2019年11月1日(金)に八王子の滝山城跡に行って来ました・・・お墓参りのついで?・・・・お墓の裏の加住丘陵なので比較的簡単に行けるのです・・・もう十何回と行っていますが、結構保存状態が良く新たな思い出見える御城ですね、続100名城でもありますからね。
お城の全体図です、上が秋川と多摩川の合流点で川が削った70m程の崖です、今回は丹木1丁目のバス停からの登城(下側の黒い道を上りました・・・城の南方から進み上に上がり左側に下り又登とヤヤ勝手に歩き回りました。
バス停から幼稚園の駐車場脇へ山道へ・・・谷戸と呼ばれる沢沿いの谷へ・・・此処は幾つかの谷戸があり天然の空堀・ないしは水堀となっています・
なおも奥に二つの大池・・・写真右側と右奥の土手奥、左側上は曲輪です・・・結構大きい曲輪でした。
上の大池です・・・現在は水がたまらない様土手の一部が削られていますが。
大池の尾根筋上にある小さな曲輪です、この上には尾根筋を立ち割った堀切があり、引橋の木橋で弱点を防御していたのです。
再び大池に下り大馬出脇から二の丸前に・・・此処は二の丸の空堀です・・・このお城は石垣はありませんが大きな空堀と高い土塁の防護の高いお城です、元は八王子を本拠におく、大石氏が築いたお城ですね、・・・北条氏の力が強くなり北条氏照を養子に迎えたのですが、そのころ武田信玄が小田原城へ攻める前にこの城にも攻めかかったのです・・当時三の丸まで攻略とか・・・その後氏照は八王子城を築城し移ったのですがね。
説明版が要所要所にあり、わかりやすいのです、今は大馬出曲輪の脇の二の丸虎口目にいます、此処からも細い土橋・向こう側の大手からも土橋二の丸の入る口も土橋と深い空堀に狭い道に絞った防御が見られますね。
大馬出側から見た土橋、右側も土橋で二の丸の枡形虎口となります。
道正面から見た土橋、向こう側、右側も土橋。
二の丸への土橋と奥が二の丸枡形穂口へ繋がります。
大手筋からの土橋、奥右側は二の丸で手前が空堀です。
此処は三の丸の空堀、右側上が三の丸。
三の丸空堀をぐるりと半周・・・大手筋から見た三の丸です。
大手筋へ出ました、右側が三の丸です。
三の丸上から見た三の丸の空堀です、素晴らしい城壁ですね、当然当時はより深く切り立っていたのですからね、此れから、千畳敷曲輪・二の丸・中の丸・本丸へ進みますよ。
お城の全体図です、上が秋川と多摩川の合流点で川が削った70m程の崖です、今回は丹木1丁目のバス停からの登城(下側の黒い道を上りました・・・城の南方から進み上に上がり左側に下り又登とヤヤ勝手に歩き回りました。
バス停から幼稚園の駐車場脇へ山道へ・・・谷戸と呼ばれる沢沿いの谷へ・・・此処は幾つかの谷戸があり天然の空堀・ないしは水堀となっています・
なおも奥に二つの大池・・・写真右側と右奥の土手奥、左側上は曲輪です・・・結構大きい曲輪でした。
上の大池です・・・現在は水がたまらない様土手の一部が削られていますが。
大池の尾根筋上にある小さな曲輪です、この上には尾根筋を立ち割った堀切があり、引橋の木橋で弱点を防御していたのです。
再び大池に下り大馬出脇から二の丸前に・・・此処は二の丸の空堀です・・・このお城は石垣はありませんが大きな空堀と高い土塁の防護の高いお城です、元は八王子を本拠におく、大石氏が築いたお城ですね、・・・北条氏の力が強くなり北条氏照を養子に迎えたのですが、そのころ武田信玄が小田原城へ攻める前にこの城にも攻めかかったのです・・当時三の丸まで攻略とか・・・その後氏照は八王子城を築城し移ったのですがね。
説明版が要所要所にあり、わかりやすいのです、今は大馬出曲輪の脇の二の丸虎口目にいます、此処からも細い土橋・向こう側の大手からも土橋二の丸の入る口も土橋と深い空堀に狭い道に絞った防御が見られますね。
大馬出側から見た土橋、右側も土橋で二の丸の枡形虎口となります。
道正面から見た土橋、向こう側、右側も土橋。
二の丸への土橋と奥が二の丸枡形穂口へ繋がります。
大手筋からの土橋、奥右側は二の丸で手前が空堀です。
此処は三の丸の空堀、右側上が三の丸。
三の丸空堀をぐるりと半周・・・大手筋から見た三の丸です。
大手筋へ出ました、右側が三の丸です。
三の丸上から見た三の丸の空堀です、素晴らしい城壁ですね、当然当時はより深く切り立っていたのですからね、此れから、千畳敷曲輪・二の丸・中の丸・本丸へ進みますよ。
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