スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

王位戦&テーマ設定の理由

2011-07-27 19:23:57 | 将棋
 港とともに発展を遂げてきた神戸での対局となった第52期王位戦七番勝負第二局。
 広瀬章人王位の先手で羽生善治二冠の一手損角換り1-Ⅱに。相早繰り銀から後手が先攻,仕掛けに乗じた先手が6筋の位を取って6六に角を打つ中盤戦。先手が猛攻し龍を作り,後手が一旦は盤面の右側上部に脱出した玉を今度は左側に逃げていったところから観戦。
                         
 ▲6五金は攻め続けるならこれしかないでしょう。△5九角の王手に▲5八王と外し,△6七と。▲同金は詰みですから▲同王の一手。△7六銀から金を抜く順も考えられたところですが△7八飛成の方でした。これも取れば簡単な詰みですから▲5六王は当然。第1図からここまではいかにも後手快調ですが,ここでどう指すのかは難しい。まだ残っていた時間をかなり投入して△7六龍。いろいろ考えていましたが検討していた手のひとつ。攻めにも効かせつつ▲6六桂が有力に思えますが,すぐに▲6六歩と合駒したので,もしかすると読み切っているのかもしれないと感じました。△6四金は△7六龍の局面でも検討していた手のひとつ。ここでは先手の方が時間が残っていて,考えていましたからやはり読み切っているわけではないと判断。あるいは何か誤算があったのかもしれません。▲7四歩と打ったのは最も自然な攻めですが,実はあまり検討していませんでした。取ると上から抑えられそうなので△8二玉と逃げました。次の▲6四金も最も自然な手かもしれませんが,これも検討していませんでした。△同歩(第2図)は当然。
                         
 ここは単純に詰めろを掛けたのでは先手の負け。しかし▲1五龍として自玉を上の方に逃げ出す手を作るのは思い浮かびませんでした。後手はここで1分将棋となり△6六龍。▲同王△6五金▲同龍△同歩▲5六王△7六飛。ここで▲4五王と逃げますと△7四飛がありそうで,▲6六桂の犠打。△同飛に▲4五王(第3図)と逃げ出し,危険極まりない王手は続くもののどうやら逃げ切れると判断。実際に逃げ切った先手の勝ちとなりました。
                         
 最後も金銀でなく金が2枚なら詰んでいたと思われ,かなりきわどい勝負だったのですが広瀬王位が制して連勝。最強の挑戦者を迎えて,防衛が視野に入ってきたともいえますが,これからが大変であるともいえるのではないでしょうか。第三局は来月の2日と3日です。

 まず最初に,僕が今回の考察にあたって,なぜ第三部定義二をそのテーマとして設定したのかということから説明しておきます。
 実際のところ,今回の考察の主題となりそうなことは,スピノザの哲学において,能動とはどういうことであり,また受動とはどういうことかということです。そのことだけでみるならば,第三部定理一の方をテーマとして設定した方が,考察を展開しやすいと僕は考えなかったわけではないのです。
 また,能動と受動といっても,ここではとりわけ人間精神の能動と人間精神の受動についての考察がおそらくその中心となるでしょう。そこでこの観点からいうのであれば,一般に能動と受動についてスピノザが言及しているような箇所よりも,人間精神の能動と受動についてスピノザが言及しているような箇所の方が,設定されるテーマとして相応しいといえなくもありません。もちろんとくに人間精神に限定してその能動と受動について説明されているような箇所が,『エチカ』の中にないのであれば,最初からそうした部分をテーマとして設定するということは不可能でしょう。しかし,そうしたところというのが皆無というわけではないと僕は考えています。ここでは一例だけをあげておきますが,たとえば第二部定理一八の備考においてスピノザが記憶あるいは記憶の現前としての想起について説明するとき,人間身体の変状の秩序および連結と,知性の秩序というのを明確に分けています。このとき,前者は人間精神の受動に属し,後者が人間精神の能動に属するということは,スピノザ自身は言明しているわけではありませんが,明らかなことだと思います。そこでこうした部分こそ,設定するべきテーマに相応しいと考えることもできるのです。
 しかし僕は今回の考察の目標のひとつとして,この考察の契機は前回の第一部定義四の考察に関連していたとしても,これをそれ自体でも完結するようにするということを打ち立てています。そうであるならば,まずは能動と受動について,スピノザが定義している部分から始めるのでなくてはならない,あるいはそれが最善であると考えるのです。ご承知のように,スピノザの哲学においては,定義こそが定義される事物の本性と発生とを含むということになっているからです。
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