ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

今は無い 近所付き合い

2009年06月25日 | 思い出話
               のうぜんかつら  (尼崎・大井戸公園)  

            此花の下に石のベンチがありますます  
      そこに座って目の前にあるバラ園を眺めるようになっています。






昨日お料理教室のあと、そのまま大阪に買い物に出ました。帰宅時間が丁度小学生の帰宅時間と重なったようです。

3年生ぐらいでしょうか、4~5人の男の子がなにやら口々に喋りながら賑やかにやってきました。この頃は男の子もよく喋るな~と思ってみていました。数歩後からもう1人男の子がのろのろとやってきました。

ふと見るとその男の子はしゃくりあげて泣いています。前を行く男の子達を見つめて泣いているようでした。前を行く男の子達がいじめているようにも見えません。話の輪に入れない? 入れてもらえない? そんな感じでした。

私は思わず声を掛けてしまいました「泣いたらあかんよ。男の子が泣いたらあかん」って。男の子はチラッと私を見て、こっくりと肯きました。そしてまだ泣きながら男の子達の後をトボトボと付いて行きました。

男の子の家にはこの子を迎える誰かがいるのでしょうか? もし居なければ、男の子は1人で、今の悔しいと言うか、寂しい心をどのように納めるのだろうか? とか考えてしまいました。

今は希望すれば、放課後も学校で夕方まで子供は預かってもらえるようです。しかし、それは学校の延長であって、家庭ではありません。親にとっては都合の良い制度でしょうが、子供達にとっては如何でしょうか?やっぱり学校から帰る子供を待つ家庭がある方が、子供の精神的安定には良いのではないかと思うのですが…、私の考えは古いですか?

私が結婚しました時、丁度お隣に3年生の女の子が居ました。その子は私学の小学生で、お母さんは尼崎の小学校の先生をしていました。女の子は学校から私の家に帰ってきます。お八つを食べさせて、宿題を見てあげるのが私の仕事でした。私学ではその当時から3年生から英語を習っていましたね。

私が子供を4月に生んで8月の夏休みまでそれは続きました。1年と一寸でしょうか。その間私は外出しても、女の子が帰ってくる時間までには帰っていなければなりませんでした。だからと言って、お金は頂いていませんでしたよ。盆暮れには姑の方に何かが届けられているようでしたが…。

今から50年ほど前までは、そうして、近所の子供を預かったりと言う近所付き合いがあったようです。

話は変わりますが、不幸のあった家には、近所の人が集まって食事の世話など手伝っていましたね。買い物に行く時は、半紙で綴られた「買い物帳」を持っていきますと、お店は(買った品物と金額、店の名前を記入します)そうしますと現金は持っていかなくとも買い物が出来て、後から支払いに行ったものでした。

私も何度かそんなお手伝いに行きました。そのお手伝いの最後は昭和40年(1960代)頃だったと思います。今でもよく覚えております。そのときにお礼にと頂いた「下駄」は履く事も無く今でも私の下駄箱に眠っております。

今のように全てお金で清算するのは、後腐れが無くていいのかもしれませんが、時々心の通った昔が懐かしいと思う事があります。 


              花の付き方  左右対称に突き出して  
           次はその花茎と十字を書くような位置に付きます  





        花が開くのも左右対称に 上から下に咲き下がります
    
コメント (2)
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