘリオスは斤量が1.5キロも増えていましたので,こちらが有力だろうと思っていました。最内枠からの発走は必ずしも有利ではなかったと思いますが,騎手の位置取りとコース取りがとても巧みであったという印象です。父はエスポワールシチー。Igniterは点火器。
騎乗した兵庫の田中学騎手は黒船賞以来の重賞3勝目。かきつばた記念は初勝利。管理している兵庫の新子雅司調教師は黒船賞以来の重賞5勝目。第16回以来8年ぶりのかきつばた記念2勝目。
現実的に存在するある人間が他人の悲しみtristitiaを模倣するとは,ある他人が悲しみを感じていると表象するimaginariことによって,自分も悲しみを感じるということです。このとき,悲しみを模倣した人間は,自分の悲しみの原因causaが他人の悲しみにあると認識するcognoscereことになります。現実的に存在する人間は,悲しみを忌避し,また悲しみを除去しようとするコナトゥスconatusを有しています。よって自分の悲しみの原因となっている他人の悲しみを除去しようとするのです。なお,こうした感情の模倣imitatio affectuumは,第三部定理二七により,フラットな場合も生じますが,第三部定理二一により,他人を愛している場合はなお強化されます。愛amorを感じている人間に対して悲しみの模倣が強化されるということは,逆にいえば憎んでいる相手に対しては弱くなります。それどころか第三部定理二三により,憎んでいる対象が悲しみを感じていると表象する場合は,喜びlaetitiaを感じます。現実的に存在する人間は喜びを希求するのですから,その喜びを促進しようとするでしょう。したがって,憎んでいる他人の悲しみを,なお強めることを希求します。このことからも,スピノザが憎しみodiumを全面的に否定することの一端が窺えます。憎しみは感情の模倣を弱める方向に作用する感情であり,このために他人を悲しみから救出するより,さらなる害悪を与えてより悲しませようとする感情なのです。
ここでひとつ,僕がかつて読んだ小説を題材にします。遠藤周作の『わたしが・棄てた・女』という小説です。遠藤周作はクリスチャンであり,キリスト教が主題とされた小説を多く書いています。これは遠藤周作に限ったことではなく,一般にキリスト教作家全般にいえることだと僕は思いますが,そうした作家たちは,キリスト教を主題とせんがために,小説の中に壮大な虚構あるいは虚偽を創作するケースがあります。この関係から,キリスト教作家の作品については敬遠するという方も多くいるのだろうと僕は推測します。ただ,『わたしが・棄てた・女』に関していえば,キリスト教も主題となっていますが,ハンセン病も大きな主題となっていて,そうした虚構に関してはさほど気にせずに読むことができると思います。