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遊煩悩林

住職のつぶやき

熱と光を求めて

2016年06月03日 | ブログ

「御開山に申し訳なかったというような気持ちはないんですか」

かつて本願寺を糾弾された米田富さん。

いや今でもそう私たちに問いかけてくださっている米田さんの手帳や名刺が、ユネスコの記憶遺産に登録されたという。

時事ドットコム http://www.jiji.com/jc/article?k=2016052500815&g=prk

 

登録されたのは米田さんの手帳と名刺のほか、「第3回全国大会協議会提出議案」「衡平社趣意書」「猪原久重名刺」の5点。

いずれも奈良県の水平社博物館が所蔵の史料です。

この5点が『と衡平社 国境を越えた非差別民衆連帯の記憶』として、アジア太平洋地域ユネスコ記憶遺産として登録されました。

 

6月2日、三重教区の「差別と人間を考える協議会」の外地研修にて、発祥の地といわれる奈良の西光寺を訪ね、水平社博物館を見学させていただいてきました。

水平社博物館 http://www1.mahoroba.ne.jp/~suihei/index.html

ご住職や博物館のガイドさんのお話をうかがって、「日本で最初の人権宣言」ともいわれる「宣言」が生まれた背景について、今まで気づくことができなかったことを学びました。

それは被差別民衆が、差別してきた側であったはずの対岸の支持を得てが成立していったということです。

それは「宣言」が、被差別民衆の非差別民衆による被差別民衆のための宣言ではないということでもあります。

今回の研修では、その対岸の支持者について具体的に「三浦大我」という人物の名を聞かせていただきました。

西光寺の対岸に位置する誓願寺の住職で、筆名を「参玄洞」といい、「中外日報」の記者でもあった三浦は運動を全面的に支持したといいます。

創立趣意書『よき日の為めに』は、この参玄洞の協力がなければ刷り上がることはなかったと。

宣言が被差別民衆のための宣言でなかったというのはこのことです。

マイノリティの問題はそのままマジョリティの問題だと。

救われなければならないのはいったい誰なのか。

「御開山に申し訳なかったというような気持ちはないんですか」

改めて問われました。

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