ブロディとスヌーカの仲間割れの事情は,当事者ふたりの問題ではなく,プロモーターである馬場の意向であったというのが僕の見解です。仮にこの見解が正しいものであったとしましょう。超獣はスーパーフライという名パートナーを失ったとしても,不沈艦という,比較するならさらに強力なパートナーを得ることができます。なので馬場の意向にも従いやすい面があったでしょう。しかしスヌーカの場合はそうではありません。スヌーカにとってブロディというパートナーを失うということは,全日本プロレスでの自身の立場を危うくしかねないようなことであったとも考えられるからです。確かにスヌーカは,シングルでも戦ってはいましたが,基本的にはブロディのパートナーというのが全日本プロレスでの立ち位置でした。そしてスヌーカは,その立ち位置にそぐうようなプロレスを展開していたと思います。いい換えればそれは馬場が好むようなプロレススタイルであった筈で,馬場がスヌーカのプロレスラーとしての個人的な力量をどのように評価していたかは分かりませんが,その仕事ぶりには,一定の評価をしていたと思うのです。そしてたぶん,スヌーカ自身にもその点についての自負というものがあっただろうと思うのです。
それなのにブロディと訣別しなければならないとしたら,スヌーカがそれを不満に感じてもおかしくはないように思います。そしてスヌーカは実際にそれを感じていたのだとも思えます。というのもスヌーカはこれ以後,アメリカではWWFを主戦場とし,そちらの仕事を優先して,なかなか来日しなくなってしまったからです。これはたまたまWWFからの誘いと,ブロディとの仲間割れの時期が重なったというだけかもしれません。WWFは新日本プロレスと提携していて,しかしこの年の秋には,短期間ではありますがスヌーカは全日本のマットに上がり,ブロディとのシングルマッチなども行っていますから,少なくとも馬場のことを全面的に信頼できなくなったというわけではなさそうでもあります。
このときスヌーカが本心ではどう思っていたのか。これは永遠の謎かもしれません。
妹を送ってから磯子中央病院へと向った母ですが,この日はCTの機器が故障していたため,撮影ができませんでした。このため,後日に改めて予約を入れて,検査をし直すということになりました。ただ,この後,母にはある予定がありましたので,直後,といっても脳外科の診察は木曜でなければ不可能なので翌週という意味ですが,予約を入れることができず,結果的に11月15日にCTの撮影をしています。ここでは時系列に沿って進めていますので,そのことはまた後で書きます。
この週の土曜日,日付でいえば10月13日は妹の土曜出勤。これは運動会でした。このブログでいうところの本牧にある中学校の運動場を借りての実施。といっても僕が見に行ったわけではなく,母と行ったものです。そしてその翌日となる14日の日曜はピアノのレッスンでした。
週が明けて16日の火曜日に,外壁の修理が完了しました。正確にいえば外壁の修理自体は前日までに終了していて,この日は足場を撤去したものです。そしてこの日,母と妹がロサンゼルスの伯母のところへと渡米しました。母と妹の渡米は去年は2月にもありましたので,2度目ということになります。たぶん年に2回の渡米というのは初めてのこと。これはもちろん,伯母の姑の病気ということが大きな理由のひとつになっています。2月の渡米のときは,来日していた伯母の帰国に合わせてのもので,つまり3人でロサンゼルスに向ったということになりますが,今回は母と妹のふたりだけ。前回の帰国のときは母と妹のふたりだけであったわけですから,それと比べて母に大きな負担が掛かったということはできないでしょうが,それくらいまで母が小脳出血から回復しているということのひとつの証であるということはできると思います。
日本では僕ひとりの生活となり,週明けの月曜日,10月22日がみなと赤十字病院の通院の日。この日も行ってみますと中央検査室は空いていまして,先に採血をしてから採尿をしました。この場合はアームバンドを装着してもらうことになります。
総合内科の診察の予約は14時になっていました。なので昼食は院内の食堂で。実際に診察が開始されたのは14時半前でした。
それなのにブロディと訣別しなければならないとしたら,スヌーカがそれを不満に感じてもおかしくはないように思います。そしてスヌーカは実際にそれを感じていたのだとも思えます。というのもスヌーカはこれ以後,アメリカではWWFを主戦場とし,そちらの仕事を優先して,なかなか来日しなくなってしまったからです。これはたまたまWWFからの誘いと,ブロディとの仲間割れの時期が重なったというだけかもしれません。WWFは新日本プロレスと提携していて,しかしこの年の秋には,短期間ではありますがスヌーカは全日本のマットに上がり,ブロディとのシングルマッチなども行っていますから,少なくとも馬場のことを全面的に信頼できなくなったというわけではなさそうでもあります。
このときスヌーカが本心ではどう思っていたのか。これは永遠の謎かもしれません。
妹を送ってから磯子中央病院へと向った母ですが,この日はCTの機器が故障していたため,撮影ができませんでした。このため,後日に改めて予約を入れて,検査をし直すということになりました。ただ,この後,母にはある予定がありましたので,直後,といっても脳外科の診察は木曜でなければ不可能なので翌週という意味ですが,予約を入れることができず,結果的に11月15日にCTの撮影をしています。ここでは時系列に沿って進めていますので,そのことはまた後で書きます。
この週の土曜日,日付でいえば10月13日は妹の土曜出勤。これは運動会でした。このブログでいうところの本牧にある中学校の運動場を借りての実施。といっても僕が見に行ったわけではなく,母と行ったものです。そしてその翌日となる14日の日曜はピアノのレッスンでした。
週が明けて16日の火曜日に,外壁の修理が完了しました。正確にいえば外壁の修理自体は前日までに終了していて,この日は足場を撤去したものです。そしてこの日,母と妹がロサンゼルスの伯母のところへと渡米しました。母と妹の渡米は去年は2月にもありましたので,2度目ということになります。たぶん年に2回の渡米というのは初めてのこと。これはもちろん,伯母の姑の病気ということが大きな理由のひとつになっています。2月の渡米のときは,来日していた伯母の帰国に合わせてのもので,つまり3人でロサンゼルスに向ったということになりますが,今回は母と妹のふたりだけ。前回の帰国のときは母と妹のふたりだけであったわけですから,それと比べて母に大きな負担が掛かったということはできないでしょうが,それくらいまで母が小脳出血から回復しているということのひとつの証であるということはできると思います。
日本では僕ひとりの生活となり,週明けの月曜日,10月22日がみなと赤十字病院の通院の日。この日も行ってみますと中央検査室は空いていまして,先に採血をしてから採尿をしました。この場合はアームバンドを装着してもらうことになります。
総合内科の診察の予約は14時になっていました。なので昼食は院内の食堂で。実際に診察が開始されたのは14時半前でした。