スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

棋王戦&病気論

2009-03-18 19:25:13 | 将棋
 ホームグラウンドともいえる関西将棋会館で,久保利明八段の初戴冠がなるか,それとも佐藤康光棋王がもう一ふん張りして最終局まで持ち込まれるのかという争いになった第34期棋王戦五番勝負第四局が指されました。
 久保八段が先手で四間飛車,対して佐藤棋王が棒銀という,ややクラシカルな趣もある戦型に。当然ながら居飛車から仕掛けて第1図に。
           
 この局面,棒銀が捌けて一歩得,さらに銀も手持ちにしている分,僕は後手を持ってみたいです。ただ,僕は最近は指さないとはいえ,根は居飛車党ですから,そういう視点も入っているとはいえます。実戦は第2図に。
           
 先手は完全な無条件に馬を作ったのですが,8筋は突破されることが決定的。やはりここも僕には後手好調と思えます。そして第3図に。
           
 ここは龍ができて香得になりましたから,はっきりと後手が優勢といえる局面かと思います。ここから第4図に進みました。
           
 ここで△5六銀と打ち,▲同金に△4七龍といったのには驚きましたが,どうもこれで決まっていたようです。これ以降,先手は次を見据えたということもあると思いますが,徹底的に粘ったので,手数は伸びましたが,ほぼ一方的に思える内容で後手が勝っています。四間飛車vs棒銀の将棋は数多く指されていますが,稀に見る棒銀の快勝譜ではないでしょうか。
 佐藤棋王が勝利して棋王位の行方は第五局の決戦に。30日に指されます。

 ここまでの検討から,もしも病気論というものがあるとすれば,スピノザの哲学においてはそれをどこから始めればよいのかということ,あるいは一般的には病気というものはスピノザの哲学においてどのようなものと考えられるのかということは理解できたと思います。すなわち,各々の人間の身体ないし精神は,現実的に存在するかぎりは,第三部定理七により,自身の存在に固執するような傾向を与えられた本性として有します。そこでこうした身体にとって,あるいは精神にとっても,病気というのはむしろこの現実的本性に相反するもの,すなわち,この人間の身体また精神の存在を破壊し得るようなあるものです。よってそれは,第三部定理五により,この人間のうちにあることはできません。いい換えれば第三部定理四により,病気は必ずその病気に罹る人間の外部から,この人間に相反するものとしてやってくるということになります。つまりどんな人間も,こうした仕方でのみ病気に出会うということになるでしょう。
 ところで,この出会いというのは,この人間の実在性を減少させるような出会いですから,第三部諸感情の定義三により,この人間に悲しみをもたらすでしょう。そして第四部定理八によれば意識された悲しみこそが人間における悪の認識ですから,僕たちに悲しみをもたらすものとしての病気は,一般的な意味で人間にとって悪であるといえると思います。
 このことから分かるように,スピノザの哲学における病気論というのは,善悪論と密接に関係しているのです。というよりも,正確にいうならば,スピノザの哲学における善悪論というのは,人間が病気に罹るということは悪である,というようなことを第一原則として成立しているといえるかと思います。今はこのことをここでゆっくりと検証してはいられませんが,ドゥルーズの『スピノザ 実践の哲学』の第三章ではこのことが詳しく分析されていますので,もしも興味があればぜひお読みください。
           
コメント
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