大田区総合体育館のリングに立ったアンセルモ・モレノは、飄々として見えました。
かつて山中慎介が初防衛戦で戦ったビック・ダルチニアンは、遠目にも「打倒」への意欲、
闘いへの渇望をこれ見よがしに?振りまいていたものですが、それとは余りにも違っていました。
この世に起こる出来事全てに対し、何一つ驚きも慌てもしない、という風情。
好不調いずれにも見えず、それを傍目に見取らせもしない。
これほど「ハッタリ」感の無いボクサー、あまり見た記憶がありませんでした。
それこそ、やる気があるのかないのかさえ読めない。不気味やな、という。
試合が始まると、モレノは山中慎介と「探り針」のジャブ、フェイントの応酬を終え、
リング中央に陣取り、自分を軸に山中を回す展開を、ほぼ固定しました。
長いリーチと、斜に構えていながらやや前傾、という微妙な構えの調整により距離を作って、
山中のパンチを外し、防ぎ、肩で受け流し、多彩な右を伸ばし、時に左を叩いてくる。
2回こそ山中に譲ったかに見えましたが、徐々にその技巧を発揮しだしました。
ここで何より驚き、予想外だったのは、モレノの「布陣」の位置と手法です。
動いて、回る足捌きを控えめに、広くスタンスを取り、ほぼリングの中央を「陣地」として、
山中の攻撃を捌いては突き放す。相手の攻撃力を考えれば、相当に難易度、リスクの高い選択。
しかし、現実にはその攻防で、徐々に山中をコントロールし、ヒットを取っていく。
山中慎介は、強打の手応えや、その威力による威圧で優位に立ち、
それを前提にリズムに乗って試合を支配し、さらに攻撃を上積みしていくのが常です。
この試合、その前提は、徐々に成り立たなくなりました。
言い換えれば、モレノの技巧は、その前提を山中に与えませんでした。
眼前の試合は、するりと、パナマ人の「手に落ちた」ように見えました。
ですので、4回終了後の途中採点は、正直に言って驚きでした。
山中の強打(ボディブローも含む)の効果を、最大限に評価すれば、あり得る採点、でしょうか。
いずれにせよ、この採点を聞いて、モレノはより明白に試合を抑えにかかったように見えました。
5回、山中の左を外へ外し、インサイドに小さい右。6回、今度はカウンターで左。
7回、右リードでほぼ支配。8回、互角に近いが最後に左を2発。
モレノ、一気の巻き返し。公式採点も同様と見え、8回終了時の採点発表でそれは確認出来ました。
採点どうこう以前に、山中に悪い「回り」に見え、それは山中も陣営も同感だったのでしょう。
9回、攻めて出る。しかし左から右の返しを打つ隙間に、モレノに右フックを合わせられ、ぐらつく。
思うに任せぬ展開の果てに、この好打。終盤、試合は破局へと向かって不思議のないところでした。
しかしここから、山中慎介が只者でないところを見せます。
10回、打ち合いの中、モレノのリターンも鋭いが、山中が左、右とヒット。さっきと逆。
モレノは、それまでとは明らかに違う様子のクリンチを繰り返す。
あの淡々とした風情はかろうじて保つものの、挙動は明らかに危機にある者のそれでした。
世界最高峰の技巧を持つモレノの堅陣を、クリアな、正当な攻撃で、ここまで打ち崩した選手を、
少なくとも私は初めて見ました。しかもこれほどの苦しい展開から。
山中慎介の力と闘志は、これまた驚異と感じました。
11回以降は、両者共にいよいよ精一杯。山中左クロス、即座にモレノ、小さい左アッパー。
山中ワンツーにモレノ右アッパーのボディ。モレノが接近戦で右を当て、山中が尻餅。
悪くすればダウン裁定もあるかと見えたがスリップ。
最終回、試合を左右するポイントがかかった3分。山中が強引ながら手を出す形で終える。
私の、会場での採点は、モ山モモ、モモモモ、モ山山山、8対4、モレノ勝利でした。
迷う回(3回、8回)を全て山中に振ってもドローまで。
ただし、迷ったのを山中に振った回もあります。総じて言うと、逆はない、というのが私の結論です。
しかし、あくまでこれは自分の席から見た印象であり、その見方が何よりも正しいとは言いません。
個人的には、逆があるとは見えませんでしたが、際どいところでの印象が違って、
その積み重なりが違う結果になった、それはありうること...なのかもしれません。
採点のことはおいて、確かだったこと、一番大事なことについて、書きます。
終始、なんと密度が濃く、レベルの高い攻防だったことか。
強打と技巧のサウスポーふたりは、リードやフェイントの応酬、上下の打ち分け、
リターンやカウンターの選択、その読み合い、外し合いを終始、高い密度で繰り広げました。
切り返しの速さ、鋭さに震え、選択の多彩さに驚き、敗北以外の何物をも怖れない勇気に感嘆させられる。
これこそがまさに、世界最高峰の力と技の激突なのだ、という強い実感が、
試合の最初から最後まで続きました。
試合が終わり、判定を受け、様々な見解や論議があろうとて、その実感を得られた喜びこそが、
間違いなく、何よりも大きなものでした。
ことに、様々な苦境にあると伝えられながら、敵地でその技巧を存分に発揮し、
バンタム級屈指の強打を持つ山中慎介を苦しめたアンセルモ・モレノの姿は、感動的なものでした。
けっしてスペクタクルな試合をするではないボクサーですが、その試合ぶりは見どころに溢れ、
見ていて目に楽しい、滅多に見られないレベルの、素晴らしいボクサーでした。
そして、採点に恵まれた感は残ったものの、苦しい終盤にその力を見せ、最後も懸命に手を出して
際どいながらも必要な得点をもぎ取った、山中慎介の力と粘り強さにも感心しました。
クリアに、明確に、倒して勝つのが常のボクサーであるからこそ、思うに任せぬ試合で、
終盤の入り口に決定的な打たれ方をしてしまえば、無惨に「決壊」することだってあり得る。
そういうこちらの思いこみを、彼は身をもって覆した。
山中慎介はこの試合で、これまでの試合では見えなかった、見せる必要のなかった力を証明しました。
今後の展開がどうなるかは不明です。山中が、モレノが、両陣営がこの試合をどう評価し、
今後、活動していくのかは、今の時点では報道を見ていないのでわかりません。
しかし、ことのいきさつがどうであれ、この難敵と闘うという選択をした王者と、
捲土重来を期して、強打の王者に挑み、その技巧を存分に見せつけたかつての王者、
この二人の闘いを、私はボクシングファンとして大いに楽しませてもらいました。
世にはこの試合に関心を持たず、試合自体を見ずにいる人も大勢いると思います。
勿体ないことだな、と思います。そして、自分はボクシングファンで良かった、とも。
なぜなら、こういう素晴らしい試合を、真の一流同士が闘う、世界最高峰の一戦を、
事前にそれと知っていたからこそ、最初から最後まで余すことなく見られたのですから。
アンセルモ・モレノと、山中慎介に拍手を送りたいと思います。心からの敬意を込めて。
素晴らしい試合でした!