この秋(10月11日~12日)、私はじかに多くの美濃焼に接したいと、
陶器祭りに合わせて多治見市を訪問しました。
さすがに美濃焼のスケールは大きく、
①多治見駅・駅舎の南北通路で「美濃焼祭り(みのやきさい)」
②市之倉地区で「陶器の里フェスティバルin市之倉」
③美濃焼卸センターの側で「たじみ茶碗まつり」
④その他、「本町オリベストリート」「美濃焼ミュージアム」「岐阜県現代陶芸美術館」なども祭りに協賛
が開催されていました。
これら②③④の場所には、
無料のシャトルバスを運行させており、とても便利でした。
秋の好天のもと、どこの会場も大勢の買い物客や
観光客であふれていました。
突然消えてしまい、人々の記憶からもなくなった美濃焼ですが、
それから300年以上も経った昭和5年(1930年)になって、
思いがけない発見があったのです。
岐阜県多治見市出身で、東京で活躍していた陶芸家荒川豊三(1894.3.21~1985.8.11)が、
故郷の牟田洞古窯跡で、筍の絵が描かれた陶片を見つけたのですが、
これが古志野であることがわかりました。
それがきっかけとなり、当時一緒に仕事をしていた北大路魯山人らと周辺の古窯跡を掘り、
多くの焼き物片を見つけ、これまで瀬戸焼とばかり伝えられてきたものが、
美濃焼であると、分かったのです。
荒川豊三はその後、大萱に桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、
古志野の再現を目指しました。
そして、自らも志野の焼き物づくりを研究し、
人間国宝になりました。
続きはまた。
慶長五年(1600年)、関ヶ原の合戦で徳川家康が天下人になりましたが、
このとき古田織部は徳川側についていました。
その後、二代将軍秀忠の茶道指南役になりました。
がしかし、(いろいろな説がありますが)大阪冬の陣・夏の陣のとき、
豊臣方に内通したという罪で、徳川家康から切腹を命じられるのです。
そして一家断絶。「織部」という言葉さえ許さないという事態となりました。
1614年6月14日のことです。
古田織部の死を境にして、美濃にいた陶工たちも瀬戸に帰ってしまい、
美濃焼は、使用されないのみならず、いつか記憶からもなくなってしまいました。
先に書きましたように、美濃焼には志野、織部などがありますが、
志野でも装飾や釉、焼き方などの違いで、赤志野、鼠志野、絵志野などがあり、
織部も青織部、総織部、鳴海織部、赤織部、黒織部、織部黒などいろいろあるのです。
(もちろん、後世になってつけられた名称ですが。)
私の陶芸教室の経験から、緑釉を使った織部は一番人気があるようです。
突然消えてしまった美濃焼は、長い間「瀬戸で焼かれた」ものであると思われていました。
それは、美濃焼でありながら「瀬戸黒」とか「黄瀬戸」とか瀬戸の文字が使われていることにもあらわれています。
続きはまた。
天正十年(1582年)本能寺の変で仆れた織田信長の後を継いだ豊臣秀吉は、
関白の称号を与えられましたが、家臣で(千利休の後任の)茶頭だった古田佐介は、
織部正に叙位され、古田織部と称することになりました。
いま、美濃焼といえば、志野、瀬戸黒、黄瀬戸、そして織部に代表されますが、
織部は古田織部の名前からとられたものです。
織田信長の強力な茶陶保護政策により美濃で生まれた桃山茶陶は、
豊臣秀吉と古田織部の活動により、
日本陶芸史上類を見ない高度の芸術陶器を生み、
質、量ともに未曾有の発展を遂げたのです。
美濃の焼き物は爆発的ともいえるルネッサンスを迎えました。
続きはまた。
10月25日に美濃焼について書いてからちょっと間が空きましたが、その日のブログで、
美濃焼の「歴史的流れに関心」を持ったと書きましたね。
これはまず第一に、
美濃焼が“他には見られない特徴・魅力を付与したのは桃山時代の茶陶の発展にある”ということです。
永禄六年(1563年)尾張を制した織田信長は30歳でしたが、
清州城にいたころ、窯業に注目して「瀬戸六作」という人たちを選んでいます。
「瀬戸六作」とは、瀬戸の名工六人を選び、窯印(作品につけるサインのようなもの)を与えられた人たちです。
信長が美濃を制して岐阜城に入るのはそれから四年後の夏ですが、
「天下布武」を唱える信長に茶道をすすめた人たちの中に千利休がいました。
そのころの信長は茶道よりも茶道具に関心を持ち、茶道具の中でも茶陶に魅了されていました。
そこで信長は「瀬戸六作」の中の一人(加藤市左衛門・景重)に朱印状を与えて瀬戸から美濃入りをさせましたが、
加藤とともに、多くの陶工が瀬戸から美濃に移ってきたのです。(瀬戸山離散と呼ばれます。)
続きはまた。
ここ数年、秋になると窯元を訪ねる旅をしています。
どこにしようかを考えて、とりあえず六古窯を訪ねました。
六古窯は、瀬戸、常滑、信楽、備前、越前(隣の九谷も)、丹波(隣の京焼も)と行きました。
そして、今年は予て興味と関心のあった美濃を選びました。
なぜ、予て関心を持っていたかと言いますと、
織田信長に始まり、豊臣秀吉、徳川家康とつながる茶陶の時代に花咲いた美濃焼が、
長い間(1600年代の始めから昭和の初めまで)、
瀬戸で焼かれたものと思われていたからです。
現在でも、日常生活で使われる食器類の約60%が美濃焼ですし、
「日本陶芸史上類を見ない高度の芸術性がある」と言われるほどの美濃焼が、
“何故突然消えたのか”、興味ありませんか?
古九谷も突然消えたのですが、
それとは違った歴史的流れに関心をもちました。
というわけで、今後少しずつ書きたいと思います。
美濃焼のお祭りに行ったことは、12日のこのブログに書きましたが、
お祭りの一つに“陶の里 フェスティバルIN市之倉2015”があったのです。
「さかづき美術館」や「幸兵衛窯」などの側に“イチノクラフト市”と称して屋台が並びました。
さかづき美術館は、のんべ?には魅力的な名称ですが、
・・・市之倉は精緻で高水準の盃や煎茶器を生んだ所で・・・
・・・明治期には全国盃生産の大部分をを占め・・・
とパンフレットには書かれています。
1階には幕末、明治から昭和にかけて作られたさまざまな盃が
約1500点展示されています。写真はその一部です。
2階には地元に所縁のある人間国宝・巨匠8人の作品
約40点が展示され、見る人を圧倒します。
素晴らしい美術館です。
蚊遣り・蛙の一度目のお色直しです。
一度目というのは、まだ素焼きもしていませんので。
とりあえず緑の着物を着、眼もぱっちりと化粧しました。
肘掛椅子に座ったのですがちょっと分かりませんね。(笑)
素焼きした後、もう一度色直しをし、
それから釉薬を掛け、本焼きをします。
いつ出来上がるのやら。