スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ハンセンの流血&深夜の低血糖

2013-03-08 18:37:48 | NOAH
 ハンセンの乱入もあって,1981年の世界最強タッグ決定リーグ戦は,ブロディとスヌーカの優勝で幕を閉じました。試合終了後にはハンセンもリングに上がり,優勝したふたりと喜びを分かち合いました。ただ,このときのリング上には,公式戦の後半をひとりで戦うことになったドリーがまだ残っていました。優勝チームとファンクスとの間の抗争は,超獣とドリーの間の抗争が主軸に展開していましたので,この場でも必然的にやり合うことになりました。ただ,この形は3人対ひとりですから,ドリーが一方的に痛めつけられることになったのはいうまでもありません。
                         
 このときにドリーの助っ人に入ったのが馬場と鶴田。この時期の全日本プロレスはベビーフェースとヒールという枠組が残っていた最後の時期。ファンクスはベビーフェースで,日本人とタッグを結成するケースも少なくありませんでしたから,これは当然の流れ。馬場と鶴田もリーグ戦に参加していましたが,セミファイナルでインドの狂虎上田馬之助のチームと対戦し,これが無得点の引き分けとなってしまったため,優勝を逃す形となっていました。
 こうして馬場とハンセンとの間で乱闘が始まりました。馬場はハンセンが来場することは知っていたでしょう。ハンセンとしても,こういう形でリングに上がれば,馬場とやり合うことになると予期していた筈で,これは確信犯的なものだったと思います。
 この乱闘の最中に,馬場が脳天唐竹割りを連打しました。するとハンセンはそれだけで流血しました。ハンセンは確かジーンズに白いシャツといういでたちだったと記憶していますが,そのシャツが鮮血で染まっていったのは,僕のプロレス体験における印象的なもののひとつです。
 プロレスにおいて流血はギミックのひとつではあります。しかしギミックであるがゆえに,それを好んで使う選手もいればあまり好まない選手もいます。馬場は好みではなかったと思われますし,ハンセンも同様だったと僕は思っています。このときのハンセンの流血は,完全なるアクシデントであったと僕は理解しているのです。

 レコーダーを装着し続けての生活ですから,違和感がまったくなかったといえば,それは嘘になります。何事かに集中しているときには気にもなりませんでしたが,電車やバスに乗っているときなど,ふとした瞬間に思い出し,服の上からその部分に触れてみるといったことなどは,何度もありました。シャワーは僕自身の決断で浴びなかったものですが,それ以外の点に関して,苦痛といえるようなものは一切ありませんでした。強いて普段と違ったことといえば,インスリンの注射です。iPro2レコーダーは右の下腹部に装着したものであり,その部分には,普段は注射をすることがあったわけですが,当然ながらこの間は,そこには針を入れられませんでした。また,注意事項のひとつに,このレコーダーの近くにはインスリンを注射してはならないという事項もありましたので,この間は,主に腹の左側への注射となりました。なお,念のためにいっておけば,ここで右左というのは,僕自身から見て,という意味です。
 先述したように,この間は毎食前と就寝前に血糖値測定を行い,その記録を残しておきました。厳密にいうなら,食事の時間も床に就く時間も,一定しているわけではありませんから,計測した血糖値だけではなく,計測した時刻に関しても記録として残しておきました。これは事前のU先生の指示のひとつでした。そしてこれとは別に25日の夜,というか実際には26日の未明ということになりますが,低血糖の症状があって目を覚ましました。なのでその時間にも血糖値を計測し,その血糖値と時刻も記録として残しておきました。
 こうした時間帯の低血糖のひどい症状については,以前に1度だけ説明したことがあります。その後,こうした症状がこの時間帯に出るということがまったくなかったのかといえばそんなことはありませんでした。とはいえ,これはもちろんそうたびたび出るわけではありません。そうであったならば診察の際にその時点での主治医に相談していたでしょう。実際に発症することがあったとしても,これは1年に1回か2回でした。それがたまたま,このレコーダーを装着していた時期に出てしまったということです。僕がひとりで生活していたことと,あるいは関係があったのかもしれません。
コメント
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