今日は、清水焼の郷まつり・大陶器市に行きました。
京都駅前からの臨時バスに乗り、約20分で清水焼団地へ。
たぶん、ふだんは静かな町?も大いに賑わっていました。
京焼きと清水焼の関係など、とても良くわかり、楽しい時間を過ごしました。
台風一過、快晴の京都です。
京焼き見物で、いろいろな所に行きました。
写真は、河井寛次郎記念館と近藤悠三記念館のものものです。
大皿は、近藤悠三作で、直径126.6センチ、重さ100キロ。
世界一の大きさの由です。
作成中のビデオも見せてもらいました。
今日も午前中は清水焼、午後から丹波に向かいます。
毎年、10月に2泊3日で「陶芸の里プラス〇」を訪れる旅行をしています。
去年は、備前焼(岡山県)と出雲大社(島根県)に、
一昨年は、九谷焼(石川県)と越前焼(福井県)に、
その前の年は、信楽焼(滋賀県)と北琵琶湖方面に、
といった具合に、です。
そして今年は、京焼・清水焼(京都)と丹波焼(兵庫)に行くこととし、
昨日、乗車券などを購入してきました。
日本には、瀬戸、常滑、越前、備前、信楽、丹波など“六古窯”と呼ばれる窯場があります。
今年の丹波訪問で、この六古窯を全部訪れたことになります。
季節も爽やかな秋で、絶好の旅行シーズンです。
行って来たら、また楽しかったことなど書きます。
もう2か月も前、機会があって彫刻師武志伊八郎(波の伊八)の写真展を見ました。
そして、7月の始め、勝浦に行ったとき、
覚翁寺の門や本堂や鐘つき場などに彫ってあった彫刻を見てきました。
よし、「これを手本に私も」と思ったのですが、
なにしろ、今年の夏は暑かったでしょ。
なかなか実現せず?
ようやっと彫って、焼いた皿です。
径30cmほどの皿をつくり、鯉の滝登りをイメージしながらの、
私なりの図柄です。
葛飾北斎でさえ、波の伊八に図柄を教わった?
とか言いますからネ・・・・(笑)
来年の干支、未(羊)の絵皿を作りました。
まだ今年も3分の1、4ヶ月もあるのですが、
窯入れのスケジュール上、早めの制作になりました。
実は、去年の8月30日のこのブログに、午(馬)の絵皿を紹介しています。
早いついでに、干支と株式相場についても・・・・
昔から干支と株式相場の格言がありますね。
「辰巳(たつみ)天井、午(うま)尻下がり・・・・」というあれです。
そして、「・・・未(ひつじ)辛抱・・・」と続きます。
いずれ年末にでも、また書きます。(笑)
夏休み「親子陶芸教室」の2回目、今日は、
先日作って、素焼きをした作品に、絵を描き釉薬を掛けることをやりました。
みんな暑さにも負けず、元気に集まりました。
今日は、ケーブル・テレビのJ:COMが取材に来ました。
テレビカメラが近寄っても、臆することなく?
お皿やマグカップ、それに子供はいろいろな人形?や動物など、
お母さんの中には表札を作った人など・・・
とても熱心にやりました。
24日(日)には完成品をお渡しすることをお約束し、
夏休みの作品作りが、楽しく終了しました。
織部陶のジャンルに入るものがまだあります。
4.赤織部 鳴海織部の赤土の部分の技法だけでできたものです。
5.織部黒 作品全体を黒い鉄釉で塗りつぶした作品(窯の中がまだ熱いときに、作品を引き出して急冷させたもの。より きれいな黒がでる)
6.黒織部 織部黒の黒釉を全面に掛けずに、一部分を窓抜きのように掛け残し、そこに白釉を掛けた作品
7.これらのほかに、志野織部(無地織部)、絵織部なども分類されています。
・・・・・
日本の「茶」の世界に器物が初めて使われたのは「天目茶碗」ですが、
その後、茶匠が登場。
村田珠光、武野紹鷗、千利休、古田織部 と代わって行く過程での織部。
戦国の槍一筋に生き抜いた武人が、時代も近世の夜明けを迎える中で、
歪んだもの、武骨なもの、大振りで活力のあるものが時代の好みを反映したのです。
ただ一碗の茶を静かに喫するという「侘び茶」の思想に、
「茶を喫する楽しみ」を加えたのが織部だったのです。
そんな目で昔の「織部陶」を見るのも楽しみです。
さて、昭和の初めに、美濃地方の窯跡でたくさんの陶器が発見され、
その中に織部陶があったのですね。
織部陶もいろいろありましたので、いくつかに分類されています。
列記してみます。
1.青織部 作品の一部に青釉(緑釉)がかかり、他の部分に鉄釉によって模様が描かれたもの
2.総織部 銅の緑釉が作品の全面にかけられたもの
3.鳴海織部 赤土と白土をはぎ合わせて作った作品の白土の方に緑釉を掛け、赤土部分に白泥で模様を描き、更に鉄釉の線描を施したもの
この3種類が、現在私たちが使っている織部釉という、人気のある?緑色の釉薬をかけています。
上の写真は、私の作品ですが、
一番上が「総織部」真ん中が「青織部」下が「鳴海織部」
ということになります。
続きはまた。
千利休は、秀吉の怒りを買って切腹しましたね。
古田織部は、大坂夏の陣で陰謀を疑われて切腹しました。72歳のときです。
茶の湯の師匠が2代にわたって切腹で果てたというのも何かの因縁でしょうか。
千利休というと「侘び」「寂(さび)」で有名ですが、
戦国を槍一筋で生き抜いた古田織部は、中世的な利休の茶に反して、
すべて自己の好みの作意を強く打ち出しました。
例えば、宗湛日記にあるそうですが、
「ウス茶ノトキ、セト茶碗・・・ヘウケモノ也」
ひょうげたもの、つまりひん曲がった茶碗を敢えて使ったのですね。
そんな古田織部がリードした?美濃陶のすべてが「織部好み」ですから、
志野、黄瀬戸、瀬戸黒(注)そして狭義の織部もすべて、
「織部陶」ということができます。
(注)黄瀬戸、瀬戸黒と「瀬戸}という言葉が使われていますが、
これは名前を付けた後の人が瀬戸で作られたものと、思ったからでした。
昭和の初めころ、すべて美濃で作られたものとわかったのです。