「御本尊を迎えたい」というご依頼。
正確には、家族にご不幸があって仏壇を設けたいというご相談です。
このご相談を「御本尊を迎えたい」という依頼として受け止めたという間が抜けたお話。
家族を亡くしてはじめて仏壇を家庭に安置することになった。何をどうすればいいのか。
「ではまず御本尊をお受けしましょう」
亡き人をお祀りしたいというのに、位牌云々でなく、まず御本尊である阿弥陀如来を受けてくださいというのは、人によってはいささか唐突に聞こえるのかもしれません。
よくわからないが、そういうもんだと割り切られる方もおいででしょう。
だけど、御本尊は本山からお受けできますといって、「お脇掛」云々、寸法・表装の仕様と言われて礼金表を出されると、なんだか。
どうしてもこのやりとりには、御本尊を商品化して販売している感が漂う。
娑婆の発想からすれば、本店謹製の品物を取り扱う販売店の如く。
宗教不信(坊主不信)の世間、仏壇を買えば御本尊がついてくるといった娑婆の現状において、なかなか納得のいく「お買い物」ではないのかもしれません。
無宗教・不信心が多勢を占めるとはいえ、阿弥陀如来を家庭に安置する。
故人の写真を飾っておくだけなら(自称)無宗教・不信心でよいのでしょうが、本尊を安置し、故人の法名軸を掛け、花を活け、香を焚き、火を灯すとなれば立派な宗教的造作。
まして、手が合わさったものなら不信心どころではない。阿弥陀如来の救済に預かる姿そのものといってもいいのでしょう。
だけど意識は無宗教・不信心だと。
世間的儀礼、慣わし、しきたりとして仏壇を設けて手を合わせているだけで、自分が阿弥陀さまの救済に預かろうなんて気持ちはさらさらございません。
あくまでも故人が成仏していればそれで満足です。
さて。
故人の成仏は私の救済をおいて成り立たない。
これもまた乱暴な言い方かもしれませんが、毎年のお盆に習うことです。
御本尊を迎えるというのは、個々人としてなかなか納得のいく「お買い物」ではないかもしれませんが、そういうものかもしれません。
こだわって、大枚を叩いて、納得の上で購入したモノに手を合わせるのも結構なことですが、もしかするとそれは自分の価値観を本尊にして拝んでいるのかもしれません。
そもそも「お買い物」であれば納得などいくはずもありません。
納得してから手を合わすのでは、いくら長生きしても間に合わない、のが浄土のおさとし。
納得がいくかどうかが問題ではないのだと。道理だと。
手が合わさることも、頭が下がることもなく生きている者の手が合わさり、頭が下がることが叶う人間として生まれさせる設えが仏壇という形式であり、そのはたらきを御本尊と。
なかなか。言葉がいたりませんが。
仏壇を購入するというビジナスライクな相談の中で、なかなかこのような口をはさむ余地を見出すのは難しい現場。
故人を祀りたいという要望に、御本尊を迎えましょうという「間」の話。
不信の克服はこういう余地にあるのではないかと。
阿弥陀さまの信用を貶めるような「営業」ばかりで、坊主が信用されないのは仕方がないとしてもです。
死んだ人を祀るところじゃない。御本尊をご安置するからお仏壇なんだ。お内仏というんだ、と。
大事なことでも、死者を追善供養する思考にとっては耳が痛いだけの話。
知ったような顔をして言っている私が、相手のことを何も分かっていないのだ。
さて、飛躍が過ぎるかもしれませんが、
世界のことがわかってきたような気になるのは
わからないものを切り捨てていくからである
養老孟司
朝日新聞「折々のことば」584
とメモから。
わかってきたような気になるのは、わからないものを切り捨てていくからです
と抜き出して9月の掲示板に。
世界のことがわかってきたつもりはありませんが、知っていることを一方的に伝えるのでない。
その時々の相手と互いに「わからない」ことを捨てず、大事に、丁寧に。
それがなかなか。
形式的に決まっているに過ぎないことを振りかざしている私は、わからぬでも伝えようとされた釈迦の発心を切り捨てているのではないか。
元も子もない。
追伸
本山のホームページがリニューアルされました。御本尊のページのリンクです。ご参考まで。
https://www.higashihonganji.or.jp/application/gohonzon/
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