主人の友人のさとうさんの菊です
今年は出来が良くなかったそうです
お願いして写真を頂きました
こんな記事が目に止まりました。
「祖父から孫へ」 大阪 74歳 男性
「トラは死して皮を残す、人は死んで名を残す」と言うことわざは、祖父から教わった。しかし、われわれ庶民は死んだら終わり、名は残らない。それでも3代までは家族の間では、確実に残っていると私は思う。私の記憶にある祖父は、素晴らしい人だった。 ・・・中略・・・ 私も4人の孫を持った。その孫達に、どれだけの事を教えてやれるだろう。又心の中に、どれほどのウエートで残る事ができるだろうか。もう高校3年生を筆頭に、大きくなった孫達から教えられる事ばかりである。
時代のテンポが速くなっている。「負うた子に・・・」の時代があっという間にやってくる。私と祖父の時代の様なのんびりした関係はもはや望めないかも知れない。その上に核家族化が追い討ちをかける。一緒に生活しない孫と祖父母との間には距離がある。
私の息子達は祖母と同じ屋根の下で20年近くを過ごしたのであるから、思い出は持っていると思う。私の知らない繋がりがあると思う。私と祖父の間も母は知らなかったと思う。二人の秘密でない秘密である。それでいいと思っているので、あえて息子達にも聞かない。夫々が祖母を思い出してくれれば良い。
私は忙しい母に代わって何時も行動を共にしていたのは祖父だった。しかし、二人の間であった事は母に事細かに話はしなかった。祖父もそうだろうと思う。だから秘密にしているわけではないが「二人の秘密」と言う事になる。我家の孫達は親に話しているようだ。昔と今、同居と別居の違いだろうか?
この文章を書かれた方がどのくらいの関係を孫達と持っておられるかが解らないが「孫の心のなかに、どれくらいのウエートで残るか」と言う事に関しては、私の場合は上の孫の場合が10%とすれば孫娘は会う回数が上の子と極端に差があるので微々たる物だと思う。私はそれでいいと思っている。
孫娘との旅は楽しいが、孫の心に私を印象付けようとしているわけではない。私自身の心に刻みたい為である。この子は頭の良い子だと思う。色んな事を直ぐ吸収する。だから色んな経験をさせてあげたいという気持ちがある。ただ怖いのはこの子は自分が賢いと知っている事である。負けず嫌いだし、それが良い方に進んでくれたらいいのだが・・・。それを見届ける事が出来ないのが一寸さみしいかな?
そんな先よりも今4年生の孫ももうじき、友達の方が良くなり、会う機会も少なくなるだろう。その時に「今」が思い出として活きてくるのである。会える機会の少なくなる事を嘆くのは私の性に合わない。作った思い出で充分幸せが保たれるのは高校生の孫で経験済みである。思い出作りは自分自身の為である。自分が大好きだから、自分が寂しい思いをしないように溜め込んでいる。イソップ物語のアリとキリギリスのアリさんの様にやがてやって来るその冬のためにせっせと食料(絆)を溜め込んでいるのだ。
祖父の年代に近づいた今でも、私は祖父から有形無形色んな影響を受けた事柄や顔もはっきりと覚えている。しかし現代のように祖父母と孫の関係が希薄であれば如何だろうか?今ふっと気付いたが、あれだけ一緒に居て、夜は夜で寝物語をし、私を寝かせつけてくれた祖父なのに話は覚えているのに「声」が思い出せない。これは何故なんだろう?「言葉」としては覚えているのに「音」としては覚えていない。私だけだろうか?そんなこと無いですよね。記憶って遠くになれば「音」は消えるものなんだろうか?
今年は出来が良くなかったそうです
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こんな記事が目に止まりました。
「祖父から孫へ」 大阪 74歳 男性
「トラは死して皮を残す、人は死んで名を残す」と言うことわざは、祖父から教わった。しかし、われわれ庶民は死んだら終わり、名は残らない。それでも3代までは家族の間では、確実に残っていると私は思う。私の記憶にある祖父は、素晴らしい人だった。 ・・・中略・・・ 私も4人の孫を持った。その孫達に、どれだけの事を教えてやれるだろう。又心の中に、どれほどのウエートで残る事ができるだろうか。もう高校3年生を筆頭に、大きくなった孫達から教えられる事ばかりである。
時代のテンポが速くなっている。「負うた子に・・・」の時代があっという間にやってくる。私と祖父の時代の様なのんびりした関係はもはや望めないかも知れない。その上に核家族化が追い討ちをかける。一緒に生活しない孫と祖父母との間には距離がある。
私の息子達は祖母と同じ屋根の下で20年近くを過ごしたのであるから、思い出は持っていると思う。私の知らない繋がりがあると思う。私と祖父の間も母は知らなかったと思う。二人の秘密でない秘密である。それでいいと思っているので、あえて息子達にも聞かない。夫々が祖母を思い出してくれれば良い。
私は忙しい母に代わって何時も行動を共にしていたのは祖父だった。しかし、二人の間であった事は母に事細かに話はしなかった。祖父もそうだろうと思う。だから秘密にしているわけではないが「二人の秘密」と言う事になる。我家の孫達は親に話しているようだ。昔と今、同居と別居の違いだろうか?
この文章を書かれた方がどのくらいの関係を孫達と持っておられるかが解らないが「孫の心のなかに、どれくらいのウエートで残るか」と言う事に関しては、私の場合は上の孫の場合が10%とすれば孫娘は会う回数が上の子と極端に差があるので微々たる物だと思う。私はそれでいいと思っている。
孫娘との旅は楽しいが、孫の心に私を印象付けようとしているわけではない。私自身の心に刻みたい為である。この子は頭の良い子だと思う。色んな事を直ぐ吸収する。だから色んな経験をさせてあげたいという気持ちがある。ただ怖いのはこの子は自分が賢いと知っている事である。負けず嫌いだし、それが良い方に進んでくれたらいいのだが・・・。それを見届ける事が出来ないのが一寸さみしいかな?
そんな先よりも今4年生の孫ももうじき、友達の方が良くなり、会う機会も少なくなるだろう。その時に「今」が思い出として活きてくるのである。会える機会の少なくなる事を嘆くのは私の性に合わない。作った思い出で充分幸せが保たれるのは高校生の孫で経験済みである。思い出作りは自分自身の為である。自分が大好きだから、自分が寂しい思いをしないように溜め込んでいる。イソップ物語のアリとキリギリスのアリさんの様にやがてやって来るその冬のためにせっせと食料(絆)を溜め込んでいるのだ。
祖父の年代に近づいた今でも、私は祖父から有形無形色んな影響を受けた事柄や顔もはっきりと覚えている。しかし現代のように祖父母と孫の関係が希薄であれば如何だろうか?今ふっと気付いたが、あれだけ一緒に居て、夜は夜で寝物語をし、私を寝かせつけてくれた祖父なのに話は覚えているのに「声」が思い出せない。これは何故なんだろう?「言葉」としては覚えているのに「音」としては覚えていない。私だけだろうか?そんなこと無いですよね。記憶って遠くになれば「音」は消えるものなんだろうか?