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初心者のための証券のある生活

豊かな生活を目指し、廣本修正のよくわかる “株・いろいろ”

美濃焼を楽しむ(7)

2015-11-08 14:54:01 | 陶芸

 「美濃焼を楽しむ」シリーズの最終回です。

 私の作品購入の愉しみは、大きな作品ではなく、

 「ぐい飲み」サイズで「これが美濃焼だ!」というもので、

 且つ、値段の安いもの(笑)を探すことでした。

 沢山の出店を一軒一軒見て回りました。

 結局、「黄瀬戸」「黒織部」「志野」の3種類を購入しました。

 (写真の左からです)

 これで“いっぱいやる”のも楽しみだし、

 陶芸講座で、口頭や写真で説明するのではなく、

 現物で見てもらうのにもよかろうと考えて。


美濃焼を楽しむ(6)

2015-11-07 10:16:35 | 陶芸

 この秋(10月11日~12日)、私はじかに多くの美濃焼に接したいと、

 陶器祭りに合わせて多治見市を訪問しました。

 さすがに美濃焼のスケールは大きく、

 ①多治見駅・駅舎の南北通路で「美濃焼祭り(みのやきさい)」

 ②市之倉地区で「陶器の里フェスティバルin市之倉」

 ③美濃焼卸センターの側で「たじみ茶碗まつり」

 ④その他、「本町オリベストリート」「美濃焼ミュージアム」「岐阜県現代陶芸美術館」なども祭りに協賛

 が開催されていました。

 これら②③④の場所には、

 無料のシャトルバスを運行させており、とても便利でした。

 秋の好天のもと、どこの会場も大勢の買い物客や

 観光客であふれていました。

 


美濃焼を楽しむ(5)

2015-11-05 09:32:12 | 陶芸

 突然消えてしまい、人々の記憶からもなくなった美濃焼ですが、

 それから300年以上も経った昭和5年(1930年)になって、

 思いがけない発見があったのです。

 岐阜県多治見市出身で、東京で活躍していた陶芸家荒川豊三(1894.3.21~1985.8.11)が、

 故郷の牟田洞古窯跡で、筍の絵が描かれた陶片を見つけたのですが、

 これが古志野であることがわかりました。

 それがきっかけとなり、当時一緒に仕事をしていた北大路魯山人らと周辺の古窯跡を掘り、

 多くの焼き物片を見つけ、これまで瀬戸焼とばかり伝えられてきたものが、

 美濃焼であると、分かったのです。

 荒川豊三はその後、大萱に桃山時代の古窯を模した半地上式穴窯を築き、

 古志野の再現を目指しました。

 そして、自らも志野の焼き物づくりを研究し、

 人間国宝になりました。

 続きはまた。


美濃焼を楽しむ(4)

2015-11-04 13:46:15 | 陶芸

 慶長五年(1600年)、関ヶ原の合戦で徳川家康が天下人になりましたが、

 このとき古田織部は徳川側についていました。

 その後、二代将軍秀忠の茶道指南役になりました。

 がしかし、(いろいろな説がありますが)大阪冬の陣・夏の陣のとき、

 豊臣方に内通したという罪で、徳川家康から切腹を命じられるのです。

 そして一家断絶。「織部」という言葉さえ許さないという事態となりました。

 1614年6月14日のことです。

 古田織部の死を境にして、美濃にいた陶工たちも瀬戸に帰ってしまい、

 美濃焼は、使用されないのみならず、いつか記憶からもなくなってしまいました。

 先に書きましたように、美濃焼には志野、織部などがありますが、

 志野でも装飾や釉、焼き方などの違いで、赤志野、鼠志野、絵志野などがあり、

 織部も青織部、総織部、鳴海織部、赤織部、黒織部、織部黒などいろいろあるのです。

 (もちろん、後世になってつけられた名称ですが。)

 私の陶芸教室の経験から、緑釉を使った織部は一番人気があるようです。

 突然消えてしまった美濃焼は、長い間「瀬戸で焼かれた」ものであると思われていました。

 それは、美濃焼でありながら「瀬戸黒」とか「黄瀬戸」とか瀬戸の文字が使われていることにもあらわれています。

 続きはまた。


美濃焼を楽しむ(3)

2015-11-03 09:59:47 | 陶芸

 天正十年(1582年)本能寺の変で仆れた織田信長の後を継いだ豊臣秀吉は、

 関白の称号を与えられましたが、家臣で(千利休の後任の)茶頭だった古田佐介は、

 織部正に叙位され、古田織部と称することになりました。

 いま、美濃焼といえば、志野、瀬戸黒、黄瀬戸、そして織部に代表されますが、

 織部は古田織部の名前からとられたものです。

 織田信長の強力な茶陶保護政策により美濃で生まれた桃山茶陶は、

 豊臣秀吉と古田織部の活動により、

 日本陶芸史上類を見ない高度の芸術陶器を生み、

 質、量ともに未曾有の発展を遂げたのです。

 美濃の焼き物は爆発的ともいえるルネッサンスを迎えました。

 続きはまた。

 


美濃焼を楽しむ(2)

2015-11-02 13:17:41 | 陶芸

 10月25日に美濃焼について書いてからちょっと間が空きましたが、その日のブログで、

 美濃焼の「歴史的流れに関心」を持ったと書きましたね。

 これはまず第一に、

 美濃焼が“他には見られない特徴・魅力を付与したのは桃山時代の茶陶の発展にある”ということです。

 永禄六年(1563年)尾張を制した織田信長は30歳でしたが、

 清州城にいたころ、窯業に注目して「瀬戸六作」という人たちを選んでいます。

 「瀬戸六作」とは、瀬戸の名工六人を選び、窯印(作品につけるサインのようなもの)を与えられた人たちです。

 信長が美濃を制して岐阜城に入るのはそれから四年後の夏ですが、

 「天下布武」を唱える信長に茶道をすすめた人たちの中に千利休がいました。

 そのころの信長は茶道よりも茶道具に関心を持ち、茶道具の中でも茶陶に魅了されていました。

 そこで信長は「瀬戸六作」の中の一人(加藤市左衛門・景重)に朱印状を与えて瀬戸から美濃入りをさせましたが、

 加藤とともに、多くの陶工が瀬戸から美濃に移ってきたのです。(瀬戸山離散と呼ばれます。)

 続きはまた。

 


美濃焼を楽しむ(1)

2015-10-25 14:49:53 | 陶芸

 ここ数年、秋になると窯元を訪ねる旅をしています。

 どこにしようかを考えて、とりあえず六古窯を訪ねました。

 六古窯は、瀬戸、常滑、信楽、備前、越前(隣の九谷も)、丹波(隣の京焼も)と行きました。

 そして、今年は予て興味と関心のあった美濃を選びました。

 なぜ、予て関心を持っていたかと言いますと、

 織田信長に始まり、豊臣秀吉、徳川家康とつながる茶陶の時代に花咲いた美濃焼が、

 長い間(1600年代の始めから昭和の初めまで)、

 瀬戸で焼かれたものと思われていたからです。

 現在でも、日常生活で使われる食器類の約60%が美濃焼ですし、

 「日本陶芸史上類を見ない高度の芸術性がある」と言われるほどの美濃焼が、

 “何故突然消えたのか”、興味ありませんか?

 古九谷も突然消えたのですが、

 それとは違った歴史的流れに関心をもちました。

 というわけで、今後少しずつ書きたいと思います。


さかづき美術館

2015-10-18 10:24:25 | 陶芸

 美濃焼のお祭りに行ったことは、12日のこのブログに書きましたが、

 お祭りの一つに“陶の里 フェスティバルIN市之倉2015”があったのです。

 「さかづき美術館」や「幸兵衛窯」などの側に“イチノクラフト市”と称して屋台が並びました。

 さかづき美術館は、のんべ?には魅力的な名称ですが、

 ・・・市之倉は精緻で高水準の盃や煎茶器を生んだ所で・・・

 ・・・明治期には全国盃生産の大部分をを占め・・・

 とパンフレットには書かれています。

 1階には幕末、明治から昭和にかけて作られたさまざまな盃が

 約1500点展示されています。写真はその一部です。

 2階には地元に所縁のある人間国宝・巨匠8人の作品

 約40点が展示され、見る人を圧倒します。

 素晴らしい美術館です。


蚊遣り・蛙のお色直し

2015-09-15 11:26:14 | 陶芸

 蚊遣り・蛙の一度目のお色直しです。

 一度目というのは、まだ素焼きもしていませんので。

 とりあえず緑の着物を着、眼もぱっちりと化粧しました。

 肘掛椅子に座ったのですがちょっと分かりませんね。(笑)

 素焼きした後、もう一度色直しをし、

 それから釉薬を掛け、本焼きをします。

 いつ出来上がるのやら。


蛙の蚊遣り

2015-09-13 10:10:05 | 陶芸

 夏の暑いうちはなかなか作陶をする気にならず、

 ようやく涼しくなってきましたので、“なにか作ろう”と。

 そして、時季外れになりましたが、「蛙の蚊遣り」を作りました。

 高さ21~22センチで、後ろ側のお尻の下から

 缶入りでふたの部分に蚊取り線香を置くもので、蓋ごと入れるようにしました。

 赤の粘土で作ったのが上の写真です。

 生乾きになったところで、白化粧土を全身に塗りました。

 美人でしょ?(笑)

 今後、お腹の部分は白いままですが、その他は緑色にします。目は黒。

 出来上がったらお披露目します。

 来年の夏には活躍してくれるでしょう。