遊煩悩林

住職のつぶやき

訪問販売にご注意

2007年10月19日 | ブログ

先日、三重教務所からのお知らせに次のような記載がありましたのでお知らせします。

近頃、新聞報道等で京阪神を中心に、僧侶を装う者から仏画や念珠等を高額で売り付けられたとして、関係府県の警察に被害届が提出されているとの記事が掲載されております。
去る5月には、大阪市内において「東本願寺 本山 布教師 鈴木英順」を名のる者が、一般家庭や商店などを訪問し販売活動を行っているとの情報が寄せられております。
つきましては、貴寺院のご門徒の方にも被害防止のため、お知らせいただきたく存じます。

〈鈴木英順を名のる者の特徴〉

  • 「東本願寺 本山 布教師 鈴木英順」という名刺を持っている
  • 身長は約175cmの小太りで、年齢は40歳代であり、関西訛りのない話し方をする
  • 紫色の足袋、菊模様の輪袈裟を依用している

以上のお知らせです。ご注意ください。
もし、似たような販売行為を受けたことがある方はご連絡ください。
しかし、「僧侶を装う者」といいましても、「僧侶」なのか、それを「装う者」かは見た目ではわからないのが実際です。よく「お坊さんぽい人」とか「お坊さんぽくない人」とかいろいろありますが、真宗の僧侶はいわゆる「ぽくない」人が多いなんていわれます。剃髪の義務がないということがその主な理由でありましょうが・・・。
いずれにしても見た目の問題ではありません。「行い」の問題です。見た目は確かに重要ですが、そればかりを判断基準にしてしまう私たちのあり様に被害に遭う可能性が潜んでいるのです。
お互いに注意したいところです。
お寺にも日々いろいろなセールスが来ます。金の延板から下着まで、さまざまです。


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浄土往生人となる

2007年10月15日 | ブログ

2月からスタートした南勢1組の真宗入門連続講座(第8次壮年特別伝道/以下「特伝」)の第8回本講座が11日、常照寺にて開催されました。
最終となる今回は、講師である尾畑文正同朋大学教授から今回の特伝を総括して講義をいただきました。
この連続講座をとおして私たちは何を学んだのだろう。
尾畑氏は「信心は数値化できない」と表現して教えてくださいます。私たちは仏教に限らず、何かを学んだとき、そこに何らかの達成感や評価を求めてしまいがちです。ですが、どれだけ学んだからレベルがいくつだとか、何点だとか。信心にそんな評価はできないということです。また、その必要もないのでしょう。しかし、何らかの評価を求める私であったり、認めてもらいたいという願望を持っているのが「私」でもあります。
逆にいえば、この評価や願望を求めるありのままの私が「私」であったと自覚されてくることが、私が仏法を聞くことの証であり、聞き続ける歩みにつながるのでしょう。
仏道には「難行道」と「易行道」があると説かれます。厳しい修行をつむ難行道に対して、念仏申す行を易行といいます。ただし念仏を申すことは易い行でも信を得ることは難しいとも教えられます。「易行難信」なのです。
「ただ念仏して救われる」という易行が教えられているのに、そのことを素直に受け止められないところに「難信」があります。真実がそこに説かれてあるのに、それを真実と受け止めるためには回り道が要る、そんなややこしい存在が「私」として見出されてきます。
特伝では、一貫して観無量寿経という経典の序分をテキストに学んできましたが、この序分はいわば経の入門部ではあるけども、そこに「結論」がすでに説かれていると教えられます。その真実を確かめていく歩みがこれからはじまります。
今回で特伝というかたちでの連続講座は修了ですが、それは同時に聞法の生活のはじまりです。
仏法を聞く目的、そして理由は「浄土往生人となる」ことです。このことを私たちの課題として、いかに継続的に生活の中で、仏の法に聞き歩んでいくことができるのか。特伝修了者の皆さんとともに私にとって大切な今後の勤めであります。受講者の皆さんおつかれさまでした。

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読書を迫られて

2007年10月10日 | ブログ

読書の秋とよくいわれます。食欲、運動その他いろいろ忙しい季節であります。
ある機関誌の企画として「書評」を掲載することになりました。
書評といいましても、批評というよりは書籍紹介か読書案内のようなものです。
もともと読書が嫌いなつもりはないのですが、毎日、新聞や週刊誌、さまざまな情報誌、機関誌、冊子などが次から次へと手元に届き、パソコンに日々各種多様なメルマガが配信され、インターネット上の話題や情報に目をとおしているだけで一日が暮れていってしまいます。朝起きて、昼食べて、夜食べてしているだけで、読書が日常の習慣になっていない私にとって、この「書評」は読書の必要に迫られる格好のご縁です。なにせ原稿に締切があるのですから、読まないわけにはいきません。
というわけで、早速1冊、また1冊と読んでいるのですが、なかなかちょっとした時間に読んいるだけでは進んでいきません。かといって、いくら秋の夜長とはいっても、晩酌をした夜などはどれだけ気分よく読み進めても、翌日読み返さなくてはなりません。やはり読書は慣れと集中力が必要であります。
ましてや、その本を他人に紹介するわけですから、読書感想文というわけにもいかないでしょう。かといって「こんなことが書いてある」「あんなことが書いてある」では、くだらないあらすじになるか、目次のサブタイトルの羅列になってしまいます。これではいくら魅力のある本も、その魅力をそぎ落として、読もうとする気力さえも奪ってしまいかねません。
テレビドラマや映画でもそうですが、それが話題になったとき「あそこは泣けた」「ここはよかった」と感じたままを発表しあうわけですが、主観的感情論の発表会だけでは、互いの価値観を確かめることはできても、そこに表現されている魅力を第3者に伝えることは難しいことです。だから、この手の話題でよく話題に取り残されてしまう人がでてきてしまうのでしょう。いかに、そのものの魅力を伝えることが下手なのか、よくよく反省させられます。
書物であれば、書き手が何を伝えたくて、それがどのように表現されているのか。読み手である私がそこからどんなメッセージを受け取っていくのか。どんな作品にも魅力があるはずです。それを感じられないならば、それは受信機であるこちらの問題でしょう。
しかしながら、視聴率至上主義のテレビ番組や興行主義の映画に慣らされてしまっている受信装置のチャンネルはそう簡単に切り替えられるものでもなさそうです。
魅力を伝えるには、魅力をまず感じなくてはなりません。今回の「書評」の機会によって、受信装置の感度を正常に整えたいと思います。同時にそこから「正常な感性」とは、ということも考えてみたいと思います。

ところで、前住職が本堂に書棚を設置し、そこに記したことばが思い返されます。
「聞こえるうちに聞きましょう。見えるうちに読みましょう」

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呼応

2007年10月05日 | ブログ

ビルマ(ミャンマー)に平和と民主化を願う仏教徒有志によるミャンマーへの抗議声明につきまして、去る10月1日の「遊煩悩林」でその賛同と呼応をお呼びかけ申し上げたところ、仏教徒にとどまらず各方面から賛同のメールをいただきました。
皆様からいただいたご意思を、昨晩、その窓口となってくださっておられる東京の存明寺さまにお届けしたところ、「本日10月5日午後、有志によりミャンマー大使館ならびに首相官邸に提出します」とのご返事をいただきました。略儀ながら、この場を借りてその呼応に対してお礼申し上げます。
また、この呼びかけを直接送ってくださいました、名古屋東別院の荒山淳氏にも改めてお礼申し上げます。
私たちが、如来さまをはじめ、さまざまな「呼びかけ」をいただきながら生きていることを、今回の「ミャンマーへの抗議声明」をとおして改めて知らされました。
こうして直接的に目に見えるかたちでお呼びかけいただくことによってはじめて知らされる「呼びかけ」もありますが、実は私たちが気づかないところで、たくさんの呼び声があることを思います。
その呼び声に気づいた時、そこからは「気づかない」のではなく「気づかないようにしている私」であったり、「聞こえないふり」「見ていないふり」をしている私の姿が見出されてきます。
「如来の勅命」に対して、どのように私たちは「呼応」していくことができるのか。それが私の「生きることの内実」であり、「私」の正体なのだと思います。

このたびの抗議声明への賛同と呼応の呼びかけは非常に不案内で、応じにくいものであったにもかかわらず、たくさんの呼応をいただき本当に有り難うございました。
また、当方の不案内で、提出後もメールをいくつか頂戴しております。この場にてお詫びを申し上げます。

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ミャンマーへの抗議声明

2007年10月01日 | ブログ

御同行御同朋へ

抗議声明への賛同と呼応を求めます
今、われわれはビルマ(ミャンマー)で起こっている緊急且つ深刻な事態に対して、人間として、仏教徒として、一人ひとりの意思で何らかの行動を起こし、発信をせずにはいられません。
ここに、日本政府とビルマ(ミャンマー)大使館に対して送る声明文を作成いたしました。
ご一読の上、賛同し呼応いただけるならば、われらの共同声明として急ぎ提出したいと存じますので、何卒よろしくご協力下さいますようお願いいたします。
2007年9月29日
ビルマ(ミャンマー)に平和と民主化を願う仏教徒有志

 

「ビルマ(ミャンマー)に平和と民主化を願う仏教徒有志」によるミャンマー日本大使館宛ならびに内閣総理大臣宛の抗議声明文が届きました。
下記に転記しますので、ご賛同いただける方は常照寺(jyosyoji@mac.com)にメールください。

 

ミャンマー連邦国家
日本大使館 御中

私たちは人間として、仏教徒として、貴国でいま起こっているミャンマー政府政権担当者による、僧侶や市民大衆への武力鎮圧や無差別発砲などという非人道的行為に対し、深い悲しみと憤りの念を抱きます。
非暴力直接行動のデモ隊に武力を行使することは、仏教徒としても政権担当者としても恥ずかしいことであります。
ただちに僧侶や市民大衆への暴力を停止し、対話と民主化への政治的解決を図るべきであります。
そのためには、アウサンスーチーの自宅軟禁を解除し、すべての政治犯を無条件釈放することが望ましいことです。
仏教徒の国である貴国が、裏も表もないまさに微笑みの国として、アジア各国、世界各国から尊敬される存在に生まれ変わっていただきたいのです。そのためには勇気を持って、武力ではなく仏教の慈悲と智慧による変革への道を見いだすことで、この憂慮すべき事態を克服してゆかれることを、私たちは心から願っております。

2007年9月29日
ビルマ(ミャンマー)に平和と民主化を願う仏教徒有志

 

日本国 内閣総理大臣

福田 康夫様

いま、ビルマ(ミャンマー)では、軍事政権による僧侶や市民大衆への武力鎮圧が行われています。この事態に対し、私たちは人間として、仏教徒として深い悲しみと憤りの念を抱かずにはおられません。
1988年以来、軍事政権は民主化の要求を拒絶し、人権を抑圧する恐怖政治を続行してきました。90年の総選挙で圧勝した民主化を推進する議員の活動も封じ込め、国会は無視され、そのシンボル的存在であるアウンサンスーチーさんを自宅軟禁状態においています。

軍事政権の独裁により、貧富の格差は拡大し、この夏、市民の生活に打撃を与える燃料費値上げはさらに深刻な生活危機を招きました。その中から起こされた抵抗のデモは、あたかも燎原の火のごとくに広がりました。その核となったのが、仏教徒僧侶たちの非暴力直接行動であります。

これに対し軍事政権は、デモを武力鎮圧し、軍隊は無差別発砲を始めました。9月28日には、死者9名のうち日本人ジャーナリスト長井健司さんが撃たれて死亡したニュースが流れました。
私たちは訴えずにはおれません。この軍事政権を承認し、ODAなどさまざまな経済支援を行ってきた日本国政府の責任は余りにも大きいことを。

今こそ、日本国政府はビルマ(ミャンマー)との政治関係を洗い直し、軍事政権の暴力支配を停止させ、民主化への対話と政治的和解と政権委譲への道を切り拓くためのあらゆる努力をすべき時であります。
以上、私たちは日本国政府に対して、すみやかな解決への対応を求めます。

2007年9月29日
ビルマ(ミャンマー)に平和と民主化を願う仏教徒有志

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