昨日は、私が講師を務める「千葉市いきいきプラザ」で、
毎年恒例の「親子陶芸教室」がありました。
全部で36人の「母・子」or「祖母・子」が粘土での作品作りに挑戦。
もともとテーマを「好きなものを作ろう」としました。
お子さんは小学校1~3年生の低学年の人が多く、
筆立てやマグカップなど、年相応?の物から、
怪獣や竜など「・・・らしい」ものもありました。
母・祖母も、茶碗、お皿など、やはり「・・・らしい」ものが主でした。
次は、8月9日(水)に、絵付け・釉掛けをして、本焼きをします。
楽しい一日を過ごし、夏休みの思い出作り
となればうれしいのですが。
ふだん「陶芸」という言葉をなにげなく使っていますが、
趣味の世界で、「・・芸」があとにつく言葉はさほど多くありません。
では、だれが言い出したかというと:
「桃山時代の陶芸の研究、再現に務め卓越した技量を示した加藤唐九郎」という人の由。
彼は、明治31年~昭和60年と比較的長生きした人で、
一つの物事を象徴的に一言で表現する天才的な能力をもっていたと言われています。
その彼が、「土を道連れに、陶器が表現する芸術の世界を目指していく」
すなわち「陶芸」である、と表現したのですね。
1952年に第1回無形文化財に指定されています。
千葉市が発行している「ちば 市政だより」に今日、掲載されました。
私が講師をする「夏休み親子陶芸教室」の募集案内が。
7月31日(月)と8月9日(水)の2日間で行います。
小学校の低学年のお子さんと、保護者の二人が一組での申し込み。
「なんでも好きなものをつくろう」という創造性豊かな陶芸教室です。
私のほかに、陶芸クラブのベテラン指導者と一緒に毎年やっている人気の教室ですが、
数年前には千葉テレビの取材・放映がありました。
小さなお子さんのアイディアあふれる作品、お母さんのお母さんらしい作品、
お父さんはやっぱり・・・・と、とても楽しい教室です。
今年はどんなかな?楽しみです。
陶芸同好会の陶花会の平成28年度の修了式でした。
私は、9~12月は休まざるをえませんでしたが、
ほぼ全員約50人が集まりました。
「年度終わり」の挨拶として、私が皆さんにお話ししたのは、
「この1年楽しむ陶芸をしましたか」ということ。
「陶芸は、土・粘土を知ることから始まって、作る、装飾する、釉薬を掛ける、焼く、
という5つの過程を楽しむことができる」ということ。
そして、「上達するために・心豊かな感性を磨くために」は「名品を多く見る」こと。
などなどでした。
新年度はすぐに始まりますが、また、
皆さんと楽しい陶芸をしたいと思います。
今日は、陶芸の同好会「陶花会」の日で、「釉掛け」と「本焼き窯入れ」でした。
皆さんの作業が始まる前、私は「美濃焼を見る」というテーマでお話をしました。
普通の焼き物は、場所の名前=粘土の名前=焼き物の名前 となっていますが、
美濃焼は少し違います。美濃は昔の名前で、
今の岐阜県の東濃地方(多治見市、土岐市、可児市、笠原町など)で作られ、焼かれた焼き物です
東濃地方は「桃山茶陶を生んだ里」で、千利休亡き後天下の茶匠となった古田織部の好みを反映した、
独創的なやきものです。しかし、これら名陶は、古田織部とともに消え、
長い間瀬戸で焼かれたと思われていました。
昭和に入って、その定説を覆したのは人間国宝となった荒川豊三です。
そんな話から、志野焼、黄瀬戸焼の実物を見せながら、
説明をしてきました。
後日「織部焼」をとりあげます。
4月から始まる陶芸の講座でのカリキュラムを考案中です。
これまでも、私たちの生活に役立つものを取り入れていますが、
「飯茶碗」についても歴史やデータを調べました。
飯(めし)を食べるのになぜ「茶碗」というのか、とか、
いつから「飯茶碗」を使い始めたのか、とか、
調べるとなかなか面白いのですが、今日は「サイズ」について。
日本でも「磁器」が使われるようになった江戸時代末期から、
磁器の飯茶碗の重さは、
江戸時代200g、明治時代180g、大正時代150g、昭和時代120g、平成時代110gと、
次第に軽くなっています。陶器では昭和~平成・170g~190gが平均的。
サイズはあまり変わっていないようで、男物・径4寸(120mm)
女物・径・3寸8分(115mm)
誰が調査したのか、面白いですね。
午前中、釉游会の作陶に出かけました。
昨年12月20日の「なんでも鑑定団」の折の〝4点目の「窯変天目”を取り上げた
3月7日付朝日新聞記事を持参した方がおり、その記事を読んで、
改めて静嘉堂文庫美術館蔵の曜変天目茶碗を思い出しました。
「週刊朝日百科国宝の美」によると、その茶碗は、徳川将軍家の柳営御物だったが、
三代将軍家光が乳母春日局に下賜したとされている由です。
春日局は、家光が26歳で重い疱瘡を患ったとき、その平癒を願い「自ら生涯の薬断ちを誓って
願をかけた」ことから、晩年病を得ても一切薬を飲まなかったそうです。それを大いに心配した
家光は、将軍家宝物である曜変天目に薬湯を入れて服用を迫ったのですが、春日局は感涙しながらも
薬はそっと胸元に流し込み、飲んだふりして対応したそうです。
・・・私は、この茶碗を見るたびにこれを思い出し、
国宝茶碗の持つ「ロマン」にふけるのです。