ワールドカップが終わった。
大河ドラマも終わった。
忘年会も終わった。
楽しみにしていたものが終わっていく。
この儚さは、ただ楽しいばかりでない日常の束の間を埋めるだけのものだろうか。
サッカーは負ければ終わり。
大河は主人公の死とともに終わった。
忘年会は飲んだくれて終わった。
サッカーも大河も忘年会も終わったけど、その前後や背景が気になる。
うん。終わったけど終わってない。
サッカーであれば、前回代表漏れした選手が得点。
今回、代表を逃した誰が4年後、いやオリンピックで活躍するかとか。
大河であれば、義時の死後の鎌倉、またいかに幕府が滅んでいくかとか。
忘年会ならば二日酔いを反省しながらどこまで記憶を辿れるかとか。
さて。
北条は上皇らを島流しに処した。
かの「承久の乱」。
その背景にみる「承元の法難」。
朝廷の念仏弾圧により4名は死罪。法然は土佐。親鸞は越後へ流罪。
その後、承久の乱によって、後鳥羽は隠岐、順徳は佐渡、土御門は土佐へ配流。
後鳥羽は出家。
親鸞は僧籍を剥奪されて流され、後鳥羽は僧侶となって流された。
後鳥羽は晩年、隠岐で「無常講式」を執筆したと。
講式はやがて、本願寺第3代覚如上人の子、存覚が自著に引用し「存覚法語」として伝わる。
第8代蓮如の「白骨の御文」の出拠は「存覚法語」だが、そのベースに「無常講式」。
念仏を弾圧した後鳥羽による願生浄土の思いを、親鸞はいかに知り、受けとめただろうかと。
「歎異抄」末には、死罪に遭うた4人の名。
まかりならんものか。
歴史上の出来事で済ませてはならぬ。
「首の飛ぶような念仏」であることを忘れてはならぬのだ。
それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。
されば、いまだ万歳の人身をうけたりという事をきかず。一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体をたもつべきや。
我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。
されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。
すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて、桃李のよそおいをうしないぬるときは、六親眷属あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。
さてしもあるべき事ならねばとて、野外におくりて夜半のけぶりとなしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。
あわれというも中々おろかなり。
されば、人間のはかなき事は、老少不定のさかいなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて、念仏もうすべきものなり。
あなかしこ、あなかしこ。
蓮如上人『御文』5帖目第16通「白骨の御文」
「あわれというも中々おろかなり」というが、「儚」をググると「おろか」とあった。
しっくりきた。