ポスター この品は天障院篤姫が将軍家にお輿入れの際に
義父島津斉彬が持たせたものだろうと言われています
お雛さま用という事で 白酒でも入れたのだろうかと…
これは会場内の大きなパネルで これのみ撮影しても良い事になっている
今までに何回も行こうとしたのですが、そのたびに雨に祟られ、今日やっと行く事が出来ました。
音声ガイドのナビゲーターが高橋英樹さんだというのも楽しみの一つでした。去年のNHKの大河ドラマ「篤姫」で高橋さんは島津斉彬役だったのでナビゲーターをなさるのかと思っていましたら、それだけではなかったのです。
「薩摩切子」そのものが斉彬の父・斉興の始めたもので、斉彬はその意志を継ぎ「薩摩切子」の制作を推し進めた人だったのです。斉彬は早世したものですから藩主の地位に居たのは7年ぐらいだったそうで、次の藩主が経済の引き締めをやり、「薩摩切子」もその対象になってしまいました。
鉛を沢山入れると、柔らかいガラスになって、その名もギヤマンと呼ばれます。「ギヤマン」とはポルトガル語の「ディヤマンテ(ダイヤモンド)」から来ているのだそうです。
これは我家の「ギヤマン」です
母が「これはギヤマンよ」と普通のガラス食器と違うと話していました
私が空襲で焼け野原になった我家の焼け跡の土の中から掘り出したものです
よく家の焼ける温度にも溶けないで残っていたものだと思いました
何時の日 母が求めたのか解りませんが70年以上は経っています
この緑と藍色と白の3色あったのですがこれ一つになってしまいました
鉛が含まれているからか普通のガラスと違う輝きがあり写真に写し難いのです
銅を混ぜると「紅色」になるのですが、その色を出すのに何百回もテストをして作り出された日本生まれの、いや「薩摩切子」の色だそうです。
紅色の品では、私は長崎の袱紗や(カステラ、私はこの店のカステラが一番好きなのです)所蔵の品が一番好きでした。模様も細かくなっていますし、「可愛らしく、モダンで、それでいて歴史を感じさせる」物だと思います。残念ながら撮影禁止で写せませんでしたが、上の写真の二枚目の写真の右端の小さな三角の中の紅色がそれだと思います。
全然知らなかったのですが、大方が「サントリー美術館」所蔵の品でした。山崎のサントリー美術館には何度か行っていますがモネの池や「絵画」に気を取られていたのでしょうか、全く気が付きませんでした。もしかして普段は陳列していなかったのでしょうか?
もう一つ驚いたのが、尼崎にある「旭ガラス」が「薩摩切子」と深い関係にあると言う事を知ら無かった事でした。あの財閥の岩崎家が始めた会社であるという事も知りませんでした。
もっと凄いのは日本国の旗、日章旗を初めて提案したのが島津斉彬であるといわれている事です。日の丸を始に考えてのは誰?と思っていましたが、思わぬ事を今回は知りました。「屋久島」に本籍を置く私は「こりゃ~、屋久島についても何か調べる価値があるかもね」と好奇心がむくむくと涌いてきました。ヤレヤレ…
人間の親指ぐらいからの数々のお雛様用の「薩摩切子」も篤姫のものだろうと言われています。
素人の私でさえ、順番に展示された作品を見て、その進歩ははっきりとわかります。面白い事にあまりに成功に出来たものは「薩摩切子」ではないと否定されたり、外国のものが逆に「薩摩切子」であると承認されたりしたようです。
「薩摩切子」は将軍家への献上品として、又大名間の贈り物として重宝していたらしいのです。都から遠く離れた鹿児島で世界に誇る「薩摩切子」は生まれていたのです。
(1130回)
義父島津斉彬が持たせたものだろうと言われています
お雛さま用という事で 白酒でも入れたのだろうかと…
これは会場内の大きなパネルで これのみ撮影しても良い事になっている
今までに何回も行こうとしたのですが、そのたびに雨に祟られ、今日やっと行く事が出来ました。
音声ガイドのナビゲーターが高橋英樹さんだというのも楽しみの一つでした。去年のNHKの大河ドラマ「篤姫」で高橋さんは島津斉彬役だったのでナビゲーターをなさるのかと思っていましたら、それだけではなかったのです。
「薩摩切子」そのものが斉彬の父・斉興の始めたもので、斉彬はその意志を継ぎ「薩摩切子」の制作を推し進めた人だったのです。斉彬は早世したものですから藩主の地位に居たのは7年ぐらいだったそうで、次の藩主が経済の引き締めをやり、「薩摩切子」もその対象になってしまいました。
鉛を沢山入れると、柔らかいガラスになって、その名もギヤマンと呼ばれます。「ギヤマン」とはポルトガル語の「ディヤマンテ(ダイヤモンド)」から来ているのだそうです。
これは我家の「ギヤマン」です
母が「これはギヤマンよ」と普通のガラス食器と違うと話していました
私が空襲で焼け野原になった我家の焼け跡の土の中から掘り出したものです
よく家の焼ける温度にも溶けないで残っていたものだと思いました
何時の日 母が求めたのか解りませんが70年以上は経っています
この緑と藍色と白の3色あったのですがこれ一つになってしまいました
鉛が含まれているからか普通のガラスと違う輝きがあり写真に写し難いのです
銅を混ぜると「紅色」になるのですが、その色を出すのに何百回もテストをして作り出された日本生まれの、いや「薩摩切子」の色だそうです。
紅色の品では、私は長崎の袱紗や(カステラ、私はこの店のカステラが一番好きなのです)所蔵の品が一番好きでした。模様も細かくなっていますし、「可愛らしく、モダンで、それでいて歴史を感じさせる」物だと思います。残念ながら撮影禁止で写せませんでしたが、上の写真の二枚目の写真の右端の小さな三角の中の紅色がそれだと思います。
全然知らなかったのですが、大方が「サントリー美術館」所蔵の品でした。山崎のサントリー美術館には何度か行っていますがモネの池や「絵画」に気を取られていたのでしょうか、全く気が付きませんでした。もしかして普段は陳列していなかったのでしょうか?
もう一つ驚いたのが、尼崎にある「旭ガラス」が「薩摩切子」と深い関係にあると言う事を知ら無かった事でした。あの財閥の岩崎家が始めた会社であるという事も知りませんでした。
もっと凄いのは日本国の旗、日章旗を初めて提案したのが島津斉彬であるといわれている事です。日の丸を始に考えてのは誰?と思っていましたが、思わぬ事を今回は知りました。「屋久島」に本籍を置く私は「こりゃ~、屋久島についても何か調べる価値があるかもね」と好奇心がむくむくと涌いてきました。ヤレヤレ…
人間の親指ぐらいからの数々のお雛様用の「薩摩切子」も篤姫のものだろうと言われています。
素人の私でさえ、順番に展示された作品を見て、その進歩ははっきりとわかります。面白い事にあまりに成功に出来たものは「薩摩切子」ではないと否定されたり、外国のものが逆に「薩摩切子」であると承認されたりしたようです。
「薩摩切子」は将軍家への献上品として、又大名間の贈り物として重宝していたらしいのです。都から遠く離れた鹿児島で世界に誇る「薩摩切子」は生まれていたのです。
(1130回)