遊煩悩林

住職のつぶやき

「生」の内実

2007年09月20日 | ブログ

暑さ寒さも彼岸まで。
「もう彼岸というのに、今年はいつまでも暑いですな」とは、例年の彼岸のご挨拶であります。
そうこう言っている間に「よぉ冷えますな」と言う時が来るのですから、しばし余暑を楽しみたいところです。
さて、お盆が過ぎて束の間、お彼岸の入りです。
お彼岸のお参りに寄せていただくと、「おはぎ」をご馳走になりながらいろいろなお悩みや想いを聞かせていただきます。
最近、長女をなくされた99歳のおばあちゃん。誕生日を祝ってもらっても、孫に「いつまでも元気で長生きしてね」と言われても素直に喜ぶことができない心情。
来年の定年を前にするご主人。ご夫婦とも元気ですが「うちには子どもがないんで・・・」との老後の不安。
お二人のお話を「生老病死」の「いのちの問題」として聞かせていただきました。
「子どもの存在」という点だけをみても、あったらあったで悲しみを生み、なければないで空しさを生む。
人の数だけ苦悩があります。その苦悩をできるだけ遠ざけようとする「私」ですが、いくら遠ざけても逃れることはできません。
ならば向き合うしかありません。そしてその「苦悩」を正直に「苦悩」として受け止めるのです。「私」は悩み苦しみたくなんかありませんからついつい「苦悩」を自覚することからすら逃れようとします。しかし、その苦悩を苦悩として受け止め、その「苦」こそが私の「生」の内実であったと受け止めてこれたところに「生きることの意味」が見出されてくるのではないでしょうか。
また私の「苦」だけでなく、私を私たらしめてくれる他者の「苦」をその人の「生」の内実として捉えられたときに、苦悩の人生をともに引き受けて生きていくことの尊さが感じられ、ともに「苦悩する生」を生きていることの喜びが感じられてくるのではないでしょうか。
阿弥陀如来は私の苦しみを解決してくれるのではなく、苦悩する私を救いとってくださるのだと聞かせていただいています。
仏の智慧に遇わさせていただく彼岸でありたいと思います。

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