遊煩悩林

住職のつぶやき

業を卒する

2024年03月14日 | ブログ

今春。

卒業式が3つ、入学式が3つ。

小学校卒業の次女が中学入学。

中学校卒業の長女が高校入学。

高校卒業の長男が大学入学。

ただ親が、卒業・入学が重なったといって慌てているだけ。

子にとってみれば、一人ひとりが二度とない卒業と入学。

自分もそうして卒業と入学を繰り返してきたはず。

ふと考える。

「親」に入学したのはいつだったか。

卒業はあるのかと。

妻の妊娠から親になることを考え始めたとすれば、そこが入学準備だろうか。

子が生まれて親の一年生だとすれば、親の卒業は。

子が成人したら卒業、社会人になったら卒業ということではなさそうだ。

死ぬまで親だ。いや死んでも子どもたちにとっては親か。

さて。

仏教に入門するというのはいつのことか。

果たして入門しているのか。知らず知らずにその門の内にいたのか。

たとえ寺に生まれたとしても、もしかすると門外か。

入門したとすれば、そこから出門するということがあるのか。

阿弥陀さまを"み親"といただく仏門の教えをいただく。

ほんとうの親とは。

その仕事、役割は何であったかと。

そう思えば、親だと思っているが親の勤めを果たしているのか。

やっているのはただ社会的な"保護責任者"の任を果たしているだけなような気がする。

よくご門徒の葬儀で、

今生での親の仕事を終えられて、いま諸仏の勤めに就かれておられる

などとお伝えすることがある。

子が親の死に際して、阿弥陀さまの尊前に親の棺を安置し、手を合わせてお念仏するならば。

その親はただの保護責任者でなく、まぎれもなく親だったと言うことができるのではないか。

ただ皆が皆、親が先に逝くわけでない。

故人が諸仏の位に就くというのは、ほんとうの"み親"のところに還られたということか。

出門があるかどうかはわかりませんが、"み親"のところに還るということが、ひとつ人の卒業としてあるのかと。

卒業式まで頑張らないと。

ん?卒業の準備となると、それは娑婆でいう終活か。

終活というとちょっと違うか。

娑婆は此岸。

"み親"のまします彼岸をたずねる法要を勤めます。

娑婆の卒業準備か、彼岸の入学準備か、はたまた終活か。

とにかく、ご門徒の皆さまに彼岸会のご案内でございます。

ご参詣をお待ちしております。

http://jyosyoji.info

コメント    この記事についてブログを書く
« 迷子 | トップ | 迷妄 »

コメントを投稿