あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

「 畢生の至純を傾け盡して御國のご維新のために陳述す 」

2019年03月30日 05時36分56秒 | 首脳部 ・ 陸軍大臣官邸

自決か公判闘爭か
二十九日朝奉勅命令の下達を知った将校たちは兵を返すことにきめたが、その態様はさまざまであった。
奉勅命令と聞いて慄然としてただちに率先兵を返した若い少中尉もあり、
栗原中尉のように再起の同志をのこすために下士官兵の原隊帰還を決めたものもあり、
また、安藤大尉のように最後まで兵を返すことに抵抗したものもいた。
しかし、大命によって兵を返すことは、
この挙兵が大命にそわなかったことの証左であると理解した将校はいく人いたであろうか。
当時の軍人の倫理にしたがえば、事志と違いそれが大命に相反すると知ったならば、
あるいはしらなくともこれだけの大事件をひきおこした責任は、すべて将校の負うべきもの、
この際いさぎよく死をえらんで大罪を謝すべきであるとの思考は、当時軍将校の一般的、普遍的通念であった。
この場合、河野寿は三月二日宮内省発表の新聞記事をみて、
「 万事休矣、逆賊となる、また何をかいわん哉、死をもって罪を闕下に謝するのみ 」
とて 自決を決し
三月五日午後、収容中の熱海病院を脱出し裏山松林中で、果物ナイフをもって腹を切り頸動脈を突き、
爾後十数時間死の苦しみに堪えて  ついに六日午前坂時頃その死の目的を達したし、
野中四郎は二十九日午後陸相官邸図書室で、井出宣時大佐の説得によって遺書をしたためいさぎよく拳銃自決を遂げている。
しかし その後多数の同志たちは、安藤大尉の山王ホテル前における自決未遂を除いて、
ついに自決に出ることなく 午後五時すぎ縛につき軍刑務所に送られた。
なぜ、彼らの多くはいさぎよく、その責任の故に、その大罪の故に自決への途をえらばなかったのであろうか。

同志将校は各々下士官兵と劇的な訣別を終わり、陸相官邸に集合する。
余が村中、田中と共に官邸に向ひたる時は、永田町台上一体は既に包囲軍隊が進入し、
勝ち誇ったかの如く、喧騒極めている。
陸相官邸は憲兵、歩哨、参謀将校等が飛ぶ如くに往来している。
余等は広間に入り、此処でピストルその他の装具を取り上げられ、軍刀だけの携帯を許される。
山下少将、岡村寧次少将が立会って居た。
彼我共に黙して語らず。
余等三人は林立せる警戒憲兵の間を僅かに通過して小室にカン禁さる。
同志との打合せ、連絡等すべて不可能、余はまさかこんな事をされるとは予想しなかった。
少なくも軍首脳部の士が、吾等一同を集めて最後の意見なり、希望を陳べさして呉れると考へてゐた。
然るに血も涙も一滴だになく、自決せよと言はぬばかりの態度だ。
山下少将が入り来て 「 覚悟は 」 と 問ふ。
村中 「 天裁を受けます 」 と 簡単に答へる。
連日連夜の疲労がどっと押し寄せて性気を失ひて眠る。
夕景迫る頃、憲兵大尉 岡村通弘(同期生)の指揮にて、数名の下士官が歩縄をかける。
刑務所に送られる途中、青山のあたりで昭和十一年二月二十九日の日はトップリと暮れてしまふ。

たいへん印象的な文章だが、これは磯部の 「 行動記 」に ある、
二十九日午後の陸相官邸における状況描写である。
首謀者磯部には自決の意思はなかった。

「 余はどうしても死ぬ気が起らなかった、自決どころではない、
 山王ホテルから脱走して支那へ渡ろうと思って柴大尉に逃げさせてくれと頼んだぐらいであった。
どこまでも生きのびて仇討をせねば気がすまなかったのだ」 (「行動記」)
たいへんな強気をのこしている彼ではあるが、その本心は公判闘争にあった。
捕えられたのち、
「 そう長く生きていると思っていませんので、
畢生の至純を傾け尽して御國のご維新のために陳述したいと思っております 」
と 述べて、その公判闘争への希望と期待をたぎらせていた。

首謀者 村中孝次 も、右の記述には「 天裁を受けます 」 と山下少将に答えたというが、
彼にももちろん自決の意思などなかった。
「 わたしどもはあくまでも自己の信念に生きこれを貫徹することによって、この責を償いたいのであります。
もし生あらばあらゆる努力を傾けて一日も速やかに昭和維新を実現するよう、
あくまでも翼賛これつとめたいと思う」 (村中調書)
これが村中の本心であった。

しかし首謀者たちには自決の意思が全然なかったわけではない。
栗原安秀は首相官邸で一旦自決をはかったが、部下にとめられて決心を変更したし、
また 安藤輝三も二十九日十一時前後、山王ホテルで兵を返すことを決断したが同時に自決を心に決め、
兵をホテル前の歩道に集め訣別の言葉を述べたあと、拳銃一発その場に倒れた。
しかし かたわらにいた兵にさまたげられ弾丸は急所をはずれ、病院の手当てで生き残った。
栗原は死より生への転向をこういうのである。
「 私は首相官邸で自決しようとして果てませんでした。
わが愛する下士官兵は、私の手をとって遂に私を拘束したのであります。
ここにおいて私は翻然として死ぬことをやめたのであります。
私は、私の生きんとする生命のある限り維新のために尽すべきを、臣子の道なりと信じました。
ただ、今日初めて生は死よりも難きことを発見し得たのでありますが、
今度は依然として維新に向って前進するものであります」 (栗原調書)
維新革命家を辞任する栗原の面目躍如たるものがあるが、彼はこの決意の通り、
刑死のとき十字架前に座して 「栗原死しても維新は死せず」 と 絶叫し銃殺された。
維新革命家にふさわしい死であった。
とにかく、首謀者たちの多くは、死を捨てて生のあらんかぎり維新を戦おうとした。
それは公判闘争への盟であった。

陸相官邸
この場合、軍首脳者たちは彼らがいさぎよく陸相官邸で自決してくれることを望んだし、
また、彼らも事ここに及んでは自決の途をとるだろうと考えていた。
すでに 二十八日午前には、
主だった将校たちは官邸において山下少将や堀第一師団長、
小藤大佐などを前にして、
「 兵は帰し お上にお許しを乞う、われわれ将校は一同自刃してお詫びする 」
と 誓ったこともあるので、事が敗れ彼らが兵を返したあとは、必ず自決するものと判断した。
そのため自決の場所として陸相官邸に彼らを集合せしめたのであった。
だが、首謀者たちの心境は既述のとおりであったが、なお、一般の将校たちの心のうちはまちまちであった。
テンデ始めから自決の意思なく依然昭和維新のために働くというものから、
いさぎよく自決してお詫びしようとするもの、また、心境複雑にして何れとも決しかねているものなど、さまざまであった。

陸相官邸に真っ先に到着したのは、
陸軍省、参謀本部に近く警備していた将校たち、
坂井中尉、高橋少尉、麦屋少尉の三人であった。
このときの状況を高橋太郎は、
「 二十九日朝、名は知りませんが 参謀やその他の将校が来まして状況を話し帰順を勧告しましたので、
私ら将校は協議をし下士官以下は、帰順せしめ、私ら将校のみ自決の決心をしました。
そのうち戦車が攻撃して参りましたので、わたしら将校は挺身し皇軍相撃たざるよう切望し、
次いで全員集合せしめたる上、訣別の辞をのべ兵を参謀に渡しました。
それから、私達将校は陸相官邸にかえりますと、
玄関に私の元聯隊長の山下閣下がおられましたので、私らの決心を伝えました。
すると 山下閣下はわれら三人 ( 坂井、麦屋と私 ) を一室に案内しました。
そこで、私達は自決すべく身辺を整理しておりますと、
三原中佐 ( 坂井中尉の元大隊長 ) および井出大佐が来られましたので、
われらの決意を示し最後のお別れを告げ、三原中佐に介添を依頼し各々遺書を認めました 」

この歩三の三人は自決組であり別室に入れられていたのである。
そこに、半蔵門附近の警備に任じていた清原が入ってきた。
清原は今暁来の宣伝放送にその去就に迷っていたが、
戦車にのった同期生から勅命は下ったと聞いて 率先、兵を率いて歩三営門まで送りかえし、一人陸相官邸に入った。
山下少将に決意をきかれ自決しますというと、坂井らのいる部屋に入れられたのだ。
坂井が「 よくきた、一緒に死のう。早く遺書を書け 」 と いった。
だが、さきの高橋はつづけていう。
「 残念なことには麦屋少尉の遺書を書きおわるのがおそかったので決行の時機を失したのですが、
もう少し早ければその目的を達しておったのでしょう。
即ち、地図により宮城ならびに大神宮の位置を標定し、頭をその方向に伏して、
拳銃を以て自決するところまで準備が進行しておりましたが、
その時野中大尉、鈴木少尉、清原少尉 (筆者註、清原が最初に軟化したと思われる) らの同志が、
生死は何処までも同志とともにしてくれ、やるなら是非同志と会ってくれ、わしらも もちろん死を期している。
同志全部が一緒に自決しようではないかとて、われらを諫めたので、同志に会うことにきめました。
その結果、" 大御心のままに裁かれ昭和維新實現の過程を看視するの必要あり "
との 議まとまり、現在の結果を招いたのであります」 (高橋調書)

話をもとに戻そう。
陸相官邸に最初に入ったのは自決組の坂井中尉ら三名だったが、
ついで首相官邸にあった中橋中尉、中島少尉、林少尉、池田少尉が官邸に入ったが
これらの四人組は自決する気が無かったので、別の広間に入れられた。
しばらくすると、清原少尉、これは自決組へ、
新議事堂にいた野中大尉、常盤少尉、鈴木少尉が参着したが、
自決の意思がなかったため広間へ入れられさきの四人と合流した。
いちばん最後に官邸に入ったのは、
山王ホテル組で、香田大尉、對馬、竹嶌、渋川、それに村中、磯部、田中といった人々であった。
もちろんこれらの人々も自決する気はなかった。
結局自決を一旦決意したのは、さきの坂井以下四名だけだったが、これも大勢にしたがい自決を思いとどまった。

始めから公判闘争を期していた池田少尉は、当時の模様と心の動きを次のように説明している。
「 室内には参謀や多数の将校がきて、血を流さないでよかったと申されましたが、
中には、切腹しろ切腹しろという人もありましたが、今死んでは犬死になるから自決はしなかったのであります。
即ち一旦國法に反した以上刑罰を受くることは、もとより覚悟の上で生命など問題にしておりませんが、
せめて公判を通してわれわれの精神を國民に知悉せしめ、
國民の皇國精神を勃興しておわりを遂げたいと思っておりましたので自決しなかったのであります 」 (池田俊彦調書)
だから、その大広間ではなお闘志満々であった。
「 私たちは自決を思い止まり、野中大尉について廊下をぬけてゆくと、広間にみな集まっていて、
タバコを吸っているではないか。逆に維新斷行はこれからだ、という意気天をつくの有様である 」
 (清原康平述、「命令! 警視庁を占領せよ!」)

反撥の心理
こうして彼らは陸相官邸において、軍当局ないし先輩たちの期待にもかかわらず、
まん然と時を過ごし夕刻になって縛についた。
そこでは、すぐる四日間にわたる苦闘のあとの反省はいささかもなされなかった。
依然として昭和維新への意欲をたぎらかせていた。

「 尊皇絶對で誠心誠意ご奉公する考えであります 」(中橋基明)

「 現在でも決行当時の心境に変化はありません、
ただひたすら昭和維新の實現をみなかったのが残念であります 」 (田中勝)

「 わたしどもの意のあるところを公判により極力内外に伝えて 最後的に御奉公をするつもりであります」 (對馬勝雄)

「 最後まで信念に向ってご奉公するのであります。それだけ自分として最後まで希望に満ちているのであります」 (中島莞爾)
これらの若い人々の言うところであるが、
同じように香田清貞にしても、
「 二十九日までは私どもの蹶起の趣意精神は國民に徹底していると思って、
私どもの任務はすでにおわったと考えましたが、
その後の一般観察から、これは考え違いでほとんど徹底していないことを知りましたので、
これを徹底するところまでやらなければ任務はおわっていない、徹底せしめることは私どもの責任である。
しからざれば、單にお上の宸襟を悩まし奉り、
世上を騒がしただけで何らの効果ないばかりか、沢山の弊害を残したにすぎないと考えます 」 (香田調書)

と、彼はなお初志の貫徹に邁進をちかっているのである。
いずれも表現の違いはあるが、依然として昭和維新のために闘うというのである。
それはもちろん今後の公判に期待してのことであろうが、それにしても事件失敗のあとの反省のないのが不思議である。
彼らは今にして死を恐れたのであろうか。

だが、右の香田にしてもすでに事件中死線に立っていた。
二十九日朝 山王ホテルにあって、もはや皇軍相撃不可避と判断した香田は、
相対峙する第一線同士が相談し互いに撃ち合いをしないように解決すべきであるとして、
彼がこの際対峙する両軍の間に道路上で自決しこれで撃ち合いをやめてもらおうと、
まさに飛び出そうとしたのを丹生その他の将校にとめられて目的を達しなかったことがある。
だから命を惜しんでいたのではない。
彼らはいつでも死の覚悟はできていたと見るべきであろう。

思うに、わたしはそこに軍当局 とくに幕僚たちに対して 心情的につよい反撥がかくされていたと考える。
それは四日間のあとをかえりみると、
その始め彼らの一挙を賞賛し 「 われわれもやる 」 と 意気込みを示していた幕僚たち、
あるいは、彼らの心情をよしとし同調を示した軍当局、
これがために、
これらの人々に期待して無為にすごして敗退した。
この敗退における彼らの悔恨は軍部そのものへの不信に向けられていた。
しかも、彼らが兵を収めて孤立すると、
これまでと打って変って幕僚の威勢のよさ、
その幕僚たちは彼らに死ねという。
あるいは、死ねといわんばかりの冷酷な仕打ち、
それは磯部のいうように
「 まさかこんな事をされるとは予想しなかった 」 のであり、
「 血も涙も一滴だになく自決せよといわんばかりの態度 」 に 反撥するのも情の当然といえよう。
たしかに
「 多數同志は自決する決心で陸軍省に集りおのおの遺書等を認めたのであったが、
当局者の "死ね、死んでしまえ" と言ったような残酷な態度に反感を抱き、
心機一転して自殺を思い止る 」(磯部「行動記」)
であり、
「----将校ヲ陸相官邸ニ集合ヲ命ジ憲兵及其他ノ部隊を以テ拳銃、銃剣ヲ擬セシメ、
山下少将石原大佐等ハ自決ヲ鞏要セリ。
一同ソノヤリ方ノアマリニ甚ダシキニ憤慨シ自決ヲ肯ンゼズ
( 特ニ謂レナキ逆賊ノ名ノモトニ死スル能ワザリキ ) 今日ニ至レリ 」 (安藤遺書)

これが彼らの本音であろう。
もしこのとき軍首脳部すくなくとも彼らに同情を示す軍幕僚や旧上官らが、
彼らに じゅんじゅんと説示するところがあれば、彼らも喜んでその死に満足したであろうかと思われる。

ここに若い少尉 安田優の言うところをかいておこう。
彼は二十六日渡辺邸襲撃で受傷し一旦陸相官邸で応急手当をうけたあと、
赤坂伝馬町の前田外科病院に入院し治療をうけ二十九日午後二時頃まで入院中であったが、
「 このときラジオにおいて勅命により事のいかんを問わず所属隊に復帰すべしときき、
まず首相官邸に行かんとし自動車にのり行ったところ同志がおらず、陸相官邸に行きました。
この時参謀の砲兵大尉に会い同じ砲兵であるので二人で相擁して泣きました。
わたしはここで二、三時間まっていましたが、
私は自決の為 拳銃を腹の中にしまっておったのであります。
このとき私の考えたことは自決するのが一番この世の中では楽だと思いましたが、
自決したならば世の中はどうなるのだろうかと考えました。
しかし 私としてはどうしても自決せねばならぬと考えたのであります。
午後六時頃であります、
このとき 石原大佐は お前たちは自首してきたのであろうと侮辱的に聞きましたから、
私は自首したのではありません、
武人として面目を全うさせていただきたい為でありますと答えました。
私はこの時、非常に遺憾に思うたことは、自決する機会を与えられなかったことです。
即ち私をしていわしむることを聞き、しかる後武人の最後を飾らせていただきたかったのです。
単に時間だけ与えられても、結局それならば私達は何をやったか無意味なものになると思います。
つまり陸相官邸に病院から行ったのは、赤穂義士的な最後を求めたいと思ったからであります」 (安田調書)
彼は自決のためにわざわざ病院から官邸に出かけたことを悔いたのである。
だからまた彼は、その当時の心境を、
「 現在の心境は自分の言うべき事を全部言って、克くわかってもらって自決させて頂き、
七生までも維新の精神に生きまして、陛下の万歳を祈りたいと思います」 (安田調書)
と 切々と訴えた。
たしかに軍当局のあまりにもかわった仕打ちへの不信不満は、
彼らをしてその心情を逆立ちせしめたのだというるだろう。

 大谷敬二郎  二・二六事件  から


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