遊煩悩林

住職のつぶやき

同じ根っこ

2017年06月25日 | ブログ

今年も福島のこどもたちを三重へプロジェクトが開催される。

http://booses.net/2017.html


開催に向けての実行委員会で、スタッフの事前研修会について話し合っていた時、「今や1F(福島第一原子力発電所)から2F(福島第二原子力発電所)に関心が移ってきている」と聞いた。

廃炉が決まっている1Fがまだまだのなかで、2Fの再稼動を目指す動きがあるという懸念です。

数日前にたまたま見かけたこんな言葉が頭をよぎりました。

恥を忘れた人間は 人間であることをやめた人です

洪成潭『週刊金曜日』

「2F」に向けられた言葉ではなく、朝鮮学校への補助金再開を求める活動のなかで生まれてきた言葉ですが、根っこのところでつながっていることを感じます。

福島第一原発の事故が起きた半月後、東日本大震災によって校舎が全壊した東北朝鮮初中級学校に宮城県は補助金の打ち切りを伝えたという。

補助金の打ち切りは何も宮城だけの話ではない。『(週間)金曜日』によれば、「ヘイトスピーチ解消法」が成立するのを先回りして文部科学大臣が各都道府県に補助金交付の再考を促す通知を出していたという。それは「朝鮮学校は人権番外地」とのメッセージだった、と。そして「植民地主義に未だ終止符を打てないこの社会の恥を射抜く言葉として、「恥を忘れた人間は人間であることをやめた人です」と。

沖縄の基地問題も同根です。

さらに『金曜日』には、「恥をそれとして認識すらできぬ者たちが跋扈する今、人間であることの条件は分かち持てるのだろうか」。私の「無関心」が「子どもを狙った恥知らずな差別を支えている」とも。


親鸞は

無慙愧は名づけて人とせず

『教行信証』

という。

http://www.otani.ac.jp/yomu_page/kotoba/nab3mq0000000me1.html


罪に対して痛みを感じ、罪を犯したことを羞恥する心。「慙愧」がなければ人ではない、と。

「恥をそれとして認識すらできぬ者」が私だとすれば、私はもはや人ではない。ひとでなし。

福島のこどもたちの「放射能のないところで遊びたい」ということばによって、ようやく私の人間性が問われ、それに応えようとするみんなが人間性を回復させられている。

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