今春。
卒業式が3つ、入学式が3つ。
小学校卒業の次女が中学入学。
中学校卒業の長女が高校入学。
高校卒業の長男が大学入学。
ただ親が、卒業・入学が重なったといって慌てているだけ。
子にとってみれば、一人ひとりが二度とない卒業と入学。
自分もそうして卒業と入学を繰り返してきたはず。
ふと考える。
「親」に入学したのはいつだったか。
卒業はあるのかと。
妻の妊娠から親になることを考え始めたとすれば、そこが入学準備だろうか。
子が生まれて親の一年生だとすれば、親の卒業は。
子が成人したら卒業、社会人になったら卒業ということではなさそうだ。
死ぬまで親だ。いや死んでも子どもたちにとっては親か。
さて。
仏教に入門するというのはいつのことか。
果たして入門しているのか。知らず知らずにその門の内にいたのか。
たとえ寺に生まれたとしても、もしかすると門外か。
入門したとすれば、そこから出門するということがあるのか。
阿弥陀さまを"み親"といただく仏門の教えをいただく。
ほんとうの親とは。
その仕事、役割は何であったかと。
そう思えば、親だと思っているが親の勤めを果たしているのか。
やっているのはただ社会的な"保護責任者"の任を果たしているだけなような気がする。
よくご門徒の葬儀で、
今生での親の仕事を終えられて、いま諸仏の勤めに就かれておられる
などとお伝えすることがある。
子が親の死に際して、阿弥陀さまの尊前に親の棺を安置し、手を合わせてお念仏するならば。
その親はただの保護責任者でなく、まぎれもなく親だったと言うことができるのではないか。
ただ皆が皆、親が先に逝くわけでない。
故人が諸仏の位に就くというのは、ほんとうの"み親"のところに還られたということか。
出門があるかどうかはわかりませんが、"み親"のところに還るということが、ひとつ人の卒業としてあるのかと。
卒業式まで頑張らないと。
ん?卒業の準備となると、それは娑婆でいう終活か。
終活というとちょっと違うか。
娑婆は此岸。
"み親"のまします彼岸をたずねる法要を勤めます。
娑婆の卒業準備か、彼岸の入学準備か、はたまた終活か。
とにかく、ご門徒の皆さまに彼岸会のご案内でございます。
ご参詣をお待ちしております。
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