スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

ファイトマネー&本牧

2012-08-06 18:29:13 | NOAH
 フレッド・アトキンスにマネージメントしてもらっていた時代のファイトマネーに関して,馬場はそれをかなり詳細に明らかにしています。今で考えてもこれはかなりの高額なのですが,当時は現在とは為替レートも物価もまったく違いますから,そこまで考慮に入れればこれは破格です。
                         
 馬場は最初の渡米のとき,すでに当時の世界最高峰のNWA世界選手権に挑戦しています。これが1962年の6月。この頃馬場は,週給として100ドルをもらっていたそうです。実際のファイトマネーはもっと高かったのですが,あくまでもこれは武者修行として力道山から送り出されたもので,大部分は力道山が手にしていたようです。帰国したのは翌年の3月で,このとき力道山から15000ドルを受け取ったといっています。1ドルが360円の時代ですから540万円。ただ,実際は10万ドルくらいは稼いでいたようです。
 再渡米したのがその年の10月。その7ヶ月間は日本で試合をしていたのですが,そのギャラは1試合あたりで1万2千円であったとのこと。しかし渡米後は再び週給制に逆戻りし,前回よりは高かったものの,120ドルであったそうです。これは4万3千円弱ですから,日本で4試合すれば稼げていた額です。
 力道山が客死したのがその直後の12月。日本プロレスとしてはすぐにでも馬場に帰ってきてもらいたかった筈ですが,スケジュールが埋まっていたためアメリカで年を越しました。馬場自身,アメリカに残るか帰国するか,迷いはあったようですが帰ることを決断。するとアトキンスは週給制をやめ,ギャラがそのまま馬場の手に入るようにしてくれたとのこと。この間,馬場はNWA,WWWF,WWAと,当時の世界三大タイトルのすべてに挑戦しているのですが,その3試合だけでギャラは2万ドルを超えていたとのこと。2万ドルは720万円。当時の日本の大学卒業の初任給は2万5千円程度でしたので,これは途轍もない高額ファイトマネーであったといっていいのではないでしょうか。それだけ当時のアメリカのプロレス産業が活況を呈していたということの証明ともいえるでしょう。

 その翌日,7月8日の日曜日にはと妹で美容院に行きました。
 妹はあまり体力がある方ではありません。ですから基本的に週末は休息に当てています。日によっては昼過ぎまで眠っているということもあるくらいです。そう考えますとこの数週間の妹は,週末にしてはかなりの予定が入っていたといっていいでしょう。
 そしてその翌日,7月9日の月曜日が,僕のみなと赤十字病院通院の日でした。つまりもしもHbA1cの値が前回と同様に悪ければ,入院することになると言われていた通院の日です。
 この日は診察の予約時間は午後2時半。ということで12時15分に根岸駅を出るバスに乗っていきました。ここ2回ほど,中央検査室はとても空いていたのですが,この日は以前と同様で,そう多くはなかったものの何人かの患者が採血の検査を待っていました。ですので僕も普段通り,先に採尿を済ませてから採血をしてもらいました。この日はアームバンドを装着してもらえなかったのですが,もう採尿は終了していましたし,前回のように右腕ではなく,左腕からの採血でしたから問題はありませんでした。その場で5分ほど患部を押さえてから,病院の外へ。これも前回同様,外食のためです。
 ただしこの日は前回とは違った店にしました。というのは,診察の予約時間が前回は午後3時であったのに対して,この日は2時半だったからです。つまり前回は本牧まで出たのですが,この日はそこまでは行かず,小港にある店。病院は住所としていえば新山下で,小港というのは隣接した町です。実際には僕が小港といっている本牧通りの小港の交差点,これは山手警察署の前のことですが,ここはたぶん小港町と本牧町の境のあたり。しかし僕が本牧という場合には,これは本牧町のことではありませんで,この本牧通りをもっと根岸駅方面に向った一帯のことです。この辺りは本牧○○という地名がひしめいているのですが,僕が本牧というのはこちらのこと。紛らわしいかと思いますが,バス停でいえば本牧町,実際には本牧1丁目と本牧2丁目ですが,これは根岸駅からみれば小港より先。対して単に本牧というバス停は小港よりも根岸駅寄りにありまして,このことがたぶん僕の地名のイメージの源泉になっているものと思います。
コメント
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