遊煩悩林

住職のつぶやき

まんまんのひと

2011年08月29日 | ブログ

「100万回生きたねこ」の著者で昨年がんで亡くなった佐野洋子さん。?
余命宣告を受けてからも、喫煙と執筆を続けられたといいます。?
「死ぬ気まんまん」というエッセイに、医師とのこんな対談がありました。

佐野 私が「葬式やらないで、家族だけの密葬にしてくれ」って言ったら、
   息子が「そんなこと言ったら、人がだらだら家に来て迷惑だから」と。
?医師 それ、本当ですよ。
?佐野 ほんとうにそうなんだって!?
医師 最近は二人だけの結婚式もありますが、後が大変と思います。
   同僚や先輩のところや、親戚に挨拶回りが大変でしょう。
   結婚式もやっぱり昔の人の知恵だなと思います。
   結婚式をやれば、一遍で済むんですよ。
   みんな気が済むんだから、やればいいんです。
   だから、葬式もそれと同じで、ちゃんとやらなきゃだめですよ。
   それ一回で済むんです。
?佐野 儀式というのはやっぱり合理的にできていますね。

「一回で済む」「合理的」というのは、生々しい現実を見据えているなぁと。
余命を宣告されてからの医師と患者の会話はこれがいいのかもしれません。
そこには宗教色が排除されているようにも感じますが、そうではなく完全に「おまかせ」の境地を感じさせます。
さて問題は、葬儀を催す遺族がその死、というかその生をどのように受けとめて、どのような物語として人生に展開していくかです。

で、もうひとつ。

私は今のように、老人を敬うことを忘れた、役に立たなくなったものはいらないという国に生まれて来てしまった悲劇は、戦後民主主義と一緒に入って来た片手落ちの考えだと考える。家制度をこわした法律のせいだと思う。少なくとも私の子供の頃までは、老人はもっと堂々としていた。
? 誰もが親のめんどうを見たがらず、死ぬと遺産分けでもめる。
? 法律がそうなっているからである。
? 恥ずかしいと思わんか。親に育てられた恩も忘れるのか。
? そして老人の居場所も役目もあった。
? 老人の経験による情報がナマのまま役に立ったのであるが、今や情報は電波にのって、チラチラピーピーというコンピューターがすべて引き受けている。だからもう役に立たないのだ。ゴミと同じなのだ。
? 政府は明らかにゴミと同じ扱いをしている。例外は、金を持っている老人はゴミではない。政治家は、六万円の年金で暮らす人ではないから、下々のことはわからないのである。

「遺産分けでもめる」のが、そのような制度に起因することは同調しますが、ここではただ、法律や政治家・官僚を批判しているだけではないでしょう。?たかが首相が代わっただけですむ話ではありませんし、法律がかわってもやはりもめるんでしょう。
かつて「人は死んだらゴミになる」といった人も確か癌だったと思いますが、それももう古くなってしまいました。?
もはや「人が老いたらゴミにする」のが現代ということです。しかも条件付きで・・・。
?これらは生老病死の四苦の意味が、見失われてきたことを物語っています。?
ですがやはりその「苦」の意味が開かれてこないと、ゴミになるために生き、病み、死んでいくのが人生、それが私たちが生まれた意味になってしまいます。
?苦の意味が開かれてこそ、生まれてきたことの本当の意味が明らかになってくるのでしょう。

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