詳らかには知らなかった話ですが、だいぶ前から話は出ていたらしい、
村田諒太の「世界戦」が正式発表されました。
まあ、色々思うところがあるというか、いろいろありすぎて、うまくまとまりません。
それはいつものことやないか、というツッコミはご容赦いただいて、とりとめもなく。
そもそも、村田諒太の挑む「世界」って、コレだったんですか、という話から。
日本人として、東京五輪以来の、ロンドン五輪金メダリストのプロ転向、しかも階級がミドル級。
これがアメリカ人の話なら、老舗トップランクを筆頭に、世界の大プロモーターが取り合いを始めるところです。
そして当然、もし然るべき試合を勝ち続ければ、その先には世界ミドル級タイトル挑戦があるはずです。
しかも幸か不幸か?今はアルファベット三文字不要の「世界ミドル級チャンピオン」で通る、
有り難いんだか迷惑なんだか?わからないような、しっかりしたお方が、頂点に立っているわけです。
過去に、村田諒太の試合について、TVで見、直に見、あれこれつべこべと書いてきました。
結局のところ、獲得至難なミドル級において、4団体王座のうち、どれか一つを獲得するという話を越えた、
事実上、唯一無二な「頂点」への道が明示された時代に、村田諒太は生きている。
その前提があらばこそ、彼の試合ぶりを、その時々の良し悪しには収まらない関心を持って、見てきたのです。
そして、その挑戦が、世界タイトルマッチに届く前に、挫折として終わったとしても、
真に険しい頂に挑んだ彼の闘いは、千金の価値を持つものであっただろうし、それを称え、労い、敬っていたことでしょう。
しかし、村田をどうこう言うのではなく、想像の範囲内で、言っては悪いが、一番嫌な形になってしまいました。
日本日本と言わずとも、世界的にモラルの荒廃著しいボクシング「業界」では、よくある話でもありますが、
少し前、WBA会長自身が来日して「ホザいた」話を、見事にひっくり返したことなども思うと、
いったい何がどうなってこないなってしまうのやら。もはや、常人の理解を超えています。
この試合は「世界挑戦」ではなく、その前段階の、挑戦者としての資格を問われる試合である。
村田諒太が、プロで初めて、世界的実績を持つ相手、「WBA1位」(けっして「世界1位」ではない)に挑む。
それ以外の意味は、一切読めない、読むべきではない試合です。
そして、そのことだけでも充分、偉大な挑戦のはずです。
かの竹原慎二とて、もしランカー時代に、ホルヘ・カストロに挑戦するより先に、
ジョン・デビッド・ジャクソンやウィリアム・ジョッピーのような、WBA上位の選手と
対戦せねばならなかったとしたら、タイトル挑戦に到達し得たでしょうか?
今回対戦するハッサン・ヌダム・ヌジカム→アッサン・エンダムの現状が、例示した対象と比べ、
どういうものなのか、その評はさまざまにあるでしょうが、世界上位との対戦が多く、
起伏の激しい試合内容を見せているものの、充分に強みも持った選手でもあります。
村田諒太にとっては、充分に難敵、強敵でもあると思います。単純に、見てみたい試合、でもあります。
この相手に勝てば、まだ不足もあるかもしれませんが、それでも、世界の頂点に向け、
一歩前進、接近、挑戦に名乗りを上げる、と言いうる勝利となります。
しかしそれを見て、称えて敬うよりも先に、冠だけが先に「落ちてくる」ような話です。
ゲンナディ・ゴロフキンとて、そもそもの最初は「第二王者」からのスタートでした。
村田諒太の挑戦が、ゴロフキンの「その後」に、少しでも迫れるようなものになれば、幸いではあります。
しかし、普通に見て、強敵相手の挑戦であると見られる試合なのに、それに足らずと、
もう一段上の看板を掛け、お題目をつけたところで、結局、この試合は、実際の価値以下に軽んじられてしまうのではないか。
村田諒太のプロ転向時、世はもっと騒然となり、その耳目を彼に向けたのではなかったか。
その彼が、プロの世界で「世界」挑戦まで辿り着いた。
しかし、その報に接し、沸き立つような思いのみで、心を満たすことは出来ていません。
村田諒太の勝利を願い、そのさらなる未来に対する期待を捨てたりはしません。
しかし、失われるもの、損なわれるものも、少なからずあるだろう。そう思います。
※村田本人の一問一答。非常に冷静です。
この、本人の確かさについては、非常に頼もしく、感心させられますね。